56. 誘惑
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どうしようもなく幸せを感じる時間というものは、きっと誰にでもある。
例えば日本で生活していた頃であれば、ナギにとってそれは読後感の良い小説を堪能した後に過ごすゆっくりとした時間であったり、あるいは逆に、寝食を忘れて忙しなくゲームに没頭している時間だったりしたものだ。
では、こちらの世界に来た後ではどうか―――と、もし誰かに訊ねられたなら。おそらくナギは『温泉に浸かっている時間』が最も幸せだと答えるだろう。
古代樹の根本に広がる、小さな泉。夜になると何故か『温泉』へと姿を変える、不思議な泉に身体を浸らせながら、ナギはしみじみとそんなことを思った。
日本に住んでいた頃にも風呂は好きだったけれど。この世界で浸かる温泉には、またそれとは別格の多幸感がある。
身体の疲れが溶け出していく心地よさもあるけれど。それとは全く別種の、幸せな酩酊感のようなものも、温泉は身を浸らせているナギに与えてくれるのだ。
《おそらくそれは『魔力泉』がもたらす快楽だと思われます》
そんなナギの心を読み取って、エコーがそう教えてくれた。
「はあぁ……。えっと、その『魔力泉』というのは、何でしょう?」
気持ちよさのあまりに、ひとつ大きな溜息を吐き出してからナギがそう問うと。その様子が面白かったのは、エコーはくすりと小さく笑い声を零してから、丁寧に教えてくれた。
《魔力泉とは、名称の通り魔力を内包した泉のことです。魔力は月が天にある最中には活性化される性質を持っていますので、とりわけ魔力濃度の高い泉は、夜半に温かな『温泉』へと変化することで知られています。
魔力泉に身を浸らせていると、魔力を高速で回復することができます。人族は誰でも魔力の回復を快楽として感じるため、ナギ様が感じている気持ちよさの一部は、その効果によるものでしょう》
「なるほど……」
今までナギは、なんとなく古代樹の力により、泉の水が夜は温泉に変わるのかなと思っていたのだけれど。どうやらこれは『魔力泉』の特徴であるらしい。
これまでに沢山経験してきたレベルアップにより、既に幾つかの魔法を行使できるようになっているとはいえ、ナギはまだ『魔力』というものを漠然としか理解できてはいないのだけれど。
こうして湯の中に身を浸らせていると―――自分の身体を満たそうとしてくる、何か特別な力の存在を、微かにだけれど意識することができる気がした。
おそらくはこれが『魔力』なのだろうか。
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-> ナギは〈魔力察知〉スキルを新たに修得した!
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そんなことを考えていたら、不意に新しいスキルが修得できてしまった。
名前の通り、魔力を察知できるようになるスキルなのだろう。
スキルを会得した影響なのか、いつの間にかナギは自分が浸かっている温泉から何か『オーラ』のようなものを、視たり感じたりすることができるようになっていた。
「もう、お姉さま。温泉に浸かるのでしたら、ちゃんと声を掛けて下さいまし!」
「置いていくのは酷い」
両手にお湯を掬い取って、そこから溢れる魔力のオーラを眺めていると。温泉の湯気に隠れるようにして、二人の人影がナギのすぐ近くに現れた。
その姿を一瞬まともに見てしまったナギは、慌てて二人から目を逸らす。
「タオルで隠して下さるなら、ちゃんと声を掛けますよ……」
困惑しながら、ナギは小さな声で二人にそう答える。
ナギが二人に黙って、ひとりで温泉に入る理由は単純明快で。温泉に入る際に、二人がタオルなどで一切身体を隠してはくれないからだ。
古代樹の泉は、昼間は冷たくて透明な水だけれど、夜中は『濁り湯』の温泉へと変わる。だから一緒に温泉に入るとしても、二人がお湯に浸かっている間は、その身体が見えることも殆ど無いのだけれど―――。
困ったことに最近は、なんだか二人とも……しばしばお湯から立ち上がっては、まるで見せつけるように、身体をナギに向けて惜しみなく晒してくるのだ。
そうなると目の遣り場に苦慮するのはナギのほうだ。
夜空を見上げたり、お湯だけを見つめたりしながら、必死に二人の身体を見てしまわないように努めるわけだけれど。そうしたらそうしたで、今度は二人とも温泉の濁り湯の中で、妙に身体を寄せ付けてくるものだから心臓に悪い。
なので最近は、二人に少し申し訳無いとは思いつつも、なるべくナギはこっそりひとりで温泉に入るようにしていたのだけれど。
いつしかレビンもイヴも、常にそれを警戒するようになっていて。結局はいつもバレてしまい、こうしてすぐに闖入されてしまうのだった。
「あら。身体を隠したら、お姉さまに見て頂けないでは無いですか」
「み、見ないで済むように、隠して頂きたいんですが」
「うふふ、嫌ですわ。だって、わたくしは見て頂きたいのですもの」
そう告げて、湯に浸かっているナギの頭に、裸のまま覆い被さってくるレビン。
そんな大胆な行動に出られると、もはや視線を逸らす先も無くて。ナギは慌てて目を瞑ることで抵抗した。
「ナギは、私達の裸を見ると、興奮する?」
「するから困ってるんです……」
脇から掛けられたイヴの言葉に、ナギは顔を真っ赤にしながらそう答える。
何とも思わずに済むのなら、こんな必死に抵抗したりはしていない。
「……ん。私達はそれが嬉しい」
そう告げながら、ナギの背中にぴったりと身体を寄せ付けてくるイヴ。
膨らみは全く感じられないけれど。身体のどの部分を押し当てられているのかが何となく理解できるだけに、もうナギは身動ぎのひとつもできなくなった。
「わたくしもイヴさんも、実際の年齢はともかく、身体は完全に子供ですからね。自分で言うのもちょっと悲しいですが……世の殆どの方は、わたくし達がこうしてアピールしたところで、全く興味を抱いては下さらないでしょうし」
「子供に興味を持つ者など皆無。悲しい」
「な、なるほど……」
二人が言わんとすることは、ナギにも少し理解できるような気がした。
……ここが現代日本であれば。それはそれで、大好物な人もいそうだけれど。
「せめてお姉さまと同じぐらいの背の高さが、わたくしたちにもあれば良かったのですけれどね」
少し悲しそうな声で、レビンがそう言葉を漏らす。
この世界では、厳密な意味での『成年』は規定されていないらしいけれど。一応目安はあって、どの種族でも大体見た目が、人間の『20歳』に相当するぐらいになると、大人として見なすようになっているらしい。
『20歳で成年』というと現代日本のそれと同じようにも聞こえるけれど、こちらの世界では一年が約半分の『160日』しか無いわけで。『20歳』で成年というのは、日本の感覚で言うと『10歳』で成年扱いということになる。
つまり、身長が『141.8cm』しかないナギの容貌でも、この世界ではかろうじて『成年』済の、大人の女性に見えなくも無いらしい。
とはいえ、ナギで『かろうじて』なのだから。ナギよりも身長が10cmは低いレビンとなれば、世間では女性というより『女児』として見られることになる。
無論、そのレビンより更に矮躯なイヴに至っては言うに及ばず。
実際には、その『世間』の大部分を構成している人達の多くよりも長くを生きているだけに。レビンとイヴの二人が憤るのも無理ない話ではあった。
「……別に、ナギが興奮してくれるなら、それでいい」
「まあ、そうですわね。お姉さまさえ興奮して下さるなら、もう他の有象無象にどう思われようと、気にすることではないのですが」
「ホント勘弁して下さい……」
目を閉じているナギの顔が、不意に二人から挟まれる。
一体、二人の身体のどことどこで挟まれているのかは、あまり考えないほうが良さそうだ。膨らみは皆無だけれど、なんだか凄くすべすべしていて柔らかいので、具体的な想像をしないほうが精神的に良いのは間違いない。
「レビン。誘惑するなら4年後まで待って下さいと言ったじゃないですか……」
「はい、お約束致しましたね。ですから今はわたくしも、この程度の誘惑しかせずに我慢しているんですのよ?」
「こ、これで我慢しているのですか?」
「していますよ? だからお姉さまの身体の『弱そうな場所』に、無断で触れたりはしないようにしておりますし」
ナギは一瞬、レビンが告げた言葉の意味が判らなくて。
たっぷり20秒ぐらい掛けて、自分の身体の『弱そうな場所』がどこなのかを想像してから―――。ナギは顔を真っ赤にして、慌てて両手で自分の身体の『弱点』を覆い隠した。
「れ、レビン。それは、洒落になっていません」
「ええ、ご安心下さいまし。勝手に触れて良い場所では無いことは、ちゃんと理解しておりますわ」
「……そうですか。それは良かったです」
ひとまずの身の危険が無いことを理解して、ナギはほっと安堵の息を吐く。
そんなナギをみて、レビンはくすりと小さく笑みを零してから。ナギの耳元で、囁くように「ですが」と続ける言葉を口にした。
「お姉さまが触る分には、わたくしの身体のどこにでも構いませんのよ?」
「私はナギに購われた身。当然ナギには、私の身体を好きに玩ぶ権利がある」
目を閉じたままの、何も見えない視界の中で。どこか艶めかしく囁かれた二人の声が、ナギの頭の中で何度もリフレインした。
つい先程、真っ正面から見てしまった二人の身体が、頭の中で微細に想像できてしまう。
今でもナギの身体にぴったりと触れてくる、触感のリアルさも相俟って。ナギは顔も頭も全部纏めて、かあっと一気に熱くなったように感じた。
奇しくも、いま自分の身体が『男』でなくて良かったな、ともナギは思う。
もしそうであったなら、今の自分の興奮が身体に出てしまわないわけがないし。また、心に押し寄せる衝動のままに、二人に対して『実力行使』に出てしまうことも充分に有り得たかもしれないのだから。
「レビン、イヴ」
「はい、何でしょうお姉さま。わたくしはいつでも大歓迎ですわ?」
「ん。私も同感。押し倒すのに許可は必要無い」
「自重して頂けないのでしたら、僕はレビンとイヴの二人から『触れられる』ことを、今後は『攻撃』だと思うことに致しますが」
ナギの言葉に、ぴたりとレビンとイヴの動きが止まる。
〈非戦〉のスキルを持つナギは、武器を持たない限り、他者から絶対に『攻撃』されることがない。
何が『攻撃』であるかは、スキルの所持者であるナギが、ある程度自由に決めることができる。だから二人から触れられることを『攻撃』だとナギが心の中で定めれば、二人はそれを行うことが絶対にできなくなるのだ。
「レビンもイヴも、あと4年は待って下さい。いいですね?」」
「うう……。判りましたわ……」
「仕方ない……」
不承不承と言った調子で、承諾の言葉を口にする二人。
ようやく瞼を開くと、しょんぼりと項垂れる可愛らしい二人の顔が見えて。今度はナギがくすりと小さく笑いを零す番だった。
―――あと4年のうちに、ちゃんと覚悟を決めなければならないな、と。
愛しい二人の少女を眺めながら。ナギは心の中で、そう決意を固めるのだった。
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お読み下さりありがとうございました。
[memo]------------------------------------------------------
ナギ - Lv.14 /掃討者[F]
〔アルティオの使徒〕〔オキアスの使徒〕〔調停者〕
〈採取生活〉7、〈素材感知/植物〉4、〈繁茂〉3
〈収納ボックス〉6、〈氷室ボックス〉4、〈保存ボックス〉1
〈鑑定〉4、〈非戦〉5、〈生体採取〉2
〈自採自消〉1、〈採取後援者〉1
〈複製採取/植物〉2、〈複製採取/解体〉1
【浄化】4、【伐採】6、【解体】1、【素材探知/植物】1
〈植物採取〉8、〈健脚〉4、〈気配察知〉3、〈魔力察知〉0→1
〈錬金術〉1、〈調理〉2
227,812 gita
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