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精霊世界のINJECTION  作者: 如月誠
第七章 心の行方
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 閑静な住宅街を、おぼつかない足取りで歩く人影があった。細身な身体を引きずるようにしながら、数歩進んではふらつき、大きく揺れて民家の外壁にもたれかかる。苦しげに呼吸を繰り返す。彼女の通った道には、点々と血の痕が滲んでいた。

 その痛ましい姿を見れば、誰もが駆け寄ってくるだろう。しかし、周囲に人はいない。暴動の避難勧告によるものだ。助けを乞えない状況ならば、絶望するのが普通。しかし、彼女にはむしろ好都合だった。

 白袖・リーシャ・ケイオスは再び歩き出す。少しずつ、血まみれの全身を陽の精霊で傷を癒しながら、目的の場所へと急いでいた。

 予定外だった。過小評価していたわけでは決してない。油断もなかった。それでも、ユリカの実力は想定を上回っていた。

 おかげで計画は変更を余儀なくさせられた。本命である陽のマスターを殺し、東京を崩壊させた上でこちらを処理する――自分の鎖を断ち切った後に、愛する織笠の枷を解き放つ。そうして彼と一緒に、新世界を創造する予定だったのだ。

 だが、仕方がない。

 計画の中で、これだけは自分のこだわりであり、単なるエゴ。織笠を奪われた悔しさは残るが、順序を変えるだけのこと。本当ならば彼の手で自らの呪いを解いてもらいたかったが、あまり時間もない。今しておかなければ、ここまでの準備が全て台無しになる。

 織笠を取り返すのはその後だ。

 目的地を視界に入れたところで、リーシャは物陰に身をひそめた。何の変哲もない一軒家の前に、黒いスーツを着た男が二人立っている。両方共サングラスをかけており、体格もいい。腕を後ろに回し、微動だにしないその姿はまるで機械のように生気を感じないが、リーシャには見覚えがあった。厳密には彼等個人ではなく、そのスーツの腕の部分に描かれた精保のマークだ。


精霊警備員エレメンタル・セキュリティー……。どうやら精保関係者と接触したようね……)


 精霊警備員エレメンタル・セキュリティーとは、インジェクターのように表立って治安維持に務めるのではなく、主に要人警護や金融機関の警備などにあたる、対精霊使い用に設立された精保傘下の下部組織である。インジェクター程の力はさすがに有していないものの、あらゆる特殊訓練を積んだ精鋭達だ。法によって力を行使すること許可された番犬である。


(罪を告白し、保護を願い出た……そんなところかしら。賢明な判断ね)


 恐らく手を回したのはカイに違いない。そうならば、いち早く織笠の真実に辿り着いたのも頷ける。そして、これは独断によるものだ。マスターならこんな命令はまず下さない。むしろ、隠蔽のために放置し、私に殺させる。そういう女なのだ。

 カイの判断は間違ってはいない。適切だ。

 ただ、甘い。

 リーシャは心中でほくそ笑む。そして、物陰から姿を現して堂々と彼らのいる方へ足を進める。

 足音に気付いた精霊警備員が、ふとリーシャを見る。瞬間、表情が強張る。リーシャの画像が表示されているのか、男たちが端末で確認し、互いに頷き合う。片方が耳に付けたインカムで連絡を取り始めた。仲間を呼ぶ気だろう。もしくは、カイにでも知らせているのか。――どっちでもいい。鼻で笑いながら、右手にマナを込める。現れたのはまるで燃え盛る炎のような黒い光。闇の精霊だ。

 殺意を感じ取った精霊警備員が、身構える。

 E.A.Wのような高性能なガジェットを持ち合わせていない彼等は、己の身一つで戦闘を行う。精霊をそのまま攻撃に使用、又は自分に付与させ運動能力を一時的に向上させるのが主だ。戦闘を専門とした職だけあって炎と大地が多く、彼等もまた二人とも炎の精霊使いだった。

 緩やかな速さで右手を横に払うリーシャ。闇の精霊は風に流され、消失。その行為が意図するところを、男たちは理解できない。

 そして、愕然とする。

 地面から現れた黒い円。虚無のような深淵から、異形の物体がじわじわとせり上がってくる。見るもおぞましい、ローブを羽織った人骨。それは、リーシャが精霊の力で生み出した、分身ともいえる存在――“具現化”。タナトスと名付けられた死神である。

 その姿を目にした途端、男たちはたじろぐ。ホログラムでも幻影でもない、現実の死神に恐怖したのだ。戦闘訓練を幾ら積もうとも、直面したことのない不条理を感じれば、何もかも無意味。戦意すら奪い取る。

 リーシャの瞳が細まり、妖しく光る。二人に向けて手招きながら、妖艶にささやく。


「さあ、ダンス・マカブル(死の舞踏)を始めましょうか。どちらから踊ってくださるの?」


 男たちが同時に雄たけびを上げた。気が狂ったわけではない。無理矢理に精神を奮い立たせているのだ。そして、炎を手に宿して猛然とリーシャへ突撃する。


「あらあら、せっかちな人たちねぇ。――タナトス、やりなさい」


 そう命じた瞬間、男たちの身体は無数に切り刻まれていた。タナトスの鎌が網の目のようなラインを描き、男たちを細切れにしたのだ。

 死を意識する時間さえなかっただろう。細かい肉片となって宙を舞う。熟した果物が潰れたような音を立てながら、地面を赤く染めた。


「うっ……」


 タナトスが光の粒子へと変わり、霧のように風に消える。リーシャが痛みに呻いたのはその直後だった。ユリカとの戦闘の消耗がまだ響いている。精霊の具現化は、より精巧なほどマナの消費が激しく、体力を削り取られる。早い話、燃費が悪いのだ。

 壁にもたれて息切れを起こしていると、騒ぎを聞きつけたのか慌ただしく何かが飛び出してきた。


「こ、これは……」


 自宅前の惨憺たる光景を見て、織笠雅英は思わず絶句した。続けて出てきた妻の織笠天音は、すぐに目を逸らし、口元を手で覆って嘔吐(えず)く。


「一体、な、何が……」

「……ようやく見つけましたよ」


 ゆらり、と身体を起こすリーシャ。ふらつきながら血溜まりに足を踏み入れたことで、ようやく織笠雅英は彼女の存在を認識したようだった。


「あ、貴方は……」


 呻く織笠雅英。織笠天音の方は怯えて声も出ないらしい。

 D.E.Pの主任研究員である彼等だ。当然、サンプルとなるリーシャのデータに目を通していたに違いない。表情が青ざめているのは、死体を見たからだけではない。彼女がここに来た理由を、禁忌を犯し続けた織笠夫婦は直感できたのだ。他の研究員がどうなってしまったのか、報じられなくても何かしらで知っているだろうから。


「わ、私たちを殺しにき、来たのか」


 だから、敢えて説明はしない。リーシャは艶然と微笑みかけ、素直に想いを口にした。


「ここまで長かった。罪を重ね続けた者が、いつまでも逃げることは許されない。それ相応の制裁を受けなければならないの。分かりますよね?」


 織笠雅英は答えなかった。悲痛に顔を歪め、俯いている。


「私は貴方達が憎い。何故、あんな命を弄ぶ愚行を犯したのか、と。あの女の命令したことであろうと、人としてのモラルは守るべきだった」

「…………」

「でもね、同時に感謝もしているんですよ。貴方達だけには」


 リーシャの意外な言葉に、織笠雅英は顔を上げた。


「欲望にまみれた神紛いの手からあの子を逃がし、大切に育ててくれた。おかげでレイジは清らかな心を持った素晴らしい人間に成長したのです。そのお礼もしたかった」


 胸に手を当て、リーシャは謝辞を述べる。紛れもない本心だった。

 もし、マスターに織笠零治が渡っていたら。都合のいい道具と化し、ただただ命令を忠実にこなすマシーンと化していたことだろう。そうなれば、奪還したとしても本当の意味で結ばれるのは難しくなる。純潔さこそが、最も必要な要素なのだ。


「だから幕引きとしましょう。これで罪の歴史も終わる。貴方達で最後です」


 そうしてリーシャは言葉を締めくくった。

 織笠夫妻の困惑した顔が一瞬で絶望に変わる。放たれる精霊の刃。それが届く刹那――彼等自身、気付いてないのかもしれない。もしくは、心の奥底で罰を望んでいたのか。恐怖の中に、僅かな諦観の色が混じっていたことに。






 焦燥感に駆られながら、アイサは街中を跳ぶ。

 キョウヤから連絡が入ったのは数分前のこと。『リーシャがレイジの両親を狙っている』と耳にし、急いで練馬区から織笠の自宅へと向かっていた。

 間抜け、と自分を罵ってやりたくなる。逃走したリーシャはまたアングラへと潜り、休息して力を蓄えてから、また復讐の機会を狙うものだとばかり考えていた。


(リーシャ姉がやるべきこと、やり残したことはもう一つ残っていたんだ。まさか、それをあの身体でするなんて……)


 逆を言えば、リーシャも切羽詰まっていると考えられなくもない。

 この暴動中に、全てを完了させる魂胆なのだろう。でないと、民衆への効果が薄れてしまう。こちらが立て直す機会を与えれば、状況的に不利になる。『伊邪那美の継承者』は既に壊滅しているのだ。また一から始めるには時間がかかりすぎるから。

 住宅街まで辿り着き、民家の屋根伝いに跳んでいると、突然マナの放出が風に乗ってやって来た。計測器を使うまでもない、肌で直に感じるほど大きな力。間違いなくリーシャだ。


「ッ!!」


 アイサはさらに加速。織笠家を視界に捉えたところで勢いよく飛び降りる。

 不意に漂ってきた異臭に、アイサは思わず顔をしかめた。紛れもなく血の匂い。眼前に広がるおびただしい赤い液体と、そこに浮かぶ物体は精霊警備員のものだと一目で気付いたアイサは、その先にいる女性の背中へ力一杯叫ぶ。


「リーシャ姉!!」


 もう決して相容れないと分かっていても、アイサにはその呼び方しか出来なかった。憧れであり、家族のように過ごした思い出は簡単に消え去るものではない。目元がじんわりと熱くなっている。


「少し遅かったわね、アイサ」


 リーシャは、首だけを回しゆっくりとこちらを向く。

 やはり、そこにはかつて自分に向けられた優しい笑みは微塵も無かった。嗜虐的に微笑み、頬から涙のように滴らせた血を指先で拭う。


「どういう意――」


 咄嗟に開いた口を、アイサはすぐに噤む。

 リーシャの先にある光景を目の当たりにして、驚きに瞳を大きく見開く。

 玄関先で倒れている男女。彼等も同じように血を流し、その海に浸ってピクリともしない。

 そして、理解。


「リーシャ姉!!」


 アイサが発したのは怒声ですらなかった。泣き叫ぶ子どものような甲高い喚きだった。E.A.Wのライフルを構え、勢い任せに引き金を引こうとする。


「セクメト!」


 リーシャが白銀の獅子を呼び出す。暴風と共に現れた巨体が、牙を剥き出しにして咆哮を上げる。それが衝撃波となり、アイサの小柄な体躯を軽々と数メートル後方まで吹き飛ばした。

 これでもまだ威力としては弱々しい方だ。リーシャの状態が万全であれば、今頃アイサは強烈なマナによって切り刻まれ、無惨な姿になっていただろう。


「うあッ!」


 地面に叩きつけられ、痛みに呻いていたアイサは、しばらく動くことが出来なかった。必死に酸素をかき集め、ようやく顔を上げてみると、そこにリーシャの姿はない。さらに上を見上げると、リーシャはセクメトの背に乗って遥か彼方へと飛んで行ってしまっていた。


「く……!」


 彼女を止められなかった。

 ここにいる誰一人、救えなかった。その悔しさから地面を強く殴りつける。歯噛みしながら、ふと織笠夫婦に目をやった。

 すると、織笠雅英の指が微かに動いた――気がした。痛みによる錯覚、もしくはそうあって欲しいという希望的観測からなのかもしれない。

 アイサはすぐに立ち上がり、二人の元に駆け寄った。傍によってよく確認してみる。

 微弱だが、確かに息をしていた。意識はないようだが、胸に耳を押し当てると心臓は弱々しく動いている。隣の織笠天音からは小さな呻き声が聞き取れた。

 肩の力が抜ける。しかし、アイサはすぐに表情を引き締めた。安堵している場合じゃない。危険な状態には変わりないのだ。急いで待機させておいた救急車を携帯端末で呼び寄せる。あらかじめ連絡を取り、後ろを追従させておいたのが功を奏した。


(でも良かった。生きていて――)


 通話を終え、ジャケットの胸元に端末を戻したアイサは、ふと疑問を覚えた。


 どうして、彼等は死んでいないのか。


 リーシャの目的は過去の忌まわしき実験の関係者を根絶やしにすることだ。リーシャの性格や計画の緻密さから考えても、失敗など許さないはずだ。

 織笠夫妻の抵抗が思ったより激しく、リーシャの深手も相まって仕留めきれなかったのか。いや、それは考えにくい。戦闘のプロでもある精霊警備員をあっさりと屠っている所から察するに、まだ力は十分に残っている。たかだか一般人二人を相手に殺し損ねはしないだろう。


(まさか……、リーシャ姉本人が手心を加えたとでもいうの?)


 よくよく観察してみれば、見た目こそ酷いが致命傷は絶妙に避けている。

 殺せなかった、ではなく、敢えて殺さなかったのか。

 だが、何の為に? 生かすメリットなどないのに。

 担架で運ばれていく彼等を見送りながら理由を探ってみるものの、明確な答えに辿り着くことはなかった。






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