1st NUMBER『ラファエルと呼ばないで』
時はアストラル暦3700年。
ある書物にて知った事実。これは物質世界で言うところの西暦2000年代初期にあたるそうだ。二つの世界で1700年近くもの差が生じているその理由は、世界の誕生も文明の発展も元々はここ幽体世界の方が先であった為だ。
前世の記憶を持たない物質世界の人々は皆、そこに住まう人類たちの力で文明を切り拓いたと信じて疑わない。しかし実際はありとあらゆる能力、技術、知恵などが幽体世界から持ち込まれたんだ。記憶は無くてもそれぞれの魂に使命が刻み込まれていたからだ。
自然界も然り。例えばセレスタイト、マラカイト、アメジストにアクアマリン。有名どころの鉱石だって、物質世界で名付けられる前から既にこちらで名前を持っていた。同じ名前の英雄たちが2000年以上前に存在していたのが証拠だ。
だけどそれもやがては形を変えた。今や物質世界の文明は幽体世界を超えたと言って良いだろう。反対に幽体世界は文明に関する進化をやめ、魂の浄化に努める場となった。実際、幽体世界にはラジオはあれどテレビは無い。電話は全て固定電話。無線はあれど携帯は無い。
車や飛行機は確かに走っているけれど、あれって実はエンジンじゃないんだ。そう思い込んでいる人も多いみたいだけど、実際はそれっぽい形状の器に魔力や妖力を搭載してあるだけだ。
こんな風に僕は、前世の記憶を有する幽体の世界に住まう僕は、人々の常識と言われる範囲以上の知識を持っている。何故ならそれこそが僕が唯一見つけられた生きる意味だから。
「船の発祥もここが始まりか。海賊たちの冒険も、海神の歴史も……」
今日もまた幾つかを覚えた。ほんの少し満たされた感覚を覚えたのも束の間。
「やぁ、イヴェール。相変わらず勉強熱心なこった。あれだけの美声を持っていりゃあ出世もトントン拍子だろうに、おめぇ一体何をそこまで欲しがっている」
「嫌だな、そんなんじゃないですよ。僕は……」
僕は。
いいや、本当のところは縋っているだけか。
壁一面に書物が敷き詰められた歴史ある書館にはなんとも称し難い古めかしい匂いが漂っている。本の虫と呼ばれるほどここに入り浸り、数々の歴史を脳内に詰め込んでいく。空っぽの僕はこうすることでしか自分を律することが出来ないのかも知れない。
片隅の椅子にて新聞を折り畳みカッカッと笑う中年の男は、言葉遣いこそ荒っぽいがこれでも芸術をこよなく愛している人。いつも僕の歌を聴きに来てくれている常連客だ。
「おめぇはよ、なかなかの色男のくせにどうも辛気臭いところがもったいねぇよなぁ。芸能界からだって声がかかってるってのに、いつまでもあの星幽神殿で神への祈りだのなんだのってやつを歌い続けてる。神を敬うのは立派なことだけどよ」
こうして僕をからかうのもまた趣味の一環らしいその人は、僕がちらりと送ったセピア色の視線を受け取るなり、ああ、もったいねぇ……などと再び呟く。何が? 色男とか誰のこと言ってるの? もしや僕の姿を通り越して後ろに居る美形な誰かを……
ちらりと背後を振り返ってみる。古書の饐えた匂いこそすれど人の気配なんかは感じ取れず、次の可能性を見つけようと思考しながら元の方へと真顔で向き直る。
美形……だけど、よもやこの世の者ではない誰かが僕の後ろに立っているのではなかろうか。無理矢理なのはわかっている。しかしそれくらいしか思いつかない。
「辛気臭いっつってもよ、舞台の上のおめぇは別人というくらいに輝いてるぞ。そんなおめぇになら抱かれたい美人女優だって沢山居るだろうにな。無欲な奴だ、イヴェールよ」
これには思わず耳を疑った。見開いた垂れ下がりの瞼にくっきりとした深い影がさす。
僕に? 嘘でしょ、何言ってるの。こんなジメッとした濡れ鼠のような男に抱かれたい女性など居るものか。
「ましてやその美声だ。枕元で甘〜く囁かれちゃあ女はひとたまりもないだろうに」
枕元。そうだな、梅雨並みの湿度とおぞましい悪夢を提供する自信ならある。自分が如何に陰気なオーラを纏っているかなんてわきまえている。僕は歌うだけで十分なんだ。喋るのには向いてない。
「もうすぐフィジカルで言うところのクリスマスだろ。アストラルでも祝う習慣を持ってる奴らが多い。そこらじゅうにカップルたちが溢れ返っちゃあおめぇだって多少は寂しくならねぇか? ちょっとぐれぇ楽しんだってよ……」
やめてくれ。クリスマスに失礼だ。何せ僕の前世は色欲に翻弄され罪を重ねた目も覆いたくなるほど無様なもの。神にお仕えさせて頂いているだけでも五体投地で感謝すべきことなのだ。
常連客のその人はこんな風に僕を過大評価してくれる訳だけど、どれもこれもしっくりこないよ。自信なんて待てど暮らせど生まれてこないよ。こんな情けない僕を歌以外で愛してくれる人なんて、そんな物好きなんて……
……ただ一人。
ただ一人だけ。その存在がここに在ったなら、僕の空っぽの心が全て埋まるだろうという自信なら、ある。
そっと伏せた、泣き黒子が寄り添う垂れ下がり気味のセピアの瞳。腰の位置よりも長い同色の髪を靡かせて、身体のラインを拾わない神官の衣装を翻し。
本を棚に納めたなら、胸元のロザリオを握り締める。
きっとこの世界の多くの者が衆知しているその名は“イヴェール”。星幽神殿『賜りの間』にて神官見習いを『祈りの間』にて神歌を奏でるテノール歌手。ネガティヴはご愛嬌……と言えるレベルなのかは怪しいものの実力は確かだ。人間の中でも霊力が凄まじく長けている為に、魔族、妖精族はもちろんのこと、表立った言語を持たぬ植物たちにまでメッセージを伝えることが出来る。神童と呼ばれ続けた過去は伊達じゃない。
ふた月程前に十七歳を迎えたばかり。そんな一人の男が今、己の遠い過去に思いを馳せて。
――ナツメ。
背中で小さな呟きを零す。
「あまり買い被らないで。欲くらい本当はあるさ。僕が抱き締めたいのは、今世じゃ決して触れられない人。僕が全てを思い出す頃にはもう……この世界に居なかった人」
よりによって僕は歌手だから。
こんな切なる願いでさえ歌詞の一部にしか聞こえないのだろうと諦めかけていた。それでもだ。
「そうかい。なんとも深みのあるその歌の続きを聴かせてくれるかい?」
観客は今日も求めてくれる。僕を癒しの大天使などと思い込んでいるこの人はもう既に微睡みの目をしてこちらを見つめている。
だから歌うことにした。他に人が居ないのをいいことに、遠く高みに在るステンドグラスの天井へ向かって、貫くように音色を放つ。
知識を詰め込むのが生き甲斐なら、これは……これくらいは、使命と思っても許されるだろうか?
神よ……!
チラチラ光る、ヒラヒラ舞う。陽を纏った塵に過ぎないと知りながらも魅せられる、遠い世界の遠い過去。
今となっては触れることも出来ない真夏の煌めきが目に浮かぶ頃、観客の男がずずぅと啜り上げる音が聴こえた。
「ああ……染み渡るぜ」
喜びの声を聞きながら、僕はそれ以上の熱い雫を頰へと流していた。
僕はイヴェール。
本名は雪那。
意味はどちらも似通っている。前者は冬を指す言葉であるがゆえに、僕の中ではどちらも同じ“雪”に通じている。
――ユキ――
――のう、ユキ――
――大好きじゃ――
――愛しちょるけぇの――
君が何度も呼んでくれたその響きだけは決して離すまいと、今もこの胸に抱き締めているよ。




