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精霊世界のINJECTION  作者: 如月誠
第七章 心の行方
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 カイは携帯端末を耳から離し、真っ暗になったその画面をしばらく眺めていた。

 そしてフッと笑いを溢す――嘲笑。

 我ながら馬鹿馬鹿しい思い付きをしたものだ。これまでのことで錯乱でもしているのだろうか。……それもある。自分の企ては実に愚かだ。実直に生き、積み重ねたものを無に帰す行為。

 だが冷静に俯瞰で考えると、この方法しか取れない。いや、取りたくない。男の意地……というものだろう。

 かぶりを振って表情を引き締めると、カイは後ろを振り返り、仰ぎ見る。そこに佇む巨大な城――陽のアークを。

 精霊使いにとって、マスターは神にも等しい存在。普段でも顔を合わせる緊張してしまう。そこには畏敬の念があるが故。ただ、今回はいつもと様相が違う。その絶対の忠義に揺らぎが生じてしまった。まるで、徹夜明けにジョッキになみなみ注がれたガムシロップを無理矢理飲まされたように気分が悪い。

 重い足取りで敷地内から中に入ると、まるで彼の来訪を待っていたかのように陽のマスターが壇上に立っていた。


「ご報告に参りました」


 カイが一礼すると、フードから覗くマスターの唇がゆっくりと持ち上がる。


「ご苦労様です。此度の任務はかなり過酷であったでしょう。都市壊滅の危機――その目前で三班が団結し、見事防いでくれました。感謝致します」

「いえ……。最善は尽くしましたが死傷者はあまりに多く、尊い命が幾つも失われました」


 沈痛な面持ちでカイは言葉を零す。ねぎらわれたところで、素直には喜べない。今回の事で死者はどれだけ出たのだろうか。そして、その数はまだこれから増えていく。


「こちらの人員が失われることなく、事態を収束できたのです。よくやってくれたと私は思います」


 陽のマスターは深く頷くと、ゆったりとした動作で両手を広げて言った。


「タンクを見なさい。あれだけ乱れていたマナも今は落ち着いています。十分な成果と言えるでしょう」


 マスターの背後に扇状に並ぶ巨大なマナのタンク。ケーブルを伝って外界と密接に繋がっており、彼女はそれを見て状況を把握している。まだ幾つかのタンクは明滅が速かったり色が濁ったりしているが、流れ自体は緩やかだ。


「……ありがたきお言葉」


 どんな言葉も、カイには響かない。これまでのことで不信感が生まれてしまったがために、どこか薄っぺらく聞こえてしまう。

 ゆっくりと、カイの顎が持ち上がる。ようやく視線が交わった。


「それと、もう一つご報告が」

「何でしょう?」


 ここからが本題。水分が失われ張り付いてしまったかのような唇を、恐る恐る剝がして声を絞り出す。


「作戦行動中、『伊邪那美の継承者』のリーダーと接触。交戦致しました」

「……ほう」


 マスターの笑みが深くなった、気がした。

 ――よく似ている。そう、思わずにはいられないほどに。


「白袖・リーシャ・ケイオス。行方不明になっていた元・同僚です。彼女が全ての元凶でした」

「そうですか」


 淡白な返答。


「間違いないのですね?」

「はい。……驚かれないのですか?」

「いえ、あまりに衝撃的で言葉が出ないのです。と、同時に落胆しています。かつては正義の担い手であった者が悪に染まってしまった事実に」


 本当に? と、つい口をついて出そうだった。顔色を変えないマスターに、こちらも平静を装う。


「リーシャ本人の証言によれば、『伊邪那美の継承者』の真の目的は“世界の転覆”だそうです。社会のシステムを麻痺させ、壊滅させる。これまでターゲットにしてきた人物、または施設がそれを象徴しています。リーシャはそのために仲間を集い、計画を実行。大規模な犯行へ及んだ、と」

「確か……あの者が精保から抜けたのは一年ほど前でしたか」


 記憶を探るように少し上を見上げて首を傾けるマスターに、カイは軽く頷く。


「その間、奴は淡々と準備を進めていたようです。着目したのはストレイ区画の人間。復讐心を利用し、信頼できる仲間を引き入れていた」


 それがハイトやメイガス、有栖だった。主要メンバーの犯罪が下地となり、『伊邪那美の継承者』の求心力を高めたのだ。


「あの区画は、人間と精霊使いが安心して暮らせる社会を維持していくために敢えて切り離された放置国家。チョイスとしては恰好の的だったのでしょう」

「理想の実現のために、あの“離れ小島”は必要不可欠なのです。断じてシステムエラーなのではない」


 語気を強め、マスターは言った。


「ですが、結果として彼等には苦しい生活を強いてきた。その点は心苦しく思っています」

「リーシャはそこを綻びと感じていたようです。彼等を扇動し、地獄絵図を作り上げた。まるで、伊邪那美が自分自身を示さんばかりに――」

「……嘆かわしい」


 マスターが不満を露わにした。瞬間、空気が変化したのをカイは感じ取った。冷気を漂わせた厳かな口調に身体が竦む。


「たかが人殺しが神を気取るなど言語道断。人間と我々が長年かけて築き上げた調和を乱す行為など、先人たちへの冒涜でしかない」

「あの区画については今後、何かしらの対処を検討すべきかと。でなければ、根本的な解決には至らないと思われます」

「……現場からの意見は貴重ですからね。参考にさせていただきましょう」

「差し出がましい真似をして申し訳ありません」

「いえ。それで? 彼の者はどうなりましたか?」

「現在逃亡中です。すんでのところで取り逃がしました」

「ならば確保を急ぐように。最悪、生死は問いません」

「……は?」


 耳を疑った。カイにはマスターが何を言っているのかすぐには理解できなかったからだ。


「白袖・リーシャ・ケイオス。元・インジェクターであれば、実力は当然貴方たちと同等レベル。生かして捕えよなどと言う方が難しいでしょう」

「いや、ですが……」

「そうせざるを得ない状況にも陥るはず。迷いは禁物ですよ」


 有無を言わせない。息を飲むカイに、マスターはさらに告げる。


「大事なのは過去に囚われて間違いを犯してはならない、ということです。昔は仲間だったかもしれません。しかし、現在は大罪人と化しているのです。そのような者に情状酌量の余地などありません」


 それは暗に“殺せ”と言っているようなものだ。そんな命令は、どのようなケースにおいても絶対になかった。マスターは常に全精霊使いのことを考えている。それが殺人の許可? 死刑をそこで下せというのか。


(やはり、マスターはリーシャを……)


 狼狽えるカイを見て、陽のマスターは柔らかい微笑みを浮かべた。


「勘違いしないでください。判断は任せると言っているだけですから。適切な処置を下せばいいのです」

「……はい」


 表情とは裏腹に、マスターの声色は冷ややかだ。……いや。フードによって隠された自分を見下ろす瞳すらも、冷淡なものなのかもしれない。


「しかし、愚かにも程がある。インジェクターとしての責務を放棄しただけでは飽き足らず、こちらに反旗を翻すとは。才能に恵まれているだけでは荷が重かったのでしょうね」

「……ご存知ないのですか?  リーシャが離反した理由を」


 カイが静かに仕掛ける。そのためにここを訪れたのだ。


「いいえ。何も」


 否定。抑揚のない口ぶりからでは何も読み取れない。


「アイツを庇うつもりはありませんが、リーシャは決して脆弱な精神の持ち主などではなかった。インジェクターであることの重圧をちゃんと受け止めていました」

「……カイ。貴方は知っているのですか? 何故彼女が闇に堕ちたのかを」


 即座に言葉を発しようとして思い止まる。マスターの声音が一段低くなったか。警戒心なのかもしれない。

 カイは反抗的に見せないため、冷静に、そして慎重に言葉を選ぶ。


「すべては過去に起因していると思われます。出生の真実……家族の死。それに――」

「それは、あの者が自らの口でそう言っていたのですか?」


 マスターがカイの説明を遮るようにして訊く。首肯するカイ。それにマスターはあからさまな嘆息で返してきた。


「……カイ。貴方は犯罪者の()()を、いとも簡単に信じてしまったのですか」

「な……」


 予期せぬ返答に、カイは目を大きく見開く。


「相手は大規模な組織を短時間で作り上げ、都市を壊滅にまで追いやった脅威。弁など幾らでも立つのです。簡単に騙されてどうするのですか」

「ま、待ってください! アイツの言葉に嘘偽りはありません!!」

「どこにそんな証拠があるというのです?」

「……ッ。それは……」

「要は昔の恨みだと言いたいのでしょう? ですが、過去の記録など誰にでも閲覧可能のもの――それを貴方たちが把握した上で語っただけなのでは? ミスリード……いいように操られましたね」


 リーシャの人生は悲惨なものだと言わざるを得ない。故に、精保に入局した経緯も特殊だった。

 インジェクターの採用基準は血統に左右されない。無論、優秀な血筋を受け継いだエリートも所属しているが、最も重要視されるのは精神面の強さである。リーシャの場合はそのどちらも満たしていた。決して七光りなどではなかった。

 問題なのは、裏で行われたマスターとの取引。母を人質に取られたことでリーシャは我が身を犠牲にして精保に所属していたのだ。そんな事情はデータベース上に記載されていないのは当然としても、記録には悲しい歴史が残されている。

 陽と闇の混血児。そこから発生する親族との軋轢。どんなに強靭であろうとも、避けられない精神的摩耗。付随するインジェクターでいることへの価値。

 マスターは、そんな誰にでも思いつくような推察を逆に利用されたのではないかと言っているのだ。


「同情心で気を引いて、我々を欺くなんてよくある手法。喉元まで迫ったために、咄嗟に口から出たでまかせでしょう」


 聞く耳を持たない、なんてレベルじゃない。悪さをした生徒を諭すような教師のような口調で、マスターは首を左右に振った。


「昔の仲間を信じたい気持ちも分かります。ですが情に流されてはいけませんよ」

「そんなことは断じてありません」


 このままでは言いくるめられてしまう。

 カイは毅然として言った。


「戯言の裏付けがあるとでも?」


 深く頷くカイ。それから意を決するように、生唾を飲みこむ。


「世界を壊す……。どんな恨みがあろうとも、まずそこまで思い至らない。余程強い憎悪であろうとも、怨みの解消は、その対象を消し去るだけで終わりでしょう」


 フードに隠されたマスターの眼光が鋭くなった気がした。マスターも、リーシャの狙いが自分であることに勘付いてはいるはずだ。だからこそ彼女は()()が公になる前にリーシャを片付けたいのだ。

 そう――カイは睨んでいた。


「リーシャは掴んでいるんです。この社会を破滅に落とす鍵を」


 しかし。


「回りくどい言い方なんて貴方らしくありませんね。……カイ。もったいぶらずに言ったらどうです?」


 そして、マスターは口元に手を添えて上品に微笑む。


「……本当にあったかどうかも分からない生物実験。それこそがあの女が持ち帰ったマスターキーだと」

「!?」


 言葉を失うカイ。まさか本人の口からD・E・Pが出てくるとは。唖然と口を開けるカイに、マスターは高らかに笑い声を上げた。


「馬鹿馬鹿しいですね。それを手土産にして何になるというのです? 第一、精霊使いの代表である私がそんなことをしていたなんて、民は信じますか? その目的すら見えないのに。憐れですね、あの女も。もう少し知恵が回ると思っていましたが、無駄なあがきでしたね」

「マスター!」

「カイ。人は信じたいものを信じるものですよ。いつの世も神の言葉は正しく、大多数の信者は示された道を辿る。歴史は常に神から作り出されるのです。下賤な者が咆哮を上げたところで、待っているのは淘汰。波風が幾ら起ころうとも、いつかは正常さを取り戻す――ただそれだけです」


 カイは愕然とした。自分の目の前にいるのは誰だと、錯覚さえ覚えそうだった。足元がふらつき、立ちくらみがした。これが、あのマスターだと? 

 誰よりも慈愛に満ち、清廉な心の持ち主――それこそがマスターであることの証ではなかったのか。


「カイ」


 陽のマスターは再度、部下の名を呼ぶ。さながら敬虔(けいけん)な使徒を導くように、陽のマスターは穏やかに言った。


「貴方もまた精霊使いの代表なのです。インジェクターとして、最も正しい選択をしてくれるものと、私は確信していますよ」


 柔和に笑みを浮かべ、マスターは建物の奥へと消えていった。カイはただ呆然と、その後姿を見送るしかない。





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