13
緩やかな風が草原地帯に流れ込む。
荒れ地に残った草花が頼りなく揺れ、何重奏もの静かな音を奏でていた。
織笠とリーシャは密着したまま動かない。まるで彼等二人だけが世界の理から外れ、時間が停止したように。
赤い雫が垂れる。
ぽたり、ぽたり……と。
流れているのはリーシャの腹部。織笠の純白の剣が、彼女の脇腹に根元深くまで刺さり貫通していた。
「どう……して……」
震える唇。声の主は織笠だった。
呆然とした表情には理由があった。リーシャの白銀の鎌は織笠には届いていなかった。それどころか、彼女は衝突する直前になって突然腕を降ろしたのだ。恐らくは自分の意思で。
いくら手負いとはいえ、斬ろうとすれば容易に出来たはずなのだ。万一、彼女が武器の扱いに慣れていなかったとしても。
それがどうして。
織笠の思考は止まっていた。
織笠の計画の最終目標。
それは、彼女との心中だった。
人造精霊使いなんて、この世界には不要。そして、そのきっかけとなった精霊使いもいてはいけない。自分とリーシャが存在するだけで余計な混乱を招くなら。もう二度と、こんな悲しい運命を背負う精霊使いが生まれない為にも、二人とも死ぬべきなのだ――。そう、織笠は結論付けた。
ここまで順調だったのに。いや、むしろスムーズに行き過ぎていたほどだ。
懸念点だったのはリーシャとの実力差。自分だけ殺される可能性の方が大いに髙かった。それも上手くクリアして、追い詰めたというのに。刺し違えるつもりで突撃すれば、彼女も殺らざるを得ない。むしろ、鎌の刃が自分を裂いてくれないと困るのだ。
なのに、リーシャは大人しく刺された。
これではまるで。
彼女自ら殺されに来たようではないか。
「ふふ……」
不意に、リーシャは笑った。何故か満足げに。あまりに美しすぎる笑顔だった。
「何をそんな驚いた顔をしているの? これで世界は救われた、というのに……」
そう言いながら、リーシャの身体が崩れ落ちる。織笠は思わず剣を放り投げて彼女を抱きとめ、その場に座り込んだ。
「おい、リーシャ!」
抱きかかえながら、織笠は叫ぶ。
「どうして最後の一瞬、手を止めた!? どうして――」
重く、ぐったりとした身体を激しく揺する。リーシャの腹部からはとめどなく血が溢れ、黒のドレスに赤い花弁の模様が広がっていく。
「どうして俺を殺さなかった!? 何で俺を……殺してくれなかった!!」
「……あ、愛するひ……人を、殺せるわけない……じゃないの。変、なことを……言わない、で……」
「違うだろ! お前は――」
その虚ろな瞳に織笠が映っているのかは定かでない。それでも、苦しみもせず笑っているリーシャ。
織笠はハッと目を剥いて。
「まさか……」
恐る恐る呟く。
「まさか、お前わざと……」
「いくら……殺傷能力の低い、E.A.Wで……もやっぱり痛いのね。こうして……相手の立場になって、ようやく理解……したわ」
「答えろ! お前は最初から自分だけ死ぬつもりで――!」
自然と手の力が強まったせいか、小さくリーシャが呻く。しまった、と織笠が力を抜くと、リーシャは激しくせき込んだ。血液を吐きながらこちらに視線を合わし、弱々しく微笑みかける。
「共に生きる未来を、拒否される……。そう知った時点で、私は貴方を殺すつもり……だった」
「だったら、なぜ……」
「戦う貴方の顔はすごく、苦しそうに……映った。だから分かってしまったの。“ああ、この人は殺されようとしている”って」
織笠はぎゅっと目を瞑る。
自らの失態を悔やんで、ではない。
彼女もまた、心の中で破滅を求めていたのだろう。この国の、ではなく自分の。生きることに疲れながらも、止まれなかった。為すべきことを為すまで、休むことを許されなかった。
正確に言えば、死に場所を求めていた。
それが織笠という鏡を通して、自覚してしまったのだ。
「くそ、それじゃ何の意味も……」
「…………」
「駄目なんだ、これじゃ。俺が、俺という力の証明がいる限り何も変わらないんだよ。終わりにしなきゃいけなかったんだ。こんな悲しい連鎖なんて……」
「それは……どうかしら」
リーシャは言った。
本気で織笠の考えに疑問を投げかけるように。
「私と貴方が消えたところで、そう簡単に運命が……変わるとでも? 精霊使いがいる限り……いえ、一部の悪意を持った者がいれば、また力を……欲して、私たちのような犠牲者は生まれる。所詮、繰り返されるだけの虚しい世界。だから壊すべき……だった。一度、全てを」
「だから俺は………」
リーシャは織笠から目を離し、空を見つめた。太陽に瞳を眇め、小さく鼻で笑う。
「何か手を打った……としても、結局無駄。そう、何もかも無意味。……私は真実を暴き出し、生まれ変わらせたかったのに」
「そんなの、お前のエゴだろう。許すわけにはいかない」
「じゃあ、この結末はなに? レイジ、貴方の自己満足じゃなくて、何になるの?」
「…………ッ」
「許せるわけがない。そう、認められない。これで貴方は死ねなくなった」
次第に血色が薄れていく顔色。血もどれだけ流れ出ただろうか。もう虫の息だというのに、逆に彼女の口調は熱を帯びていくようだった。
「あの実験で……どれだけの命が失われたのかしら? お母さんや、数々の犠牲者……。私も数までは知らない。でも、その多くの死体の上で貴方は生きている。無数の怨嗟が貴方の心臓を動かしているの。簡単に死ぬことは許されない。増して、自分の意志で死ぬことなど」
「くそ……!」
織笠は動けなかった。こうなったら、と織笠は自害することも頭をよぎったが、それこそ何の意味も持たないだろう。
「怨念の象徴として世界に抗いなさい。その末に、世界中の人間が貴方の死を望んでも、私は、私だけは許さない。……だから殺してあげない」
子どもっぽく言って、彼女は笑みを深める。
「見苦しくあがいて、どんなに惨めでも醜くても生き続けなさい。そうすることで、私の復讐劇は別の形で成就される」
「くそっ、くそっ、くそ……!」
心臓が痛かった。その痛みから逃れるように、織笠は吐き出し続ける。けれども、鈍い痛みはいつまでも消えることはない。
「そんなの、まるで呪いじゃないか……!」
陳腐な表現。そんな言葉しか出てこなかった。
リーシャの言いたいこととは、つまり、自分の代わりを務めろということだ。この精霊社会においてのストッパー役。権力者の意のままに力を誇示しないよう己の存在を以って牽制しておけ、そういう意味なのだ。
「呪い……。ふふっ、そうね。呪縛だわ。精霊使いにとっての織笠零治という呪縛。そして――」
震えたリーシャの右手が、織笠の頬を撫でる。
ゆっくりと上半身を起こし、そして。
柔らかい感触が、織笠の唇に触れた。
それは、リーシャとの二度目の口づけ。
「…………!?」
織笠の喉元に何かが流れ込んでくる。
即効性のある治療法は粘膜接触であると、最初の口づけでリーシャは言った。だが、何かが違う。彼女のマナが奔流となって織笠の血流をかき乱していく。体内が暴れ、狂う感覚。まるで組み立て途中の複雑なパズルを全て壊し、また組み直すような――。
淡い光が織笠を包む。苦しくて織笠は離れようとしたが、力が入らなかった。
そっと唇を離すリーシャ。同時に光は失われ、そよ風が舞った。
「……これで貴方は私から逃れられない。一生ね」
そう言って、彼女は静かに目を閉じる。
織笠の頬に触れていた右腕が、地面に落ちた。だらり、と全身から力が抜ける。
あまりに安らかな寝顔。
息もせず、穏やかに眠るようにしてリーシャは死んだ。
柔らかい微笑をたたえたままに。
「リーシャ……」
掠れた声で呼びかける。当然、返事があるはずもない。
「俺は……」
彼女を抱いたまま、織笠は空を見上げた。いつの間にか陽は沈み、夕暮れに差し掛かっていた。
冬が近い。空気も冷たくなってきた。
「俺は、どうしたら……」
リーシャの余韻が残る頬を涙が伝う。織笠の呟きは、オレンジの空へと無情に吸い込まれていった。
異様なまでに暗く、静かな空間――陽のアーク。
世情の一切を遮断しながらも、扇状に並んだ巨大なマナのタンクが全ての情報を包み隠さず知らせてくれる。
数時間前のことだ。右端の一基が、かつてない反応を示した。
タンクのガラスを破壊させんばかりのマナの流れ。強烈な明滅と共に様々なマナが激しく攪拌され、暴れまわっていた。
通常、どんなに優秀な能力者が精霊を操って破壊行為をしたとしても、ここまで乱れることはない。今は落ち着きを取り戻したが、看過できない事態であったのは確かだ。
そのタンクを逐一じっと眺めていた陽のマスターは、静かになったタンクに手を触れて小さく笑い声を漏らした。
「……そう、リーシャが死にましたか。あの女も案外脆かったようですね」
姪の死を悼むことなく、陽のマスターは淡白に言った。マスターというのは立場上、感情を表に出さない。いつ何時も超然とした振る舞いを求められるのだが、彼女の場合、そういった類の物からくる感情の抑制ではなかった。
単純に、興味が無い。リーシャが生きようが死のうがどっちでもいいのである。
しかし、フードから覗く薄い唇がそっと持ち上がった。そこにあるのは喜び。
「ふふ……。まあ、これで邪魔者はいなくなったと考えれば重畳でしょう。これから存分に、私の思うままに事を運べられる」
陽のマスターには、とある失態がある。
『D.E.P』。彼女の発案で始まった精霊使いの合成実験が頓挫し、失敗に終わってしまったこと。その汚点だけは誰にも知られてはならなかった。だから当時の研究者を多額の口止め料と共に隠匿させた。リーシャには見つかったようだが、彼女が死んだことで口外される心配はなくなった。
「成功体も部下たちも私の手中にある。口を塞ぐのは容易。一度は失敗しましたが、またやり直せばいい。六属性の頂点――精霊王となる為に」
ほくそ笑む陽のマスター――その時だった。
重厚感あふれる音を鳴らしながら、入り口の扉がゆっくりと開け放たれる。差し込む夕暮れの光を背に、現れたのはカイだった。
「失礼いたします、マスター」
マスターは僅かに怪訝な表情を浮かべた。彼はB班の責任者としてリーシャの所へ向かっていたはずだ。報告に来るにはいささか早い気がする。
「どうかしましたか?」
「ご報告に参りました」
マスターは歪んだ口元を取り繕うように無機質な笑みに切り替えて、いつもの清廉さを装う。
「そのことでしたら必要ありませんよ。全てはこのマナを通し、見ていましたから。白袖・リーシャ・ケイオスを処刑したようですね」
大仰に、陽のマスターは頷いてみせた。
「お見事です。社会を混沌の渦へと陥れた凶悪犯をよくぞ打ち取ってくれました。これで我々の安寧はまた保たれることでしょう」
「……そうですか、それは良かった」
無感情にカイは答えた。どこか他人事のような言い方に引っ掛かりを覚えるところだが、陽のマスターは特に気にすることもなくカイに言った。
「ついては、貴方の処遇についても再考する必要がありますね。ジンからの報告にあった数々の独断行動、B班の私物化については不問とまではいきませんが、インジェクター権限の剥奪は取りやめにしましょう。収束の後に班長の任を解き、然る後――」
「その件についてはお気になさらず。俺も今の地位に固執するつもりはありませんので」
「…………?」
「俺の用件は別にあります」
入り口付近に立っていたカイは、壇上へと続く階段まで歩を進め、陽のマスターを冷たく見上げる。
「陽のマスター……、いや、サーフェリア・ケイオス。貴方にはマスターの座から退いていただきます」
「は……?」
「貴方はマスターの地位に甘んじ、取り返しのつかない愚行を犯した。命を軽んじ、我欲のままに非道な実験を行った。その結果、数えきれない精霊使いが死んだ。そんな大罪を犯しながら隠蔽工作までここまで逃れてきた。許されるはずもありません。よって、処罰を受けるべきかと」
突如告げられた言葉に、マスターは言葉を失う。
「お前……今、何と……?」
耳を疑った。
聞こえなかったわけでも、発言の意味を理解出来なかったわけではない。
失礼極まりないカイに唖然として、返す言葉が見つからなかったのだ。
カイは肩を竦めながら、短く嘆息。そして、言い放った。
「何年もこんな場所で生きてきて耳が腐ったか? お前はマスターに相応しくないと言っているんだよ、サーフェリア」
「カイィィィイイイイイイ!!」
激昂し、金切り声を上げるマスター。瞬間、彼女を中心として凄まじい風が巻き起こった。憤激のあまり、力を放出させてしまったのだ。
強烈な暴風は周囲を無差別に襲う。建造当時のまま一切の汚れのない壁や床を剝がし、彼女の後ろにあったタンクまでをも傷付ける。頑丈なタンクはガラスにヒビこそ入ったが、幸いマナは漏れずに済んだ。が、その他の柱や機材類は無惨に砕けてしまった。
「……やれやれ。老婆のヒステリーは見るに耐えんな」
間近で暴風を受けながらも微動だにしなかったカイは、驚きもせずただかぶりを振った。
「貴様ァ……、自分が何を言っているのか分かっているのか……?」
「勿論だとも。俺はその為にここへ来たんだ。お前を失脚させる……ただそれだけの為に。リーシャの相手を皆に任せてまでな」
「クククッ……」
息を荒げていた陽のマスターは、震える唇を無理矢理引き吊らせた。
「やはりお前は愚かだな。お前如きに何が出来る? 一介のインジェクターが神に歯向かおうなどと。知っているだろう? 一度マスターになった者は、どんな事情があろうと降りられない。任を解けるとすれば自分のみ。自らの意思で引退を宣言せねば辞められないのだ!!」
「……そう。お前の言う通り、どれだけ支持を失っても日本中の精霊使いが辞職を求めても、お前を辞めさせることはできない。昔からのしきたりだ」
だがな、低い声音でカイは唸る。
「あるんだよ、一つだけ。お前を表舞台から消す方法が」
「ッ!?」
咄嗟に身構えるマスター。暗殺されるとでも思ったのだろう、警戒を露わにするマスターをカイは鼻で笑う。
スーツの内側のポケットから、カイは一枚の紙片を取り出した。それを広げ、内容が見えるようにマスターに突き付ける。
「…………?」
書いてある文章を目で追うマスター。途端、その表情がみるみる変貌していく。頬が強張り、全身が震え出す。「あ……あ……」と言葉にもならない呻きを上げ、一歩また一歩と後ろに下がる。
「そ、それは……」
愕然。その様子を見ていたカイは冷ややかな笑みを浮かべ、言った。
「分かるよな? お前になら、この書面がどんな意味を持つのか」
簡潔にまとめられた文章の羅列。
その下には、五人分のサインと共に血判が押されていた。
「俺は各地のアークを回ってこいつを集めてきた。六属性合同会議の説明を兼ねてな。全員、すんなり応じてくれたよ。実験を行うために名前を貸していたってのがあったからだろうな。どうやら他のマスターにとってお前は目の上のたんこぶだったみたいだな」
カイが提示したもの。
それが、マスター総意による解任通知書であった。
存在自体が法であるマスターには、外からの意見ではどうにもすることができない。しかし、特例として対象以外のマスターが解任に賛成し、証として自らの血で記せば強制的に排斥させることが可能となる。これは即時効果を発揮するものであり、絶対的な効力を持つ。本人が拒否したところで絶対に受け入れられず、除名は免れない。
これを手に入れることこそ、織笠がカイに託した使命だった。
「き、貴様ぁ……謀ったなァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「年貢の納め時だ、サーフェリア」
「カイィィイイイイイイ!!」
そして、バタバタと慌ただしい足音が響き、神殿内に何人もの人間が侵入してきた。カイの背後で止まり、横一列に整列したのは十人を超える精霊警備員。中央に構える四人が武骨な鋼鉄製のリングを構え、マスターににじり寄っていく。
「五属性の封印が施された特注性の拘束具だ。抵抗しようなんて思うなよ。お前の力を感知した段階で、問答無用に手足を焼き切ってしまうからな」
四方から精霊警備員がマスターを囲む。マスターは必死にもがくが、やはり通知書のショックからだろうか。あえなく手足に拘束具が嵌められる。
「痴れ者どもがぁ!」
聖母の仮面が剝がれたように、マスターは本性をむき出しに大声で叫ぶ。
「私が下民の命をどうしようが勝手だろう! それこそマスターの特権! むしろ下民は感謝すべきなのだ、私に命を捧げられることをな! それが罪だと!? 馬鹿馬鹿しい! 最高の栄誉だろうが!!」
矢継ぎ早に喚き散らすマスターに、カイは目を閉じて黙って首を振る。最早対話の価値無しとばかりに、一方的に言い放った。
「更生なんて期待しちゃいない。これからは静かに余生を過ごすんだな――連れていけ」
精霊警備員は命じられたままにマスターを引きずるように外へ引っ張っていく。すれ違いざま、マスターは狂ったように嗤いながらこう言った。
「ひゃは、ひゃははは! いいか、頭をすげ替えたとて何も変わらん! 結局は古い考えに縛られた者ばかりなのだ! カイ、お前にもいつか分かる。頂点に立つというのがどういうことなのかをな! けひゃ、ひゃひゃひゃひゃ!!」
見苦しい哄笑を上げながら、パトカーに押し込まれるマスター。カイはその様子を見届けもせず、瓦礫の山と化した神殿内でタンクを見上げてぽつりと言った。
「悪いな、俺は現場主義なんだ。それに、アイツらのお守りもまともに出来ないんじゃ、上に立つ資格もないってもんだ」
そう言い残し、カイは陽のアークを後にする。




