3
病室のベッドに座り込んだまま、織笠は人形のようにじっとしていた。
空虚な瞳には何も映っていない。泣きはらしたせいで、もう涙も枯れてしまった。ぐるぐると考えることに疲れたのか、思考さえまともに働いていない。
遠くの方で何かを叩く音が聞こえた。病室のドアの横には大きなアクリル板があり、その向こう側にもう一枚ドアがある。まるで刑務所の面会室のような構造。少し不思議に思っていた織笠だったが、すぐに理解した。そうか、俺は捕まってここに送られたのか――と。牢屋と病室の違いはあっても、やはり犯罪者として扱われたのだろう。
くぐもった音の正体はノックだった。遠くのドアから誰かが入ってくる。
アイサだ。
「あ、起きたんだね。良かった」
声はマイクを通して病室のスピーカーから流れてきた。機械を通していても分かる。いつもの張りがない。表情も暗く、元気が取り柄な彼女の姿は見る影もない。
当然だ。
「アイサちゃん……」
気まずさから、織笠はすぐに目を逸らす。アイサはアクリル板越しではなく、直接中に入ってきて来客用の椅子に腰かけた。
「傷は大丈夫? ごめんね、ウチらも手加減出来なくてさ」
「う、うん……」
気遣うように、努めて明るく言ってくれるのが逆に堪えた。
近くで見ると、アイサも所々怪我をしているようだった。精保のジャケットやその下のセーラー服が破けている。それを見て、織笠はますます申し訳ない気持ちになってくる。
「アイサちゃん」
「ん?」
「その……ごめん……」
「……うん」
それだけしか言えなかった。
お互いに、そこから言葉が出なくなった。無言の時間が続く。会わせる顔がないだけに、何を話せばいいのか思い付かない。アイサにしても織笠の真実を知ってしまったことで、どう声をかけていいやら迷っている感じだ。
やがて、もどかしくなったのかアイサの方が先に口を開いた。
「後遺症はどう? 洗脳を受けたんでしょ。辛さはない?」
おずおずとした口調。視線は膝元に落としたままだ。
「少し頭痛がするくらいで、特に問題ないよ」
「そっか」
「――俺は、どれくらい眠ってたの?」
「……ん? そんなに時間は経ってないんじゃないかな。二、三時間くらい……じゃない?」
意外と目覚めるのが早かったようだ。身の回りの物が何もないので時間を把握出来ないが、感覚的にもっと眠っていたように感じていたのだが。
「状況は? 何か進展はあった?」
「……え? あ、ああ……っとね。レイジが気絶した後に、リーシャ姉――対象は逃げちゃって。私がすぐに追いかけて何とか見つけたんだけど、その……えっと……また逃げられちゃったんだ。だから依然、捜索中……ってとこ」
何やら言い淀むアイサ。確保し損ねたことを恥じているのだろうかと一瞬思ったが、妙な歯切れの悪さに織笠は眉をひそめる。
「どうかした?」
「え? う、ううん。別に」
アイサは根が真っ直ぐな子だ。隠し事や嘘が正直得意ではない。インジェクターという人の欺瞞を暴く仕事には中々不向きではあるが、その純粋さこそが彼女の力だ。
リーシャとの間に何かしらあったのだろうか。実の姉妹のような関係だったのだから――と、織笠は勝手に推測した。
「そっか。まだ、あの人は捕まっていないんだね」
「うん。だけど雲隠れってことはないと思う。高飛びするにしても、まだリーシャ姉は何も成していないから」
「そう……だね」
『伊邪那美の継承者』のリーダーとして、リーシャは手にしたものは今の時点で一つもない。
マスターを殺すという、過去の清算。
織笠を伴侶とし、新世界の礎を築くこと。
「まだ、終わってない。これから……だよ」
「これから……か。俺はどうなるのかな?」
「…………」
無意味な問いかけだ。
アイサに自分の処遇を尋ねたところで分かるはずもないし、知っていたとしても優しい彼女のことだ。言えるはずもない。
再びの沈黙。そこへ、スライドするドアの音が病室の静寂を破る。
「目が覚めたようだな」
まるで織笠が意識を取り戻すのを事前に知っていたかのように、淡白な口調でカイが入ってきた。そして、内側のドアを開けたところで織笠の隣にいるアイサを見て、納得したように言った。
「お前も来ていたのか」
「はい……」
「あのことは、もう伝えたのか?」
「……いえ。まだ……です」
アイサの顔が強張る。間が空いて、アイサは俯きながら答えた。
「そうか……」
カイも表情を曇らせ、深く息を吐いた。背中を丸め、震えたアイサの肩を優しく叩く。
「なんですか、一体? あのことって……」
訝しむ織笠。二人は共通の目的でここに来たらしい。どうやら自分に報告があるようだが、彼等の態度からして良くない内容なのは明らかだった。
「……ああ」
意を決したようにカイは織笠の方に向き直り、躊躇いなく言った。
「三十分ほど前の話だ。君の自宅前で襲撃があった。被害者は四名。任務に当たっていた精霊警備員二名、それと君のご両親……織笠雅英さんと天音さんだ」
「……ッ!?」
一瞬、カイの言葉が呑み込めなかった。頭が真っ白になり、思考が止まる。理解が脳に這いずってくる頃には全身が震えだした。
「……は? え? あ、あの……それ……は……」
「犯人はまず精霊警備員を殺害。周辺の住人は避難が済んでいたため、怪しまれず容易に近づけたのだろう。その後、騒ぎを聞きつけたご両親が外に出たところを襲われたようだ」
「ふ、二人は!? 父さんと母さんはどうなったんですか!?」
ベッドから勢いよく立ち上がって、織笠はカイの腕を掴むと激しく揺さぶった。カイは、その強く握り締められた腕をそっと下ろすと、胸元の携帯端末を取り出し画像を表示。織笠に見せた。そこに映っていたのは、病室のベッドで並んで眠る織笠夫妻の姿だった。
「安心していい、一命は取り留めた。ただ、やはり酷い状態で絶対安静は必要だが」
腰が砕けるように織笠がベッドに落ちる。すかさずアイサが力の抜けた身体を支えた。
「発見が早かったのも、助かった要因だろう。もう少し時間が経っていたら危なかったかもしれない」
「間に合ってよかったよ。キョウヤさんから連絡貰ってすぐさま駆け付けたんだけど、最初はダメかと思った。でもまだ息のある状態だったからね。急いで病院に運んだんだ」
「アイサちゃんが助けてくれたの?」
アイサが頷く。織笠は彼女にすがるように「ありがとう」と何度も繰り返した。
「こんなこともあろうかと、あらかじめ精霊警備員を就けておいたんだがな。俺の判断が甘かった。……すまん」
無念そうにカイは呟く。
「……ですか」
「……レイジ?」
不安そうにアイサが織笠の顔を覗き込もうとする。勢いよく上げた織笠の表情は怒りに満ちていた。
「誰なんですか!? 誰が一体そんなことを!!」
「……それは君が一番よく分かっているんじゃないか?」
冷たく、静かな声でカイは答えた。
いやに冷静な返答の意味を理解した途端、織笠の顔がみるみる強張っていく。
この暴動に乗じた強盗なら、カイはとっくに犯人の詳細を告げていただろう。勿体つけた言い方をしたのは、すぐにその解答に行きつくからだ。精霊警備員が配置された場所に、わざわざリスクを冒してまで織笠夫婦を狙う者。
該当する人物なんて一人しかいない。
「白袖・リーシャ・ケイオス……」
カイは重々しく頷く。
「彼女の私怨……、その一つが“D.E.P関係者の抹殺”。『伊邪那美の継承者』として活動する以前に当時の研究員を殺していたリーシャは、完遂する為に織笠夫妻を狙った。ユリカから深手を負っていたにも拘らずな」
「ここにきて性急なのは、リーシャにも余裕が無かったんだと思う。本当はレイジを手に入れた上で、計画を終わらせるつもりだったんだろうけど――」
「俺たちがそうさせなかった」
アイサの言葉をカイが引き継ぐ。
「残念ながら捕まえられなかったが……。まさかあの身体で無茶するとはな」
呆然と聞き入っていた織笠は、妙な感覚に陥っていた。
親を襲った犯人。それがリーシャだと分かって、心の奥底で納得している自分がいる。憤りは無論ある。それはリーシャに対しても、両親に対しても、だ。非道な行いをした報い――結果の罰。法的に裁かれるのが筋だろうが、いままで罪から逃れてきた痛みがここでのしかかったわけだ。育ててくれた感謝と家族としての情はあれど、全てを投げうって自分が庇えるものじゃない。
どちらも擁護できない――それが複雑な気持ちとなって、織笠は途方に暮れる。
「すいません。私が至らないばっかりに……」
肩を落とすアイサに、織笠は弱々しく首を振る。
「ううん。アイサちゃんが間に合わなかったら、きっと父さんたちは死んでた。ありがとう」
真実を知って、それでも織笠に礼を言われるとは思ってなかったのか、アイサは複雑な笑みを浮かべてまた俯く。
「でも……分からないの。その、こんなこと言うの変だけど、どうしてリーシャ姉はレイジのご両親を殺さなかったのかなって」
「殺せなかったからじゃないのか? 精霊警備員もいたから」
首を傾げるカイに、アイサはかぶりを振る。
「なら私もやられません。リーシャ姉には確実に力が残ってた。私には敢えて生かした……としか思えないんです」
「……それは多分」
ぽつりと、織笠が零した。
「俺を逃がし、ここまで育てあげた敬意だと思います。あの人自身、“D.E.P”に憎悪を抱いていても関係者に直接恨みがあったわけではありません。あるのは陽のマスターのみ。ただ告発なんてしようものなら、どこかで握りつぶされる。だからこその『伊邪那美の継承者』だった。血の涙を流し切ったあの人は、私情に流される真似はしない。冷酷に、冷静に、事を為していった。本当に殺したいのはマスターだけなんですから」
淡々とした織笠の言葉に、カイもアイサも目を丸くした。
まるで織笠がリーシャと同化したような分析。それもそうだろう。言ってしまえば血を分けた姉弟なのだ。本当に魂で繋がっているかのように相手の想いが理解できてしまう。ある意味で、精神的に不安定な織笠も危険な状態であるのかもしれない。
「じゃ、じゃあこれからリーシャ姉はどうするんでしょうか」
アイサの不安げな呟きに、カイは唸る。
「重要な詰めの部分が失敗した今、今度はどんな手に出るのか……だな」
「恐らく、もうなりふり構わないと。手段は問わない。それだけ、あの人は追い詰められている」
「そうだろうな」
根拠はない。しかし、そう断言できる。状況を見てきたわけでもない織笠の予測を、カイも肯定する。そして、しばらく考えた後に、いまだ同調の海に漂う織笠に呼びかける。
「……レイジ」
「……はい」
声色を硬くしたカイに、織笠は思わず警戒した。厳しい視線を送るカイに、織笠は息を呑む。
「君の処分は一時保留だ。この事件が収束した後に、改めて考えさせてもらう」
「……え?」
「現在、事態は逼迫した状況にある。はっきりいって君のインジェクターとしての権限剥奪は免れない。だが、それを――」
「ちょっと待ってください、カイさん! レイジは操られていただけなんですよ!? なのに、いきなりクビだなんて横暴じゃないですか!!」
アイサが噛みつくように叫ぶ。それを落ち着けとばかりに手で制し、カイは続けた。
「だから言ったろう。今はそっちに手を回している余裕はない。即時執行なんて無理だ。それに任を解けるのはマスターだけだしな」
「カイさん……」
「マスターに危機が及んでいる以上、今はここで治療を続けるのが最も妥当な判断だと思う。ここなら安全は保障されているしな」
どう反応していいか分からず、困惑する織笠。
さらにカイは驚くべき言葉を告げる。
「しかし裏を返せば、君はまだインジェクターであるともいえる。挽回のチャンス……ではないが、リーシャ確保の為に力を貸してほしい」
「え……」
「こちらとしても人員の削減はキツい。それに俺は、この事件を解決できるのはお前だけだと思っている」
「俺は……皆さんに銃を向けた反逆者なんですよ? なのに……」
信じられない提案だ。それではお咎めなしと同じではないか。もし織笠がもう一度仲間に加われば、今度はカイ自身の立場も危うくなるというのに。
「お前は望んで背任行為に及んだのか? 違うだろう。確かに任務の最中、俺たちをE.A.Wで攻撃した。事情はどうあれ、立派な禁止事項だ。洗脳を受けていたとしても、それはレイジ自身の油断によるもので、弁明の余地もない」
「はい……」
「だが、大事なのは結果だ。このままじゃお前は只の流されるがままの駒になる」
「…………」
「言っておくが、これは命令じゃない。こちらに加わるか、やはりリーシャと共に行くか――ま、その場合はこのまま大人しく勾留してもらうが。……よく考えて決めて欲しい」
懇願ではない、あくまで突き放したような語調。彼は彼なりに、後輩としてではなく一人の人間として相対しているのだろう。
「……俺は……」
踵を返したカイは部屋を出る直前、ぼそりと口にする。
「自分が単なるショーの景品じゃないことを証明してみろ。未来はそれからだ」
と。アイサも「待ってるから」と呟き、カイの後を追って消えていった。
唐突に迫られた選択を前に、織笠は天を仰ぐ。まぶたを強く閉じ、同じ言葉を繰り返した。
「俺は……」




