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太陽が沈む、夕暮れの時間帯。
街の大半が壊滅したために、あれだけ爛然としていたネオンも今は寂しい。街の大型ビジョンにはニュースが映し出され、アナウンサーが硬い表情で原稿を読み上げていた。
『速報です。明日未明、各マスターが一堂に会する“六属性合同会議”が行われると、政府が発表しました。今回の騒動の復興支援を地方に要請する目的や、再発防止、精霊使い信頼回復についてなど、様々な議題が上がると思われ――』
淡々とした口調が閑散とした街中を通り抜けていく。人通りも少ない中で、わざわざ立ち止まって見上げる人々もほとんどいない。誰もが今後の自分を憂い、打ちひしがれている。
一方、その上空には。
薄暗い空に浮かぶ月と重なるように、小さな物体が浮遊していた。吹き付ける強風をものともしない白銀の獅子に乗ったそれは、そんな雑踏ともいえない雑踏には目もくれず、延々と流れるニュース映像を凝視していた。
「……そう。臆病な神気取りの王は、遂に地上に降りる決心をしたのね」
白袖・リーシャ・ケイオスは独りごちた。
精霊使いの存在は薬にも毒にもなる。今回の件で、人間側は嫌というほど思い知らされたはずだ。精霊使いも何かしらの対策が急務となる。安定した社会を維持したいマスターにとっては、迅速に動かねばならない――そう判断したから重い腰を上げたのだろう。
しかし……、とリーシャは顔を上げた。陽のアークがある方角に目を凝らして。
(私にとっては好都合……。でも、だからこそ怪しい)
権威失墜を何より恐れているあの女にしては、やけに慎重だ。利己主義なだけに、他者に助力を求めるなどいった選択はもっと後にするものだと思っていた。
そう、何が何でも己が手で処理する。メディアにでも露出し、国民を安心させてから次の段階に移る。そうすれば支持も保たれるだろうに。
今回の決断はやけに消極的とも取れる。
(第三者の提案か。だとすれば罠かもしれないが……)
ただ、進言したとて、あの女が素直に応じるとも思えない。神が愚民の意見など耳を貸すはずもないのだから。インジェクター内部にもそんな影響力を持つ者はいない。A班のジンならば可能だろうが、奴も生粋のマスター信奉者だ。
いずれにせよ、この又とない機会を逃すわけにはいかない。
リーシャはセクメトの背中をそっと撫で、優しく言った。
「一度戻りましょうか。明日……。そう、明日で長年に渡る苦しみから解放される。そのときは共に喜びを分かち合いましょう」
白銀の獅子が主の言葉に応じた。すっかり暗くなった夜空に、稲妻のような咆哮が轟く。
夜が明けた。
時刻は一四時。一台の高級車が陽のアークを出発。脇に控えていた二台の黒塗りのセダンも高級車を前後に挟み、一直線に並んでマザーゲートを抜ける。東京を出て高速道路に入り、巨人のようなビル群が遠ざかると、徐々に見晴らしのいい草原地帯へと景色は変化していく。この辺りは東京や地方の主要都市再建が最優先だったために、整備は手つかずのままだった。
速度を保ちながら走行を続ける車両。合流する他の車もなく、ハイウェイは静かなものだ。交通規制を敷いているわけでもない。
にも拘わらず、自然にその舞台は出来上がっていた。
『人払い』の結界でも張ってあるかのように。
ふと、閃光が瞬いた。太陽が丸ごと落ちてきたような眩さも束の間、激しい衝撃が路面を揺さぶる。精霊の爆撃。膨大なエネルギーの塊が、突如、真正面の道路を破壊したのだ。
先行していた護衛車が勢いよく跳ね上がった。重量のあるセダンが浮き上がり――最後尾の護衛車を押し潰す。二台の車は横転を繰り返し、爆発。赤黒い爆炎を周囲にまき散らした。
高級車の方に被害が無かったのは偶然だった。甲高いスキール音を鳴らしながら、急停止をかける。危うく壁に激突しそうになりながらも、スレスレでどうにか停まった。
そこへ、何かがゆっくり降下してくる。遥か上空からだというのに、重力の落下速度を無視しながら柔らかく着地してきたのは、白銀の獅子だった。精霊によって具現化した精巧な物質。先ほどの爆撃はこの獣によってもたらされたのだ。セクメトと名付けられた精霊の質量そのものが強力な爆弾というわけだ。
「……さて」
セクメトに跨っていたリーシャが、車にゆっくり近づいていく。
「ようやく終わりのようね、叔母様。最後だからそう呼ばせていただくわ」
車内からは反応がない。運転手にも精鋭を用意しているだろうが、全員揃って気絶でもしたのか。後部座席の方に回って、リーシャは悲しげな笑みを作ってみせる。
「墓場としては少し寂しいけど、ごめんなさい。でも……、そうね。償いきれない罪を犯した貴女ならここで十分でしょう」
右腕を高く掲げる。広げられた掌の上の空間がぐにゃりと歪み、黒い光が生まれた。小さな闇の精霊は、周囲の空気を吸い込むようにしてみるみる大きくなり、球体に変化していく。
「さよなら」
ゆったりと振り下ろされる右腕。その動作に従うようにして、巨大な黒球は車に落ちていく。あっさりと車体を飲み込みながら、金属製の部品を次々と潰して、じわじわと消滅させていく。内部の状況は把握できないが、逃げ場などない。そうして、呆気なく車は中身の人間ごと消え去った。
「……終わった」
破片すら残さず綺麗に無くなったその場所を見つめてリーシャは呟く。残ったものは空虚感。あまりに呆気ない。穏やかな風に身を任せながら、その感情を味わっていた。
――しかし。
本当にこれで終わりなのだろうか。
(あまりにも簡単すぎる………。陽のマスターに就任してもう何十年にもなるけど、こうもあっさりやられるものかしら)
腐っても最高峰の能力者だ。抵抗の一つもないなんておかしい。ただ、車内からは彼女のマナが探知できた。間違いなく彼女本人が乗っていたはずだ。
それに、まだあの飼い犬共が出てきていないのも引っかかる。
何かがおかしい。
「これは――」
そのときだった。
「こーんな道のど真ん中で立ち止まってどうしたのかな? お嬢さん」
「ッ!?」
突如、聞こえてきた男の声。背後からだ。そして、戦慄。その軽い口調が、リーシャのよく知る男のものだったからだ。
慌てて振り返ってリーシャは息を呑んだ。彼女のすぐ傍の空間にヒビが入る。まるで絵の具が剥がれ落ちるようにして、キョウヤは姿を現した。穏やかな微笑みをリーシャに投げかけながらも、既に攻撃態勢を取った状態で。
「そんなに驚くなよ。美人が台無しだぜ、リーシャ」
「キョウ――!」
風を付与したキョウヤの拳がリーシャの頬をかすめる。首を捻ったことでリーシャは直撃を免れたが、それでも鋭い一撃は僅かに肉を裂き、鮮血が飛ぶ。
リーシャは地面を蹴って後退。キョウヤと距離を取った。
「お前がどうしてここに……! いや、それよりどうやって――」
気配は完全に絶たれていた。三台の車のどれにもキョウヤは乗っていなかったはずだ。そして、何故ここまでの接近を許したのか。
その答えは、簡単に辿り着く。
「インビジブルか!」
「そういうことだ。一番後ろの車で様子を窺ってたんだが、いやぁ危なかった。なんせ、お前さんは鋭いからな。ぺしゃんこの車からバレずに脱出すんのは中々難儀だったよ」
キョウヤはジャケットをはたきながら苦も無く言うと、すかさず低い体勢で走る。
キョウヤの得意技を失念していたリーシャは軽く舌打ちし、高らかに叫ぶ。
「タナトス!」
顕現したのは、リーシャが持つもう一つの具現化した精霊――タナトス。西洋の死神を表現した物体は彼女を庇うように立ち、手に携えた大きな鎌をキョウヤに向けて薙ぐ。
「うおッ!」
キョウヤが身体を仰け反らせて、跳び退く。今度はタナトスがキョウヤに追撃をかけた。鋭利な鎌があらゆる方向から飛ぶ。予測不能な軌道を描く攻撃を、キョウヤは両手の指全てに精霊を付与させ、叩き落とす。
緑と黒の光が花火のように激しく散る。金属が弾け飛ぶ音が連続で響いた。
「くそったれ!」
精霊の純度はタナトスの方が上。徐々にキョウヤが押し負けていく。
リーシャがタナトスの操作に集中をしているその遥か前方。爆破した車が炎を上げる先に、小さな影がリーシャの視界の隅に入る。
猛然とこちらに向かってくるもの。真紅のオートバイだ。そこに跨っている人物を認識して、リーシャは大きく目を剥く。
アイサだ。彼女はヘルメットもなしに、高速走行でこちらに迫って来ていた。驚くべきはハンドルに手が置かれていない。E.A.Wのスナイパーライフルを構え、スコープを覗きながら走っているのだ。
標的は当然、言うまでもない。
「チッ!」
分が悪いと判断したリーシャセクメトを召喚。この高速道路から逃げようとすぐさまセクメトの背に乗り、走り出す。
(アイサめ、近くのICにでも待機していたか。用意のいいことだ)
だが、妙だ。マスターを護衛したいのならば、キョウヤにしてもアイサにしても存在をもっとアピールすればいいものを。普通なら対象に近づけさせないのが護衛の役割というものだ。作戦としてあり得ないが、これではわざとマスターを殺させるのが目的のようではないか。
何ともまどろっこしい、気に食わないやり方だ。
(本当に何を考えている……!)
これまでのことも含めて不可解な点が多すぎる。
困惑したまま、リーシャは後ろを窺う。
アイサのバイクはどんどん迫ってきていた。セクメトも全力で走れば車にも負けない速度を出せるが、それではリーシャ自身の体力も削れていってしまう。
アイサのスナイパーライフルが光を放つ。放たれた炎の弾丸は真っ直ぐリーシャめがけて飛んでくる。
「…………!!」
勢いよく鮮血が舞う。
タナトスの鎌がキョウヤの胸元を真横に斬り裂いた。返す刀、今度はキョウヤを縦に真っ二つにしようと、鎌が振り上げられる。キョウヤはその瞬間に敢えて懐に踏み込み、みぞおちへ拳を叩き込む。精霊同士が衝突する独特の感触。タナトスを吹き飛ばす。腹部が焦げたような煙を上げているものの、効いているのかどうか。判別しづらいのが厄介なことこの上ない。
キョウヤは溢れる胸の血液を押さえながら、タナトスに言った。
「厚い忠義心なこったねぇ。ご主人様はもう遥か遠くへ行っちまったぞ。それでもまだ俺とやるってのかよ?」
無論、タナトスに返答はない。
ゆらゆらと浮遊しながら鎌を軽やかに回転させるタナトスに嫌気がさしてくるキョウヤ。
直後。その動きが、途端にぎこちなくなる。まるで電波が悪いかのようにノイズが走り、存在が半透明になっていく。その理由を瞬時に理解したキョウヤはタナトスに突進する。
「術者のコントロールが届かなくなっているようだな。よい子は大人しく親元に帰りな!!」
右腕を腰元に据え、五指を開く。猛禽類のかぎ爪のように。精霊の力が集約し、そこから繰り出される技。
「許されざる隠者の爪!」
五本のラインを描くキョウヤの爪が、タナトスの横腹から反対側の肩を一気に抉り取る。存在を維持できなくなったタナトスは、いとも簡単に刈り取られた。
消滅するタナトス。といっても、一時的にリーシャの元に戻っただけ。
キョウヤは道路脇の塀にもたれ、座り込む。思った以上に胸の傷が酷い。痛みに顔を歪めながら風の力で応急処置を試みるが、どうも時間が掛かりそうだ。
「いってー……」
もう一方の手で煙草を咥え、火を点ける。青空に灰色の煙がゆっくり溶けていく。
「あー言ったものの、こりゃ俺も見届けるのは難しいかね……」
男同士の約束なんてクサイ真似するんじゃなかったか、とキョウヤは力なく笑う。




