六. 誠心誠意
春の嵐も過ぎ去りし今は、瑞々しい新緑から埃立つ大地に至るまで、曇り空がもたらす恵みがしっとりと濡らす時期だ。ふと仰ぐようにして眺めた窓の外では光の玉を幾つも携えた蜘蛛の巣が、何とも粘り強くいじらしく、その危うげな形を保っている。
虚ろな目で空想にふけっていた矢先、小さく引き寄せる感覚で我に返った。ついに覚悟を決めた夏南汰は、今、見つめるべき先……彼女の確かな眼差しに正面から向き合って。
「本当に……いいのか?」
「はい」
「初めては痛いと聞く」
「……いいのです」
瞼を伏せる彼女の頰には長い睫毛が影を落とす。頰を染めてうつむいて、儚げに微笑む様に見惚れてため息をつく。
「初めては夏南汰様にと決めておりました」
はっきりと届く、それでいて甘い声色と共に小さな両手が伸びてくる。握られた胸元がいよいよ高鳴って。
「わかった。力抜いて? 夏呼」
「はい、夏南汰様……」
……って、
「ちょっと待って!!」
もつれる声に動きを遮れた二人は揃ってそちらを向く。すると早速視界に入り込む、後頭部から二つはみ出した熟れた林檎の色合い。
「なんで君たちの会話はいつもそうなんだ! ドレスのコルセットを締めるだけでしょ? 聞いてるこっちが恥ずかし……」
思わずだったのか、振り向くなりまた、うわぁ! と仰天の叫びを上げてすぐさま背を向ける動作は実にせわしない。だからあちらを向いていろと命じてやったのに自分で見てどうする。
対して着々とドレスの着付けを終えた夏呼ときたら相変わらず落ち着いたものだ。さすが男二人が語らう部屋へ着付け途中の背中を開いたまま訪ねてきただけのことはある。
「君に似合うと思って仕入れてきたのだが、このような構造になっていたとは知らなかった。さっき調べたばかりだから手慣れなくてすまないな、夏呼」
これはむしろ初めてでなくたって痛そうだ。案じて背中を撫でてやるも彼女は気丈に伸びた背筋から大丈夫です、なんて答えてくれる。反省だ。
次はちゃんと調べてからにしようと肝に命じている最中も、一層可憐に彩られた彼女の姿からはなかなか目が離せない。今、私は心ここにあらず。意識の半分は可憐な君。そしてもう半分は……
「よく似合うね、夏呼さん」
やっと振り向くことを許された、恥ずかしがり屋な君だ。
もちろん忘れた訳ではない。あの日、震え切った声を放ったユキはただ一人でこの屋敷を後にした。
そしてほんの数日で元通りになった。どうやら元通りからまた元通りになったようなのだ。
ドレスの試着を終えてこちらもまた元通り。いつもの装いに身を包んだ夏呼は夕が訪れる手前あたりで食材の買い出しに出かけていった。
「ねぇ、秋瀬」
何のことはない。またこうして過ごせるのだ。私はそう、思いたかった。
「わかってきたよ。君と夏呼さんは……やっぱり違うよね」
「何がだ?」
「…………」
「ふふ、変なユキ」
ゆっくりと染まりゆく窓際に佇んでしれっと言ってみせるのだが。
「やっぱり」
何やら意を決する気配を受けた背が強張っていく。
「二人がそうならそれでいいと思ったんだよ。びっくりはしたけど……咎めるとか、ましてや僕がどうこう言うことじゃないって。だけど違うんでしょう? ならああいうのはやめた方がいいと思う」
「ああ、いう?」
「一緒に寝るのとか。やめなよ」
強張ってしまう。この状態を超えるとどうなるか、私は知っている。
「ねぇ、秋瀬。ああいうのはね、世間一般では恋人とか夫婦がすることなんだ。こう……温め合うようなことを」
「じゃあアレもそうなのか」
「え」
「いや」
「え、ちょっ、アレって」
「忘れてくれ」
「あああああああアレって何!?」
君は壊れたラジオか。
内心ではあるがこうして茶化していることで乗り切れるのではないかと期待した。それでも終わる気配は感じられない。ユキは容赦もなく続けるのだ。
「君は夏呼さんの気持ちを考えたことがあるの? 彼女が周りからどう言われているか、知ってる?」
あんなに優しかったユキが。
「彼女はね、恐れられているんだ。あれは信頼なんかじゃない。主人の妾だから、敵に回したら厄介だからって。そういうのちゃんと見えているの?」
ユキが。
「秋瀬。君はそうやって、彼女を独りにしているんだよ」
何故。
「えーがの! 周りがなんじゃあ!? 夏呼は付いてきてくれとる! 私は……っ」
振り向いたらもう止められない。流れて流れて止まらなくて苦しくて、凍て付く水中に放り投げられたみたいに全身が痺れて視界が揺らいでどうしようもない。それでも何となくわかってしまう。
「私は……ただ……」
君がどんな目をしているか。
「もう知らん! ユキなんて嫌いじゃ!」
これ以上見られていたくもなくて、ろくに定まらない視界の中で何となくこっちという方向へ駆け出した。
「秋瀬! もう、子どもじゃないんだから!」
「わかっとるけんのう!!」
厳しい声色に心底嫌気がさした。まるで父親みたいで。兄みたいで。君ばかり、大人になっていくみたいで。
――秋瀬!
動きを封じられた瞬間、りん、と鳴る音を聴いた。これはよく知っている。そして思い出す。ユキは今でもずっとこの音を携えて私の元に来てくれるのだ。
「だって秋瀬はそうやって苦しんできたんでしょ? それでも逃れられなかった。形こそ特殊でもそれが紛れもない母の愛情だと知っていたからこそ……そんな中毒性なんだって言ってたよね? 同じことをしちゃ駄目じゃないか」
「じゃけぇ、それは……」
「こんなに震えて」
「…………っ」
否定のしようもないようなことをやはり容赦もなく言うけれど。
「馬鹿だね、独りだなんて思い込んで。僕は何処にもいかないよ」
「ユキ……っ」
「何処にもいかない」
それでもこんなにあったかいのだ。厳しくたって大人になったって相変わらず優しい君は、大きな両腕で強く締め付けながら頭にまでそっと、触れてくれる。
「僕は秋瀬が好きだから」
友でいてくれる。それを知るだけで私は、何度でも息を吹き返せそうだ。




