5
夢を見ていた。
視界がぼやけている。そこは暗い箱の中のように思えた。無機質であり、少し息が詰まる。閉鎖空間のような重苦しい感覚だ。
その遥か上から、いくつかの丸い光が注がれている。色は淡い緑。人工的な照明――そこは箱ではなく、部屋だった。明かりを知覚すると、その部屋が広いことが分かった。
長方形の室内には、幾つもの計測器らしきものとコンピューターの数々。何かの研究施設だろうか。精保に似ているが、グレードはこちらの方が数段劣る。
焦点は部屋の奥にあった。そこには手術台のような硬質な台座があり、細長い棒が等間隔で並べられていた。試験管……のようだ。粘着性のありそうな液体の中に、何とも判別の付かない物体が浮遊していた。見慣れない者には、あまり気分のいい光景とは言えない。
しかし、この夢は何なのだろうか。夢に意味を求めるなど不毛でしかないが、俯瞰で見させられるこの映像は、何もかもが不鮮明なのにも拘らず、妙なリアリティがあった。
台座の周りには白衣を着た人間が数名、様子を見守るように取り囲んでいた。そのうちの一人――若い男が必死に何かを訴えかけているらしく、声を荒げているが誰も耳を貸そうとしていない。おおよそこの実験のことで異議を唱えているのだろうが、上手く聞き取れなかった。
そこからの展開を知るとこはできなかった。視界が白い靄に覆われてきた。やがて、映像が急速に遠のいていく。
――そして、暗転する。
「ん……」
織笠のまぶたが痙攣を伴いながら動いた。僅かな隙間から光が差し込んでくる。知覚できるのはそれだけ。ひどく視界が霞んでしまっている。目覚めたばかりで焦点が定まっていないのだ。
自分は眠っていたことに気付くのにも、やはり時間を要した。
それでも自然と視界が鮮明になってくる。まず捉えたのは、小さなシャンデリアだった。
「こ、こは……?」
背中には柔らかい感触。身体が沈んでいるのは、ベッドの上だからか。どうやら仰向けに寝かされているようだ。
思考が働かない。夢を見ていた気がするが、具体的な内容は思い出せなかった。何だか気にかかるが、夢は夢。すぐに見た事すら忘れてしまうだろう。
それよりも。
見覚えのない部屋だ。目だけを動かして確認してみると、シンプルな内装だった。必要最低限の家財道具しかない。それでも革張りのソファや大画面のテレビなど高級ホテルの一室にも思えるが、生活感があまり感じられない。どんな人物が住んでいるのだろうか。
問題は、なぜ自分がこんなところにいるのか――ということだ。
(そうだ! 俺、ハイトと戦って――!!)
勢いよく体を起こした瞬間、織笠は呻いた。
全身に走る激痛。脂汗が途端に噴き出てきた。苦悶に顔を歪め、声すら出せない。全身の骨という骨が折れているのではないかと思えるぐらい、脳からの伝達に痛みが直結する。
呼吸を繰り返して痛みが和らぐのを待つ。そうしていると、徐々に記憶が蘇ってきた。
ハイトとの死闘。
己の血液をあれほど撒き散らしてよく生きていられたものだ。それほど、あの男は強敵だった。
(俺は……勝ったんだよな……? 最後、気を失って覚えていないけど……)
全身には包帯が巻かれていた。見事に首から下がミイラのような状態になっている。どうやらここの住人に拾われたようだ。だが、ここが精保でないのなら病院にも連れて行かず誰が看護してくれたのか。
――そこへ。
「駄目ですよ、起きちゃ。まだ寝ていないと」
涼やかな音色。どんなに満身創痍でも、意識を失っていようとも、透き通ったその声は脳に優しく響く。
記憶を手繰り寄せなくとも、織笠は知っている。この声の主を。首を横に回すと、その人物は丁度部屋に入ってきたところだったようだった。
「イナンナ……さん……?」
織笠は、呆けたように名前を口にした。
腰元まである、絹織物のように光沢がかかった銀糸の髪。青い瞳と陶器のような肌を持った外国人のような美貌。
イナンナ・クルヌギア。
彼女とは数度しか顔を合わせたことはない。それでも、忘れるなんて絶対にありはしない。ただ、今日はいつもと違う点があった。過去に会ったときは、白を基調とした清楚な出で立ちだった。深窓の令嬢という表現がぴったり当てはまるような、少し近寄りがたい印象。けれども、今彼女が身に纏っているのは黒衣のロングドレスだった。鎖骨から胸元が大きく開き、艶麗でありながらどこかの王族だと錯覚するような威風堂々たる姿。自分が騎士ならば、間違いなく膝を着くに違いない。
織笠は息を呑みながら、思わず見とれてしまっていた。
「さあ、横になってください。重傷なんですから、安静にしていないと」
水の入ったコップを乗せたトレイを、ベッドの横にある小棚に置くイナンナ。シーツをかけながら、織笠をゆっくりとベッドに押し戻す。
「ここって……、イナンナさんのお家なんですか……?」
「はい。突然で驚かれたでしょう? でも良かった、目が覚めて」
安堵した様子で、イナンナはにっこりと微笑む。
「私も驚きました。凄い音が近くでしたので、見に行ってみると貴方が全身血だらけで倒れていたので。もしかしたら死んでいるんじゃないか……と不安になりました。ですが息がありましたので、急いでここに運んだんです」
「イナンナさんが? 一人で、ですか?」
「はい。こう見えて力はあるんですよ?」
イナンナが、可愛らしく力こぶを作ってみせる。言うほど大の男一人を抱えて運べるような身体つきではなさそうなのだが。それこそ、精霊の力でも借りたのだろうか。
「あ、ありがとうございます」
とはいえ申し訳ないことをした。ハイトとの戦闘の場からここまでどれくらい距離があるのか分からないが面倒をかけてしまった。
「そうだ!」
織笠が飛び起きようとしたところを、イナンナに押さえつけられる。確かに思ったより腕力はあるようだ。
「イナンナさん、あの場所にいたんですよね? だったら俺以外にも人がいたはずなんです。知りませんか?」
「それはどのような?」
「男です。長身で痩せ気味の……。スーツを着てました」
「……いえ……。見ませんでしたね」
僅かに黙考した後、イナンナは首を横に振った。
「それじゃ、猫は? いや、違うのかな……。イナンナさん、妖精は知っていますよね?」
「はい。とても稀少ですが実在しますよね。私も見たことはあります。レイジさんは妖精とお知り合いなのですか?」
「……ええ、まぁ。仕事の関係で……。あのときもそいつと一緒だったんです」
「私が駆け付けたときには貴方一人だけでした。――そうですか、それは心配ですね……」
「…………」
織笠は天井を見上げながら、下唇を噛む。
(そんな馬鹿な……)
記憶を呼び覚ましてみる。空中の刹那、純白の剣は確実にハイトの胸部を貫いた。自分の腹に残る傷が何よりの証拠だ。
織笠の身体は限界だった。E.A.Wに積んだマナも底をついていた。だとしても、ハイトのマナを奪い、昏倒させるのは十分な一撃だったはず。
まさかあれだけの重傷を負いながら逃げたというのか。
(ありえない……。モエナにしたって、どこに行ったっていうんだ……)
あの小さい身体だ。かなり遠くの方まで吹き飛ばされた可能性はある。カイたちに保護されてくれれば良いのだが……。
そして、もう一つ。
織笠は思い出す。
戦闘の中で知った――ある重要な事実を。
(俺は……精霊使い……だったのか……)
ありえないと思っていた。
当然だ。人間として産まれ、人間として育ってきたのだから。精霊使いは人間の上位種ではない。別次元の生物だ。学生時代に検査はいくらでもあった。そこに引っ掛かりでもすれば、大騒ぎになっていたはず。
――だが、違っていた。眠っていた……ということなのだろうか。それこそ科学では発覚できないほどの奥底に。
あの覚醒の瞬間。言い表せない高揚感があった。ハイトに受けた傷もどこかに吹き飛ぶほど、力が沸き起こっていた。他人のマナやE.A.Wに内蔵されているサンプルマナを使っての発現では味わえない感覚。精霊の基本――自然のマナと体内のマナの結合による、力の噴出を実感していた。
分かってしまった。理解してしまった。
もう疑いの余地はない。
認めなければいけないだろう。
精霊使いなんだと。
(どういうことなんだろう……。父さんや母さんは知っていたのかな……。分からないや……)
確かめなければいけない。精保の人たちにも自分の生存を知らせねばならない。
「あつ、駄目ですよ。まともに動ける状態ではないんですから」
身体を起こした織笠をイナンナが慌てて止めた。両肩を掴んでベッドに押し戻し、沈痛な表情で織笠の顔を覗く。
「貴方の身体は今、全身の筋繊維はおろか、血管の一本一本に至るまでズタズタに千切れた状態。本来なら即手術が必要なんです」
「はぁ……」
じゃあ、なぜ自宅に? という疑問が頭をよぎる。
「極めて殺傷性の高い精霊を浴びたのも勿論ですが、主な原因は別でしょう。限界以上の精霊を生み出す反動に肉体が耐えきれず、血管が破裂……さらには筋繊維の断裂まで起きるのです。暴発……ではないですが、才能のある未熟な能力者にありがちな症状ですよ」
「そうなんですか……」
似た事例を織笠は知っている。
あれは宗島有栖の事件だったか。調査で精霊学校に行き、女学生に話を訊いたときだ。憧れのユリカに力を見てもらおうとしてマナが暴走し、コントロールが制御できなくなってしまった。
やはり確定、か。
血とマナの密接な関係。今の自分なら納得できる。理解できる。精霊使いでしか体験できない部分を説明され、簡単に胸に落ちた。
「それにしても凄いですね。見ただけで分かってしまうなんて。もしかして医療関係にお勤めなんですか?」
顔見知りではあるものの、イナンナのことは名前以外何も知らない。精霊についての知識に長けているため、研究者方面の仕事でもしているのかと織笠は勝手に思っていた。
「ええ、まあ。直接ではないんですが、近しい現場に携わっていました」
やや困ったように答えるイナンナ。過去形にしているあたり、現在は離れているのかもしれない。
「やっぱり。なんとなくそんな気はしていました」
「ええ。――だから治療法も心得ていますよ」
イナンナは、そう口元に笑みを浮かべながらささやくと、唐突にベッドに片足を乗せた。ドレスとシーツの衣擦れの音が織笠の耳に響く。イナンナはそのまま織笠の腹部にまたがる形を取った。
「イ、イナンナさん……?」
戸惑う織笠。そんな彼の包帯で巻かれた痛々しい胸を、イナンナはそっと優しく、少しもてあそぶように指でなぞりながら覆いかぶさる。顔と顔は鼻先が触れるほど近くなっている。
至近距離で見つめてくるイナンナの美貌は、これまでとは別種のものだ。まるで熱に浮かされたように恍惚とした表情。それがあまりに妖艶で、織笠の心臓は痛いぐらいに脈打つ。
「細胞レベルまで傷ついた肉体を治すのは容易ではありませんが、方法は色々あります。投薬、ミスト治療、輸血……。ですが、どれも時間や治療費がかかりすぎます。それではレイジさんが苦しむばかり。唯一、簡単で手っ取り早い治療がこれなんです」
「そ……それって……?」
イナンナが目を閉じる。彼女の体重が、織笠にじわりとのしかかる。ベッドが軋みを上げた。指先が首をなぞり、頬に触れた。
そして。
イナンナの艶やかな唇が織笠の乾いた唇に押し当てられた。
「ッ!?」
柔らかな感触。頭が真っ白になった織笠は思わずもがくものの、イナンナがそれを許さない。両手が織笠の顔を強く掴んで離さないのだ。
(なななななな……ッ!?)
しばらくの間、唇の上で踊っていたかと思えば、急に今度はイナンナの舌が織笠の口内に強引にねじ込まれた。絡み合い、唾液が混ざり合うことで湿り気を帯びた音が頭を痺れさせる。
全身が脱力し、溶けていく感覚。抵抗する力が根こそぎ奪われていく。
思考が麻痺していく中、何かが口内に流れ込んできた。穏やかな気流――微粒子の風のようなものが。それが喉を通り、全身に浸透していく。
瞬間。あれほど苦しんでいた激痛が嘘のように引いていったのである。
なんて心地いいんだろう。このまま眠りに落ちてしまいそうになりながら、全てを委ねる。どれだけこの甘く癒される口付けを交わしていたのか。イナンナの唇が離れた頃には、すっかり痛みは無くなっていた。
「最も即効性のある治療法――それが粘膜接触です。呼吸に乗せたマナを体内へと流し込む。今、私のマナを貴方に送り込みました。……気分はいかがです?」
「はい……。すごく楽になりました……」
「そうですか、それはよかった」
白磁の肌をほのかに上気させ、息も少し荒くしながらイナンナは安心したように微笑む。
「ただ、この方法にも条件があって。誰にでも行える、というわけではないんです。重要なのは互いの相性。属性が一致していないと無理なんです」
「ああ……」
いまだ痺れるような快感が残りながら、織笠は曖昧に返事した。確かに治療を施す側と受ける側、それぞれの属性が同じでなければ対象に拒絶反応が出てしまう場合もある。移植程の危険性はないにしろ、医療側も推奨しづらい方法と言えるだろう。
「……ん? ちょっと待ってください」
普通に納得しかけて、織笠にとある疑問が浮かぶ。
「でもそれって――」
「加えて重要なのは治療者が優秀であること。私も貴方と同様、生まれつき特殊な人間でして。陽と闇、二つの血が流れています。なので、必然的にレイジさんを治せるのは私しかいないのです」
「イナンナさんも俺と同じ……? って、いやそもそもどうして俺が精霊使いだと知って――」
「……レイジさん」
言葉が遮られる。絶えず微笑みを浮かべていたイナンナの表情が硬くなった。頬を撫でていた手の動きが止まる。澄んだ海のように鮮やかな瞳が織笠を真っ直ぐ射抜く。
「貴方……インジェクターですよね?」
呼吸が止まる。目を大きく見開いて、織笠は震える声で恐る恐る訊ねた。
「なんでそれを……」
織笠がインジェクターであることは秘匿事項だ。知っているのは精保の人間、もしくは理由は不明だが『伊邪那美の継承者』の幹部クラスだけ。織笠も口外は無論していない。その秘密を、どうして一般人のイナンナが知っている。思い当たるのは、ハイトとの戦闘の現場に彼女がいたこと。会話を聞かれていたのか。
「…………」
織笠の問いかけに、イナンナは答えなかった。黙ったままベッドから降りて部屋を出ようとノブを掴んだ彼女はポツリと言った。
「付いてきてください。……もう起き上がれますよね?」
「え……」
顔だけをこちらに向けるイナンナ。そこにははっきりと悲哀の色が滲んでいた。それも一瞬の内に氷のような微笑によって打ち消されていた。
「教えましょう、貴方とこの世界の真実を。――知りたくありませんか? 自分が何者なのかを」
生唾を飲みこむ。
彼女こそ何者なのか。何を知っているというのか。いずれにせよ、投げかけられた言葉を前に織笠には否定の返答など浮かばなかった。




