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人の気配で目を覚ました。
僕の顔の前にぬるくなった保冷材が落ちていて、テレビ画面を見ながら倉田さんが携帯電話に向かって話しているのがその先に見えた。その倉田さんのとなりで向坂プロが書類に目を落としていた。
電話を切って振り返った倉田さんと目が合った。
「起こしちゃったかな?」
「いえ」
「大丈夫かい?」
「はい」
「ならよかったよ。全然起きないし、やっぱりあのとき救急車呼ぶべきだったんじゃないかとか考えちゃった」
「あの、これ、ありがとうございます」
保冷材をちょっと掲げてお礼を口にした。
「痛みはないかい?」
頭の後ろとおでこを恐る恐る撫でてみると、じんじん痛んだ。
「少し」
「少し、ならよかったかな。見た目もさっきよりはましかも」
「一人で帰れそうかい?」
「はい」
「ならよかった。これからここで打ち合わせがあるんだ。何か飲み物でも買ってくるから、それを飲んだら帰りな」
「はい」
「君もここに来ているから知ってるだろうけど、向坂五段だよ」
倉田さんはそう向坂プロを紹介して、飲み物を買いに出ていった。
「あら昨日の生意気な子の友だちじゃないの」
向坂プロは意地悪に綺麗に微笑んだ。
「南です。生意気な子じゃなくて、南閃て名前です」
「そう。弟子にしてくれなんて言ってきたわりに、二日目にも残れなかったみたいね」
「南は熱があったんです」
「そう。それで今日は一人で来ていたのね。それにしても大騒ぎだったのよ。あの井上先生が息を切らして、子供が倒れたから誰か来てくれって事務所に走っていらして、救急車を呼ぼうかの騒ぎで、それなのに君は私がここに来たのも気がつかないくらいに熟睡してて、なかなかに面白かったわ」
「面白くないです」
「あら怒ったの? かわいい」
それきり向坂プロは僕に興味を失ったみたいに書類に目を戻した。
僕は向坂プロを見ていた。テーブルに並べた書類を確認するように撫でる指、後れ毛がなまめかしい首筋、紺色の半袖ワンピースに包まれた緩やかな曲線。
文字通り見惚れていた。
「そんなに見つめられると穴が開くわ」
向坂プロの低めの声が僕の性をくすぐった。
恥ずかしさと情けなさに赤面した。僕は南のことが好きなのに、南以外の異性にも反応してしまう自分の愚かしさにぞっとした。
僕はあらゆることにまだ初心で不慣れで、自分自身のことをもっとましなやつだと過信していた。
居たたまれなさに寝たふりをしているところへ飲み物を抱えた倉田さんとおじいちゃんプロが戻ってきた。
「調子悪いの?」
倉田さんが覗き込んでくる。
「ちょっと寝不足で」
僕は誤魔化して体を起こす。
「あの、迷惑かけたみたいで、すみません」
倉田さんとおじいちゃんプロに助けてもらったお礼を言った。
「大丈夫そうでよかった」
おじいちゃんプロは笑って言って、向坂プロのとなりに座り、一緒に書類を見始めた。
「あと二人、プロの先生が来たら打ち合わせを始めるから帰ってね」
そう倉田さんに言われ、それまではいていいのかと自己判断して、貰った冷たいお茶を飲みながら倉田さんと話した。
僕は友だちに誘われて昨日大会の応援に来ていたこと、それが初めての観戦だったこと、そもそも囲碁のルールも知らないこと、昨日南が善戦したこと、その南が熱を出していること、今日は暇だったから何となく来たことを話した。
倉田さんは囲碁のルールもわかっていない僕が騒動を起こして自分たちに冷や汗をかかせたとは、と笑った。
それから自分が雑誌の企画でここに取材に来ていること、それがこの大会の名勝負を棋譜で振り返り、それに有名棋士たちから解説と感想をもらうという内容であること、棋譜とは対局の記録であること、その有名棋士が向坂五段とおじいちゃんプロこと井上九段、これから来る予定の安藤七段と田代初段であることを話してくれた。
倉田さんの携帯電話が鳴って、安藤七段が来られなくなったので打ち合わせを中止しようという話になった。
「そういうことだから、君はもう帰りなさい」
倉田さんに言われて時計を見るともう六時を回っていた。そろそろ帰らなくてはいけない時間になってきていた。
「はい。色々とありがとうございました」
「君、ところで儂に用があったのではなかったのか?」
おじいちゃんプロに言われて思い出した。
「そうだった。僕にインタビューさせてください」
昨日今日と対局を見て、囲碁の世界に興味が出た。それで午後からいろんな人に囲碁の魅力を訊いてみようと思い立った。それでおじいちゃんプロに声をかけたのだと、嘘のほうが本当の話みたいに上手に説明できた。
それを聞いて倉田さんが面白そうだと乗り気になり、時間も空いたことだし、やってみて、できたらそれを記事にしたいと言った。
おじいちゃんプロはこのあとの大会の打ち上げまで時間があると快諾してくれて、向坂プロは井上先生がやるならばと承諾してくれた。
倉田さんは質問を何点かノートに箇条書きにして僕に頼むねと渡してきた。それからまだ空いていない缶コーヒーやお茶のペットボトルをテーブルに並べて、いつも持ち歩いているというボイスレコーダーとノートとボールペンを自分の前にセッティングした。
こうして僕のインタビューは始まった。
「まずはおじいちゃんから」
おじいちゃんではなく、井上先生と呼びなさいと倉田さんには注意されたが、おじいちゃんプロは間違ったことは言っていないと、おじいちゃんでいいと言ってくれた。
「おじいちゃんにとって囲碁って何ですか?」
「囲碁は囲碁じゃよ」
おじいちゃんプロは馬鹿にしているふうでもなくそんなことを言うから、僕は何でか少し焦った。
「そういうことじゃなくって」
だから少し声が大きくなってしまって、おじいちゃんプロはちょっとだけ目を見開いた。でもそれだけですぐに元通りの顔になって言った。
「囲碁は遊びじゃ」
「遊びですか?」
「そう、楽しくて時間を忘れてしまう。遊び」
「何でプロになったんですか?」
「遊んで暮らせるからじゃな」
「九段だと聞きましたが、強いですか?」
「君よりは強いじゃろう」
ここで倉田さんが囲碁は初段で始まり、九段までしかなく、おじいちゃんはタイトルという称号をいくつも取ったことがあるすごい人だと教えてくれた。
おじいちゃんプロは総白髪で皺も深くて、腰は曲がっていないけれどけっこうな年齢に見える。九段だし、本当はすごい人なんだろうけど、どうしてもただのおじいちゃんにしか思えない。そこらへんで暇を持て余して、ぶらぶらするおじいちゃん。
「そういえば何歳ですか?」
「君は何歳じゃ?」
「僕は十四歳です」
「儂はちょうど六十上じゃ」
「七十四?」
「そうじゃ」
僕の祖父たちより年上だった。
「まだ現役なんですか?」
倉田さんが失礼なことは言わないように、と嘴を挟んでくる。
「一応な」
「引退はしないんですか?」
こらこらと言う倉田さんはあまり本気では止めてこなくて、多分こういうことは聞きにくいけれど、知りたいのだろうと思った。
「何度も考えたし、考えてはいる。じゃが、一線を退くことで、面白い手合いの機会が減ると思うと、踏み切れんな」
おじいちゃんプロは楽しそうに答える。
倉田さんのノートの質問を読む。
「では強さの秘訣は何ですか?」
「うーむ。強さの秘密ならあるんじゃが」
「では秘密を教えてください」
「秘密は秘密じゃ」
「それ言いたかっただけじゃないですか?」
「うむ」
おじいちゃんプロはつかみどころがなくて、仙人みたいだなと思う。見た目も含めて。
「そういえばお昼にたくさんサインとか写真を頼まれていましたが、断らないんですか?」
「断るのは面倒でな」
「恋人はいますか?」
「それは向坂先生用の質問じゃないかね?」
おじいちゃんプロはにやりとして、向坂プロは冷たい視線を倉田さんに向けた。倉田さんがわざとらしく目配せしてくる。メモの恋人とタイプの脇には小さく向坂の向の字が書いてあった。でもインタビュアーは僕だ。
「恋人はいますか?」
「いないな。妻以外に気を遣うには年を取り過ぎた」
「じゃあ昔はいたってこと?」
「ああ。儂の昔話を聞いたら、妻の忍耐力に呆れることじゃろうな」
「井上先生は女性泣かせの井上って呼ばれたくらい、すごくもてたんだよ」
倉田さんがフォローする。一人の女性を大事にできないで、ふらふらした話を武勇伝みたいに語られるのは不愉快なので質問の方向を変える。
「僕の友だちは囲碁棋士を目指しています。アドバイスをください」
「勝てなければ一生安月給じゃ」
これはアドバイスだろうか?
「最後におじいちゃんは囲碁が好きですか?」
「儂は好きでもないことに一生を捧げられるような殊勝な人間じゃないわい」
「ありがとうございます」




