7
『白山比咩神研究所』。
ひび割れ、文字も消えかけてかなり見にくくなっているが、敷地前の塀に張られたステンレスプレートにはそう書かれてあった。
面積自体はさほど広くなく、中央に位置する建造物も三階建て。古き神の名を冠しているにしては、小ぢんまりとした施設だった。
かつて、この場所は精霊使いの能力を測るためのマナ測定所だった。運動性能やマナ保有値から総合的な能力を算出。個人のデータを取って政府が管理する――ただ、それだけのために存在した建物だ。
しかし年月が経つにつれ、民間企業や家庭にも計測装置が普及したために、その存在価値も意味をなさなくなってしまった。それからは単なるトレーニングジムとして運営されていたが、それも倒産。現在では一般人立ち入り禁止の無人廃墟に成り果てていた。
どうしてイナンナはこんなところへ連れてきたのか。織笠は不思議に思いつつ、案内される間に仲間に連絡を取ろうとしたが携帯端末が無くなっていることに気付いた。戦闘の最中に落としたのかもしれない。
「イナンナさん、ここは……」
彼女の言った『真実』の意味。その答えがこんなところにあるというのだろうか。B班のことも気がかりだが、今は正直好奇心の方が勝ってしまっている。
「全ての始まりの地。この世界が成立してから生まれた罪の歴史が、ここに埋まっているんです」
荒んだ風を受けて銀色の髪がなびく。イナンナは織笠を見ることなく、研究所を見つめながらそう答えた。
「それが……俺と関係ある?」
「私にもです。不思議ではありませんでしたか? 何故私が貴方にこだわるのか」
イナンナが柔らかい笑みを浮かべながら、こちらを向く。織笠は素直に頷いた。
「その理由がここにあります。――行きましょう。目的地は地下にあります」
壊れた自動ドアを力任せにこじ開け中に入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。建具や機器の劣化から錆びついた匂いが辺りに充満していた。
冬が近いせいもあるだろう、内部は異様な寒さだ。暗いエントランスを抜け、スパークリングルームを横切る。一階部分の奥へ進んでいくと、細い廊下の先は突き当りになっていた。
「ここ……ですか? 何もありませんけど……」
辺りを見回して、織笠は不安げに訊く。
「ええ。こういった施設は各セクションごとに部屋が設けられているのが当たり前。ですがレイジさんの言う通り、この通路は真っ直ぐに伸びて、それで終わり。……変でしょう?」
逆に織笠に問いながら、イナンナは壁に触れる。
燐光が現れたのはその直後だった。色は紫に近い黒。闇の力だ。イナンナから発せられた多量の小さな光の粒子は、渦を巻きながら彼女の腕に吸い寄せられた。
壁に不可思議な紋様が浮かび上がる。イナンナの手のひらから衝撃波が生まれ、一瞬にして壁を粉々に吹き飛ばしてしまった。
「いっ……!?」
突然の破壊行為に目を剥く織笠。爆風が荒れ狂い、粉塵が舞う。無人の廃墟なので警備員はいないが、警報装置が生きている可能性はある。作動すれば、それこそ警備会社からすぐにでもすっ飛んでくるだろう。
しかし、当の本人は無表情。法に触れることを平然とやってのけて何とも思わないのか。真意を問いただそうと織笠が詰め寄ろうとした――そのときだ。
爆風が風向きを突然変えた。イナンナが開けた穴に粉塵も破片も全部飲み込まれていく。
穴の先は巨大な円柱状の空洞になっていた。剥き出しの金属板が円に沿ってぐるりと張り巡らされ、不恰好な壁になっている。
下がどうなっているのか窺おうとして、寒気が走った。底が全く見えないのだ。階段が壁の内側に取り付けられているが、その円の先も闇の中に消えてしまっている。どれだけ深いのか見つめ続けているだけで、知らぬ間に身を投げてしまいそうな錯覚に囚われる。
「うわ……」
「当時、この通路は確かに繋がっていた。非常用とでもして扉があったのでしょう。けれどそれも壁と化していた。……何の意図があったからなのか」
「それは……単に不要になったからじゃ……?」
少し眩暈を覚えた織笠は頭を振りながら、イナンナに返答する。
「もしそうならわざわざ大掛かりな工事をしてまで封鎖する必要はないでしょう。この下に何があるのか――それを知っている人物が無かったことにしたいがための工作ではないでしょうか」
冷淡な口調でイナンナは織笠の推測を否定する。
織笠はそこで彼女の様子の変化を感じ取った。語調もそうだが、どこか冷静ではなかった。無表情に見えても少し違う。怒り。悲しみ。憎しみ。そういった激情を押し殺しているような……。しかしそれを悟られないように無を演じている風だった。
「政府が運営する施設には大抵、マスターも絡んでいます。精霊使いのデータが欲しいのは人間だけではありませんから。むしろ、マスター達こそが科学の力を切望した」
「……イナンナさん。あなたはもしかして、昔ここで働いていたんですか?」
おずおずと織笠は訊ねてみた。彼女がもしここの研究員だったなら、事情に詳しいことに合点がいく。
しかし、イナンナは小さく笑みを漏らして首を横に振った。
「そうではありません。ただ、この研究施設がどんな場所だったのか調べは事前についていました」
そこでようやくイナンナは織笠に目を合わせる。青い瞳が少し揺らめく。
「この先に眠っている、とてつもなく大きな罪。それを貴方に知ってもらいたいの。……いいえ、知らなければならない」
「…………」
織笠は再度穴を覗き込んだ。
この果てしない闇の先に待っているもの。
人間だと信じていた自分が精霊使いだったその事実と直結するものであると、織笠は直感でそう思った。
そして、それは隠蔽しようとした何者か――イナンナの言葉を信じるなら、マスター達とも関連しているようだ。
「深淵に触れる覚悟は出来ましたか?」
耳元でそう囁かれ、ごくりと唾を飲み込む。以前にも似たようなことを言われた。あのときはユリカの過去を背負う勇気を試されたが、今度は自分だ。自らの正体を知るための一歩を問われている。
怖さは勿論ある。
しかし。
ここで踏み出さなければ何も分からないのだ。後戻りなんてしてはいけない。
「……はい。行きます」
織笠は決意の眼差しでイナンナに答えた。イナンナもまた深く頷く。
「それでは参りましょうか。何十年と封印され続けた窯の蓋を開けに」
どこまでも続く階段を降りた先は、一枚の扉を隔ててまたしても細く長い廊下が待っていた。暗すぎて数メートル先でさえ何も見えない状態。イナンナが光の精霊を生み出し簡易的なライト代わりにして奥に進む。
頼りない照明の中、二人の足音だけが妙に反響する。
驚きだったのは、上階よりも内装が遥かに良いことであった。精錬されている、というべきか。明らかにお金のかけ方が違う。予算が余ったからここを増設した……ようにはとても思えない。薄明かりでもそれは簡単に分かった。
「この地下では、何年にも渡ってある研究が行われていました。まるでこちらが主目的であり、測定所の方がカモフラージュと思えるぐらいにマスターはその研究に執着していた。ほら、証拠に上よりも綺麗なものでしょう?」
「研究って……。一体何の研究なんですか? やっぱりマナ関連ですよね?」
彼女がどこでそんな情報を手に入れたのか知らないが、話が本当なら余程の力の入れようだ。
不意に前を歩いていたイナンナの足が止まる。
「イナンナさん?」
イナンナは顔を少し上げ、何かを思案しているようだった。それから「そうですね」と独り言を呟くと、踵を返し織笠の手を握ってきた。
「少し寄り道をしましょう」
白くほっそりとした指。力強く握ってしまえば簡単に折れてしまいそうだ。思わぬ行動にびっくりしてイナンナの顔を見ると、彼女は何故か切なそうに笑みを浮かべていた。
「いきなり核の部分を見せても貴方には辛いだけ。順序だてて行けば少しはマシな筈ですから」
「イナンナ……さん?」
そのままイナンナは織笠の手を引いて、小さな部屋へと入っていった。足を踏み入れた瞬間、埃臭さが鼻についた。光の精霊が天井付近に移動し、室内を照らす。入り口側を除いて三方を囲む大きな棚。中にはファイルらしきものがびっしり詰まっていた。中央の事務机にも、少し揺らせば落ちてしまいそうな紙の束が山積みになっている。
「ここは……資料室?」
「そう。ここで行われた研究の全て――そのデータがここに保存されています。途方もなく長い、大罪の歴史ですよ」
織笠は机の上の紙を一枚、適当に取ってみた。書式からして報告書のようだ。日付は二十年以上も前。
「試験ナンバー112。炎と風の合成、タイプB2型……」
ざっと内容を目で追ってみるが、数字の羅列だったり難解な言葉ばかり並べられてあって訳が分からない。精霊の合成について調べていたことだけはどうにか読み取れた。他の報告書も似たようなもので、色んな組み合わせを試してはいずれも失敗に終わっている。
「精霊の合成実験ですよね、これって。あまり聞いたことないですけど……。デザイナー・エレメンタル・プロジェクト?」
織笠は首を捻りながら、一番気になっていた意味不明な名称について訊ねてみた。
「どういう意味です?」
その名前を聞いた途端、イナンナの表情に変化が起こった。あの穏やかな微笑が影に潜み、僅かな怒気が垣間見えた。震えた肩を落ち着けるために一度イナンナは深く息を吐いた。
「レイジさん、これは決して精霊の合成なんかではありません。もっと業の深い、禁じられた神々の遊びなんですよ」
「…………?」
イナンナが低い声音で忌々しげに呟く。
「精霊でなく、精霊使いの合成。いえ、適切な言い方をすれば、魂の融合――混血の精霊使いを人為的に生み出す、実に愚かな実験のことです」
「は……?」
衝撃的な発言に言葉を失う織笠。
「ちょちょ、ちょっと待って下さいよ! それって人工的に精霊使いを造るってことでしょ!? そんなのって――!」
人工的に生命を造り出す。アンドロイドなどでは決してない。生身を一から誕生させるのだ。
精霊使い最大の禁忌。混血の子どもにかかる影響は計り知れない。人間でさえも知っている世界の常識だ。それ以上に、そんなモラルに反する行為が許されるはずがない。
「そんな馬鹿げたことを、ここでやっていたっていうんですか!?」
顔をしかめてイナンナが首肯する。織笠はもう一度手元にある報告書に今度はじっくりと目を通す。克明ではないものの、イナンナの情報を頭に入れた上で読み直せばどうにか理解できた。
想像しただけで気分が悪くなる。しかもそのどれもが失敗となれば怒りすら沸いてくる。
誰がこんなことを――。
しかし、憤りを覚えた瞬間。織笠はあり得ないものを目にした。
「…………ッ!?」
研究担当者の欄。そこにはこう記載されていた。
“織笠雅英”――と。
「父……さん……?」
父親と同じ名前。同姓同名……なのだろうか。
(父さんが科学者だったなんて話は聞いたことがない……。いや、そんなまさか……)
別の紙を取って見てみる。大抵の報告書がその人物だ。もしかしたら主任のような立場だったのかもしれない。
そして、疑惑が確信に変わったのは、ふと別の名前を発見したときだった。
「織笠……天音……」
震えた手から紙が滑り落ちる。
今度は母親と同じ名前。
こんな偶然、あるわけない。
織笠は弾かれたように振り返り、今度は棚にしまわれたファイルを手当たり次第に広げていく。
(違う、違う。これも違う……!)
雑に放り投げられたファイルが床に散乱する。イナンナが織笠の名を呼ぶが、全く耳に入らない。それだけ冷静さを失っていた。目的のものを見つけたときには、既に足の踏み場もなくなるほど床がファイルで埋め尽くされた後だった。
「…………!」
織笠が探し求めたもの。それが、この実験に参加した研究者のメンバーが載ってある登録者名簿だった。
そこには、はっきりと写真付きで織笠の両親が白衣姿で存在していた。
今よりも当然若いが、間違いない。
視界が歪んだ。足元から崩れ落ちたところをイナンナに支えられ、床にへたり込む。
「大丈夫ですか、レイジさん」
「父さんと母さんが……そんな……」
信じられなかった。信じられるわけがなかった。
過去に両親が非人道的な実験に手を貸していただなんて。知らなかったのも勿論ショックだが、ただ、両親にしたって言えるはずもないだろう。息子にも黙っていたくらいだ。恐らく、実験に関わっていたことは仲間内しか知らないはずだ。
「気をしっかり持ってください。これはまだ貴方の持つ運命のうねりの一部でしかありません。お伝えしたいものはまだ先にあります」
「は……?」
「そして私の運命も、枝葉の一枚でしかない」
「なんなんですか、一体!!」
織笠は乱暴にイナンナの手を振りほどくと、勢いよく立ち上がる。眩暈を覚え、背中を強く棚に打ち付ける。痛みが走ったが、そんなことはどうでもいい。棚にもたれたながら、織笠は感情のままに叫ぶ。
「思わせぶりに俺を惑わせて、さっきから何が言いたいんですか!! 親が怪しげな実験を行っていた、そんなことを教えられて俺にどうしろって言うんですか!! 今さら公表しろとでも説得してほしいんですか!?」
「そんなことをしても無駄でしょう。マスター共の息がかかったこの世界では公表する前に全部揉み消される。最悪、レイジさんのご両親の命さえ危ない」
「じゃあ、貴女は一体――!!」
イナンナの冷静な指摘が、ますます織笠の心を荒立たせる。噛み付かなければ、自分を保てない。言われるがままここに連れてこられ、親の恥ずべき過去を知らされて最早どうしていいか分からないのだ。
そもそもイナンナの目的は何なのか。いつまでも勿体付けられては心の収まりが付かないのだ。
するとイナンナは肩を落とし、沈んだ声で言った。
「そうですね。そろそろ話さなければなりませんよね」
「…………?」
「まずは謝罪をさせて下さい。貴方にはイナンナ・クルヌギアと名乗りましたが、それは本当の名ではないのです」
ゆったりと立ち上がった彼女が姿勢を正す。右手を胸の前に添えて真っ直ぐに、怪訝そうな織笠を見据えた。
「白袖・リーシャ・ケイオス。これが私の本名です。訳あって偽名を使っていました。お許し下さい」
「何の為にそんな……」
「神を気取る者達を欺くため、私の存在を隠さなければ動きづらくなるので。私はあの者共に近しい位置にいましたから」
「マスターの? え? じゃあまさか……」
「そうです。私は少し前まで精保に所属していました。インジェクターとして、そして今の貴方と同じB班で」
「!?」
呼吸が止まった。
「なん……ですっ……、は……?」
唖然とする織笠。
だが、その言葉で直感した。
B班のオフィスでのカイ達の会話。自分のために用意されたのではなく、空席となっていたデスク。五人構成であるはずのチームで唯一、B班だけが四人だった理由。
そう、彼女こそが。
「じゃあ……一年ぐらい前に突然いなくなったメンバーって……」
「私です」
「…………!」
「カイ、キョウヤにアイサ……。共に濃密な時間を過ごしていました。ユリカさんは当時別の班でしたが、私がいなくなった直後に異動になったと聞いています。――懐かしいですね」
彼等のことを知っている。インジェクターの情報には規制がかかっているため、それだけで証明になる。
間違いない。イナンナ――いや、リーシャこそがB班本来のメンバーだったのだ。
「どうして……」
「居なくなった、ですか? 簡単な話ですよ。正義なんて初めから存在しないからです」
まるで石にされたように愕然として動けない織笠に、リーシャは淡々と続ける。
「だから私は神の代行者を降りた。そして今は反逆者として生きている。『伊邪那美の継承者』……よくご存知でしょう?」
ドレスのスカートを指先で摘まみ、優雅なお辞儀をしてみせたリーシャはにっこりと微笑む。
「初めまして。インジェクター、織笠零治。改めて名乗りましょう。私こそ貴方たちが求める彼のリーダー、白袖・リーシャ・ケイオスです」
幾度となく訪れる衝撃に、織笠の頭は付いていけるはずもなかった。




