2-9
玄関が開く音がして、兄の声に呼ばれた。
「理沙―。お客さん」
まさかと思ってベッドから飛び起きて階段を駆け下りる。
「理沙」
そこにはまさかの晃がいて、しかもスーツ姿で、昨日よりも大人っぽく感じる。しかし緊張で顔が強張っていて、その横でこの状況を明らかに楽しんでいる兄を蹴飛ばしたい衝動に駆られる。
「玄関前で電話なんかしてっから、連れてきた」
兄はそう言って、リビングへ入っていった。
「理沙、お友だちなら上がってもらいなさい」
兄にどう聞いたのか、母がエプロンで手を拭きながら玄関に顔を出す。
「あれ、理沙じゃなくて、賢のお友だち?」
「初めまして。理沙さんとお付き合いさせてもらっている田代晃と言います」
真っ赤になって晃が頭を下げる。あまりに赤いから私までうつって赤面してしまう。
「玄関じゃなんだから上がってもらえよ」
リビングからの兄の声に、母がスリッパを出す。
「どうぞ上がってください」
「いえ、タクシーを待たせていまして」
「じゃあ、清算していらっしゃい。一緒に夕飯でも食べましょう」
そう言って母はキッチンに戻ってしまった。
断る機会も与えられずに晃はタクシーの清算をして、大きな荷物に花束まで抱えて戻ってきた。
「これ理沙に」
はにかみと一緒にピンクの花束を渡された。控えめな香りが晃らしいと思った。
「ありがとう。花束貰うの生まれて初めて」
「僕も初めてだよ。花束贈るのは」
晃をリビングに案内する。
「お邪魔します」
「適当に座れよ」
兄に言われて晃と並んでリビングのソファに座ったところへ、タイミングの悪いことに腰にタオルを巻いた父が顔を出す。晃と目が合って、もう一度お風呂場に引っ込んで、部屋着姿で戻ってきた父の仏頂面に、緊張を増した様子の晃が立ち上がった。
「お邪魔してます。理沙さんとお付き合いさせていただいている田代晃と申します」
そう言って晃はスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出して、父に名刺を渡した。それから手を伸ばしていた兄にも手渡す。
「おい。お前、社会人のくせにちゅ、ちゅ、ちゅ、中学生と付き合ってるのか」
父が怒りで声を震わせ、しかも、ちゅを連呼したので、私も兄もおかしくて吹き出してしまった。晃だけが俯いて懸命に笑いを堪えている。
「何だ、何がおかしい!!!」
父の怒鳴り声が私たちの笑いに更なる燃料投下となって、くすくす笑いがあはは笑いにまで昇華する。父が怒れば怒るほど、笑いがこみ上げてしまって、目尻に涙まで浮かぶ。
「お父さん。ご飯出来ましたよ」
母の声でダイニングに移動することになった。
テーブルにはエビフライ、ヒレカツ、マカロニサラダに、冷奴が並んでいる。
父は不機嫌顔のままで席に着き、私たちはやっとの思いで笑いを抑えてから座った。父がいつもの誕生日席で、その左に母、兄、右に晃、私の順で、父のとなりに座る晃がかわいそうに思えた。
「それで君は何しに来たんだ」
乾杯もせずに父が晃に言って、母が止める。
「せっかくの料理が冷めちゃうじゃない。さあ、みんなグラスを持って。お父さん号令」
父は母に逆らえず「乾杯」としぶしぶ言った。父がビール、私たちはお茶の入ったグラスを合わせる。父も一応晃とグラスを合わせてから、一気に呑んだ。父の空いたグラスに、晃がビールを注ぐ。父はそれも一気に呑んで、再び晃がグラスを満たした。
「いいのよ。うちは手酌主義なんだから、さあ食べて食べて」
母の言葉に晃が箸を持つ。
「ねえ晃、今日何しに来たの?」
つい訊いてしまった。
父の動きが止まる。
晃が私に顔を向ける。明るいところでゆっくりと見る晃は本当に整った顔をしていた。夏なのに肌が青白いのは少し軟弱な感じもして、それすらも心をくすぐった。
「忘れ物届けに」
「そっか」
「あとで渡すね。鞄に入ってるから」
「やっぱりこんな状態じゃ食べられん。理沙、ちゃんと説明しろ」
父に言われても説明が難しい。そもそも私は晃と付き合っているとはさっきまで思ってなかったのだから。
「田代晃。十六歳。十五歳のときにプロ棋士試験に合格し、現在初段。囲碁界期待の新人であり、その容姿から囲碁界のリトルプリンス、プリンスと呼ばれている。だってさ、ネットに書いてあるわ」
兄が携帯電話の画面を読み上げた。
「何、君、囲碁の棋士なのか?」
「はい」
晃は頷いて答える。
「お父さん。名刺ぐらい読んでよね」
父が怒りで握りつぶした名刺の皺を伸ばしながら読む。
「ほー」
父の毒気が抜かれたようだった。
それからは和やかな夕食になった。
晃は細い体に似合わない食欲を見せ、兄と一緒におかわりを重ねた。母は晃が気に入ったようで質問責めにしていた。兄は晃に自分をお兄さんと呼ばせ、たった二歳差のくせに偉そうにしていた。
最初は会話に入って来なかった父もお酒が進むにつれ、饒舌になって、晃のことを会社で自慢しないとなんてことまで言い出した。私は晃を囲む家族を見ながら、こういうのもありだと思っていた。
晃への自分の気持ちが不確かなのに、こうも状態が安定してしまったら、それでいいような気になってくる。
母の質問に顔を赤くする晃の横顔を見て、初めての彼氏にしては最高レベルだと思った。こんなふうに冷静に分析している自分が恋をしている最中とは思えなかったが、恋の形だって一つじゃないはずで、こういう穏やかな恋心なら大歓迎だと思った。
食後は母が気を利かせてくれて、私にメロンの載ったお盆を持たせて部屋を案内してきたらと言った。父がそれを聞いて兄にも二階に上がるように言う。兄の部屋はとなりなので、晃への牽制なのだろうと思う。
部屋の前で兄が晃に振り返る。
「晃、うち壁薄いからな」
兄の軽口に晃が律儀に会釈する。
「入って」
メロンを机の上に置いて、私たちはベッドの上に並んで座った。
「何かごめんね。うちの家族」
「全然。昨日帰り遅かったし、もしかしたら殴られるかもとか思ってたし」
「うちの父親、そんな武闘派じゃないから」
「みたいだね」
「ねえ、晃と私って付き合ってるの?」
それまで弾んでいた会話が止まる。
晃が私の髪に左手を伸ばして、それから首筋に触れる。
潤んだ晃の瞳に捕らえられて私は動けない。
「僕はそのつもりだったんだけど」
晃が拗ねたみたいに言う。
私も晃もこの答えを知っているのに、それをなぞらずにはいられない。
「言われてない」
晃の両手が私の顔を包む。
「僕と付き合って、理沙」
甘美なやり取りに心が潤む。
「いいよ」
私が言い切らないうちに、晃に唇を塞がれる。静かな部屋に二人の息遣いだけが響いて、官能が芽生えていくのがわかる。
「理沙好きだよ」
晃が耳元で囁いて、そのまま耳に、首筋に、鎖骨にと、キスを降らせていく。晃の手が首筋から肩に下りてきて、急に怖くなって体を離す。
「私のどこが好き?」
私の迷いを言葉で消してほしかった。
「僕、今まで囲碁しかしてこなかったんだけど、囲碁の何が好きなのか上手く説明できないんだ。言葉にすると途端に嘘っぽくなっちゃって」
晃が困ったような顔をするから、もっと困らせたくなる。
「答えて」
それに言葉がほしかった。
「最初に手が触れたとき、胸がときめいた」
そう言って私の右手を掴んで、晃は自分の胸まで私の手を運んだ。
「それから一緒にいて楽しかった。そのあと、唇に吸い寄せられた」
晃の唇が軽く唇に触れる。
「それからは理沙しか考えられなくなった」
晃が私を抱き寄せる。
「僕、けっこう忙しいんだ。対局中は電話に出られないし、出張も多い。でも理沙のこと大事にするから」
晃は見かけによらず肉食男子かもしれない。私はそのうちに晃に食べつくされてしまいそうな気がした。晃のキスの嵐はやまない。
八時になって、父の呼んだタクシーで晃は帰った。
母から夕飯の残りを持たされている晃を見て、晃が一人暮らしだと気づく。
考えたら晃のことを何も知らない。晃も多分私のことを何も知らない。
二人きりのときは唇を合わせるのに夢中で、お互いを知らないままに時間が過ぎていく。
今度電話で晃のことを訊こうと思う。それから私のことを話そうと思う。
私と晃は始まったばかりで、甘さだけが際立った関係は私に焦りを覚えさせない。




