12
実に何の変哲もない、そよ風だった。
淡い緑を含みながら、街路や屹立するビル群、さらにはその建造物間にある隙間という隙間までも、穏やかに撫でていく。
「一体何を……」
そう織笠が呟いたところで、物陰に隠れていたモエナが大声で叫んできた。
「注意して! これはただの風じゃない!」
通常、精霊使いというのは、他者のスキルを特定するなんて能力は持ち合わせていない。術式からの推察、もしくは本人自らの告白によって把握する程度である。もっとも、現代となっては科学の力による解析は可能ではあるが、そんなもの、精保クラスの技術力を有してなければ、出来はしない。
ただし、例外は存在する。それが、精霊の上位種――妖精なのである。
体組織自体が精霊である妖精には、マナの感知だけでなく、能力者が生み出す精霊を直接肌に感じることでスキルの判別、さらには分析といった特質を持っている。
「モエナ?」
「のんびり説明してる暇はないわ! とにかく危険なの、早くこの場から――!?」
そうこちらに背を向け、退避を促してきたモエナが、突然呻きだした。脚が震え、立っていられない程苦しいのか、地面に伏せてしまう。
そして、光が彼女の全身から放出。それは本来の妖精へと変身するサインだ。しかし、あまりに弱々しい。鈍い発光だった。
光が収まると、モエナは妖精に戻っていた。
ぐったりとしたまま動かないモエナに、織笠は慌てて駆け寄る。
「モエナ! どうしたんだよ、モエナ!」
「う……」
「無駄ですよ」
風を放出し終えたのか、構えを解いて両手をパンツに突っ込んだハイトが言ってきた。
「私の蝕む緞帳からは逃れられません。もっとも、“移動”という行為に移る以前に、結果が現れますが」
織笠は、モエナの小さい身体をそっと抱き上げた。顔が異様に青白い。生気を根こそぎ奪われたみたいに。いつものあの活発さが、微塵も感じられない。羽もしおれていた。
「ンフフー。マナの塊である妖精には、効果がダイレクトに現れるようですねー」
「何をした!?」
「貴方にもそろそろ分かるはずですよー。ほら、沈没の序曲がすぐそこに」
「!?」
ガクッと膝が落ちる。
何だ。何が起きた。
立とうとしても、脚に力が入らない。
下半身だけではない。全身が鉛のように重くなってきた。身体がいうことをきかない。脳からの指令を、肉体が拒否しているかのようだ。
「ぐ……。これは……」
「アイツの……風には弱体化の……術式が組まれているの……よ」
今にも消え入りそうな声で、モエナが言った。
弱体化。その言葉に、ハイトの笑みが一層深くなる。
「ご名答ー」
高く打ち鳴らした拍手。乾いた音が響く。
「どうやら私のマナには、特殊な毒素が含まれていまして。それが風に乗り、相手の体内に入ると血中のマナを捕食してしまうんです。すると、マナ濃度が減り――あとは言う必要ないですよねぇ。ま、筋弛緩剤みたいなものです」
マナの衰弱効果。
織笠はハイトに顔を向けながら、両手の掌に横たわるモエナを見る。マナの結集が精霊なら、その精霊で構成されている妖精には、浸食はダイレクトに来る。変身能力が強制解除されたのはそのためだ。
「ま、私はメイガスのような戦闘タイプではないので。いくらこの風を浴びていても死にはしません。そこは安心してください」
モエナを片手で抱きかかえ、踏ん張りがきかない両脚でどうにか立つ織笠。ちょっとでも気を抜けば、また倒れてしまいそうだ。
「でもね、程々に痛めつけるには丁度いいのですよ」
接近したハイトが、織笠の顎を蹴り上げる。
鈍い衝撃に、脳が揺さぶられる。宙に上げられ、落下してくる織笠をじっくり待っていたハイトは、無防備な腹部に衝撃波を叩き込む。全身がくの字に折れ曲がりながら、バネのように吹っ飛ぶ織笠。地面を弾みながら、拍子に手から離れたモエナも転がっていく。
「あ……ぐ……」
呻きながら、織笠は手探りで武器を探す。どこにいった。霞む視界に、ぼんやりと黒い銃が見えた。身体を引きずりながら、必死に手を伸ばす。
「がっ!」
銃に指が触れる直前。手の甲に激痛が走る。
ハイトが織笠の手を強く踏みつけた。
「ですが……、不思議だと思いませんか?」
顔を歪める織笠。煙草を揉み消すように手の甲を痛めつけながら、ハイトが囁く。
「貴方は生まれてきてからずっと、人間として生活していた。登録上も人間。そこに何の疑いもなかった」
「それが何の……」
「ならば」
顔を近づけ、問いかける。
「どうして私の術が効くのでしょうね?」
「…………?」
「分かりませんか? 貴方は精霊使いのマナをコピーするから、そうして戦える。名目上そうなっているんでしょう?」
そうだ。
自分には精霊を生み出す能力はない。
それに。コピーといっても、誰からでも拝借できるわけでもない。インジェクターのような、素養の高い者にしか、力を借りられない。
今こうやって単独で戦闘できるのも、E.A.Wのサポートのおかげだ。内蔵されたサンプルマナを燃料のように引き出し、自力で精霊を扱えるようになっているに過ぎない。
「だとしたら増々おかしい。マナを体内に宿してない者に、私の術が効くはずがないんです」
「…………!?」
「なぜそんな驚くんです? 当然の疑問でしょう。まさか、今の今まで深く考えなかったとか?」
愕然とした表情を浮かべる織笠。抵抗の意思を失った彼からそっと足を離し、そのまましゃがみ込む。
「答えはね、簡単なんですよ」
穏やかに。しかし、まとわりつくような声音で。
「貴方が、本当は純粋な精霊使いだからですよ」
ハイトは言った。
その言葉が雑音のように。ノイズがかかったように、織笠の耳にこびりつく。
精霊使い? 俺が?
「馬鹿な……」
「動揺しているのですか? それこそ馬鹿な感情ですよ。精霊使いでなければなんだというんです?」
「違う。俺は……」
「違わない」
「違う!」
声を荒げ、拳を振るう。が、虚しく空を切った。
距離を取りつつ、ハイトは肩をすくめる。
「分かりませんねぇ。なぜそんなに必死に否定するのです? むしろ嬉しいのでは?」
「お前が俺の何を知っている!? 俺は人間だ、れっきとした!」
銃を拾い上げ、ハイトに銃口を向ける。しかし、震えて照準が合わない。それは手に残る痛みからか。もしくは、でたらめな言いがかりによる、怒りの感情によるものからなのか。
いいや、間違いなく、両方。
「俺は生まれてこの方、人間として生きてきた。両親も人間。それが事実だっていうのなら、とっくに分かっていたはずだ!!」
自分でもコントロールしきれない程、感情をむき出しにしていた。何も知らないくせに、と。知りもしないくせに、全てお見通しな口調。最初からだ。だからこそ、心底腹が立つ。
それでも、理性を少しでも傾ければ当然のように否定の材料は揃う。簡単な検査なんて、幼少期から何回でもしている。人間か精霊使いかなんて、それこそ別次元の生き物なのだ。
疑いの余地など、一欠けらもない。
元より、敵である男の妄言など信じるに値しない。
「滑稽ですねぇ」
それでも、眼前にいる痩躯の男は嘲笑う。指で顎を撫でながら、思案するように言った。
「う~ん、そろそろですかねぇ」
「今度は何を……」
直後だった。声が、出せなくなった。激しい眩暈が襲い、呼吸が苦しくなる。視界が歪み、平衡感覚まで失われていく。
(まさ……か、これは……)
ハイトの術の効果が、持続しているわけではない。
まるっきり別種の、そして昔から何度も味わってきた、この感覚。
ああ、これは。
「噓……だろ……」
突発性の持病。
体内で何かが這いずり、それがぐちゃぐちゃに掻き回されているようで気持ちが悪い。今回のは特別症状が酷いのか、下手すれば意識まで失いそうだ。
(こんな時に………!)
遂には、うずくまって苦しむ織笠。それを見て、ハイトは狂ったように笑いだす。
「くははははは!! たまりませんね、遂にお出ましだ!! そう、それこそが! 貴方が神の御子たる証なのですよ!!」
近づき、頭を抱える織笠の髪を無理矢理掴み上げ、顔を寄せる。
「うぐ……」
「貴方はその奇病をどこまで理解していますか? いえいえ、決して病気なんて呼んではいけません。この世界で、唯一貴方にしか現れない聖痕のようなものですからね。そこらへんの医者共や、精保なんかのクソ科学者なんかに分かるはずもありません」
「は……なせ……」
「教えて差し上げましょう。貴方はね、あの御方をベースに生み出された最高傑作なんですよ。その苦しみは、力を代償に得た弊害。数々の屍からようやく成功した、素体と血とマナのジャンクション――あぁ、なんて素晴らしい。奇跡だ」
歓喜に酔いしれるように、ハイトは天を仰ぐ。
一方、織笠の戦意は失われかけていた。持病と風の毒。この二つによって機能しない身体を前に、どうすればこの局面を打開できるというのか。
悔しさだけが、沸き起こる。
唇を噛み締めた織笠を見て、ハイトが「ふむ」と唸った。
「その顔は信じてないって感じですねぇ。それに、まだ瞳に力がある。これはいけません。こちらとしては、とことん貴方を虐めて絶望を知ってもらわないといけないのに。まだ足りないようで」
勝手に納得しながら、ハイトは髪を掴んでいた手を離す。ゆっくりと、そのまま地面に倒れようとする織笠。その頭をまるでボールでも蹴るように、雑に足を振り抜く。
乾いた音が響く。
後頭部を打ち付け、今度こそ織笠は倒れた。
「ぐ……う……」
言葉にならない弱々しい呻き。起き上がることさえできない織笠を前に、ハイトは胸に手を当てる。
「私もね、心苦しいのですよ。でも分かってください。これは全て貴方のためなんですよ」
本当に申し訳なさそうに、どこまでも心苦しそうに。
ハイトは、織笠をいたぶり続けた。
敢えて手加減しているのか、威力を抑えた風の刃を織笠の全身に浴びせて。ときに強く。ときに弱く。意識の混濁さえ許さない絶妙な力の調整で傷つけていく。
その攻撃がどのくらいの時間続いたのか、織笠には分からない。肉体だけではない。精神的にも嬲られながら、織笠は最早痛みに委ねるしかなかった。
そして。身体中に無数の傷を刻まれ、紙くずのように地を転がり、やがて止まる。
「…………」
声も上げられなくなった。口からはヒュー、ヒューという、か細い息しか漏れない。
あぁ、死ぬのかな。
そんな言葉が、素直に頭に浮かんだ。
もう、指一本動かせない。瞳を閉じれば、それで終わり。
――簡単だ。あまりにあっけなく、簡単に死ねてしまう。
横に向けられた視界に、ハイトの革靴が近くに映っている。かろうじて眼球だけは動いた。上を向き、ハイトを見る。
「こんなとこですかねー。そろそろ、そちらの応援も到着する頃でしょう。そうなると、さすがに私も少々不味いのでね」
ハイトの妙に細長い手が、織笠の顔を覆ってくる。何をする気だろうか。いや。もう、どうでもいい。
死を悟り、覚悟し――織笠は眠ろうとした。
そのとき。
爆発のような炸裂音が響いた。
暗かった景色が、突然光を取り戻す。閉じようとしていた瞼をもう一度しっかり開いてみると、そこにハイトの姿はなかった。
思わず身体を起こして探してみると、よろめきながら薄い煙が立ち昇る顔を押さえているハイトの姿がある。
「レイジ!」
ほぼ真横から、少女と思われる声が飛ぶ。
そちらに視線を移す。そこには、よろよろと力なく空中に浮かぶモエナがいた。寸でのところで、織笠を救ったのは彼女だった。
ハイトの術をまともに浴びていながら、苦悶していたモエナがどうやって。回復などしていない。しかし、真剣な眼差しで、彼女は叫ぶ。
「このバカ! なに簡単に死のうとしてんのよ!!」
「モエ……ナ……」
「アンタね、諦めんのが早すぎんのよ! インジェクターを舐めんじゃないわよ!!」
いつもの憎まれ口を叩くような口調ではない。悲痛さえも混じった魂の叫び。
「アンタは本当の意味でインジェクターを理解してない! インジェクターを正義の執行者って言う奴が多いけど。その本質はね、誇り高く、崇高であり、万人の上に立つ精霊使いを超えた特別な精霊使いなの!!」
「…………」
血が流れ過ぎて、冷めてきた身体。その芯に、少しだけだが熱を帯びた気がした。
「戦うことの重荷を感じなさい! 裁きの手であることを栄誉に思いなさい! アンタが選んだのは、そういう道なのよ!」
モエナが激しくせき込む。それでも彼女は止まらない。
「思い出して! アンタの先輩共は、死に呆気なく屈したの!? 違うでしょ!!」
「――!!」
「しっかりしなさい! アンタはこれまで、一体アイツ等の何を見てきたの!!」
もう指一本動かせないはずなのに。織笠は起き上がった。
(そうだ。俺はあの人たちから何を学んできた)
戦闘技術の高さだけか。違う。無論、それだけじゃない。どんな凶悪犯罪にも負けない、不屈の精神力。
皆、それがあった。
そこに、自分は尊敬と憧憬の念を抱いていた。
もし、今のこんな自分を見られでもしろ。
カイには、失望されてしまうに違いない。
キョウヤには、豪快に笑い飛ばされるに決まっている。
ユリカには、間違いなく自分の指導が甘かったと、更なる鬼のようなしごきを強いるはずだ。
アイサには、胸倉でも掴まれて永遠に叱咤され続けることだろう。
――情けない。
織笠は自分を恥じた。これでもないくらいに。
そして、仲間の顔を思い浮かべた瞬間。
織笠の身体から煙のようなものが出始めた。そこから激しい白い光が放出された。爆発的な精霊の発露。それがまるで、オーラのように可視化されている。
「レイジ、アンタ……」
今までにない力の感覚。高揚感というべきか。どこからそんな力が湧いてくるのか分からない。理解できないが、何故か心地いい。
「ち……。たかだか喋る精霊風情が余計な真似を……」
苛立ちを滲ませたしゃがれ声。爆破されたせいでへしゃげてしまった眼鏡を、ハイトは雑に放り捨てた。
「邪魔してくれましたねー。こちらの計画が台無しだ」
「ふん。そのムカつく顔に、一撃お見舞いできてスッキリしたわ」
勝気なモエナの言葉を、鼻で笑って一蹴したハイトは目線だけを横にずらす。
「ですが、これもまた良い兆候といいますか。素晴らしいものが見れました」
織笠の変化に微塵も動揺せず、ハイトは手を叩く。
「覚醒おめでとうございます。どうですか、気分のほどは。貴方は自ら示されたのです。精霊使いであると」
「…………」
答える気はなかった。だが、認めるべきなのだろう。
ただ、そんなことは現時点でどうでも良かった。
自身に起きた問題を処理するのは、眼前の男を倒してからだ。
「ですが、真の目覚めとはいえないようですねぇ。足りない、まだあの御方が求める器には満たしていない」
「……だとしたら?」
織笠は静かに問う。
「私の役目は変わりません。為すべきことを為す――その一点のみ」
「ああ。俺もだ」
その返事が、戦闘再開の合図。
ハイトの右腕が僅かに動きを見せた。風を纏う刃。しかし、それは準備の段階で呆気なく遮断される。破裂音と共に、風の精霊が相殺。右腕がゴムのように弾かれた。
唖然とするハイト。血まみれになった右腕を呆然と眺めながら、ゆっくり視線を前方に動かす。
そこには銃を構えた無表情の織笠。銃口からは、うっすらと煙が昇っている。
風の刃発動直前に、織笠が漆黒の銃で消し飛ばしたのだ。
「は……はは……」
力なく笑うハイト。
「ははははははははははははははははは!!」
それは哄笑へ移り、両手を風の刃に変えて織笠に突進する。織笠は、澄んだ瞳をハイトに定めたまま、喉元へと繰り出された風の手刀を純白の剣で受け止め、軽くいなす。
至極、冷静に。そのままの流れから、回し蹴りを空いた脇腹へ当てる。ごく自然に。織笠自身も思考すらしない、スムーズな反応だった。
ハイトは呻き声を上げ、街路樹に激突。地面を蹴った織笠が剣を逆手に持ち替え、座り込むハイトに飛び込む。
刃を下ろした織笠の右肩に衝撃が走る。そこにはハイトの掌が押し当てられていた。それでも織笠は構わず、強引にその腕に剣を突き刺した。
「ぐぅおあ……!!」
すぐさま織笠は、銃をハイトの眉間に向けようとするも、腹部に蹴りを入れられ距離を離される。追撃にかかったハイトはその瞬間、大きく目を見開く。吹き飛ばされながらも、織笠が振り上げた剣。その刀身が、白い燐光を発していることに。
「白雷」
稲妻を纏いながら、溢れんばかりの光り輝く剣をハイトの脳天へ落とした。それは、まるで大槌のように。地面を広範囲に渡って爆散。高エネルギーの塊によって、アスファルトが砕け散る。
その余波によって、破片と共に二人は軽く十メートル以上、宙へ投げ出された。
ただ、織笠に手ごたえはなかった。その感触通り、自由の利かない状態から風の浮遊調節を使い、ハイトが迫り来る。
「いいですねぇ、貴方には驚かされてばかりだ! もっと私に刺激をくださいよ!!」
「この……ッ!」
引き金を連続で絞る。だが、空中を自在に滑るハイトには通用しない。一直線の弾道は、すべてかわされてしまう。しなる腕から、鋭い刃が飛ぶ。その全てを剣で受け止める。
精霊による火花。そして、剣戟音が散った。
そして一瞬の隙を逃すまいと、織笠は剣を振るう。必死に。あがいて。もがいて。
ハイトも同じく、織笠の斬撃の間を縫い、身体を斬り刻む。
互いのマナが、血が。飛沫となって舞い続ける。
限界なんぞ、とうに超えている。飛びそうな意識を織笠は繋ぎ留めながら、攻撃の手を緩めない。
「るあぁぁぁあああ!」
「邪魔ですね、それ!」
突き刺そうと伸ばした織笠の腕を、ハイトが蹴り上げる。
「うぎ……ッ!」
骨が軋む嫌な音に、織笠は遂に純白の剣を手放してしまった。剣は回転しながら上空に消えて行く。あまりに遠く。もう、その柄を掴むことは敵わない。
(まだだ――!)
まだ、銃が残っている。しかし、精霊で精製される弾丸も一発が限度。織笠はすかさず引き金を引く。
だが。
弾丸は虚しく、ハイトの脇腹をすり抜けた。
「…………ッ!!」
「ハッハァ! 残念でしたねぇ! これでもう終わりですか、終わりですよねぇ! 大人しくもう眠り――」
地上まで、あと僅か。
ハイトが息の根を止めようと腕を引いた直後。ピタリと、その全身が硬直する。
織笠が穏やかな表情を浮かべていた。攻撃手段を失ったという、諦め。そんな風にも見える。
――しかし。
織笠の瞳は死んでいなかった。
「…………!?」
不可解そうなハイトに、織笠は静かに告げた。
「頭のいいアンタなら当然知ってるだろ。陽と闇は相克関係でありながら、片方だけでは成立しない。命の輪廻――生と死。つまり、二つで一つなんだ」
精霊使い随一の科学者を相手に、あえて常識を口にする。だからこそ、瞬時にハイトは気付いた。
後ろに顔を回す。上空に浮かぶ小さな影を見て、その細い相貌が驚愕に染まる。
手放したはずの、純白の剣。陽の性質であるにも拘わらず、何故か闇の光を纏いながら静止し、その切っ先が彼ら二人に向いていた。
「貴様、まさか――!」
そして漆黒の銃もまた、陽の光に包まれていた。
それが意味すること。
織笠がハイトの身体にしがみつく。完全に身動きできないように。
「これが、俺が持っている最後の技だ。――いや、技とも呼べない、普通の現象だ。そうだろ?」
「こんの……クソガキがぁぁぁぁああああああああ!!」
「禊賜るは太陽と月」
垣間見えた本性。見苦しく咆哮を上げるハイトの背後で、純白の剣が落下を始める。ぐんぐん加速を高め、剣は求めるかのように漆黒の銃の元へと吸い寄せられていく。その間にある、障害物など意に介すわけもなく。
(そうだ。俺は、こんなところで死ぬわけにはいかない。俺はいつか絶対に、あの人たちと肩を並べられるように――)
織笠は叫ぶ。ありったけの力を込めて。
「ならなきゃ、いけないんだよォォォォオオオオオオオオオオ!!」
純白の剣が、二人の身体を貫く。鮮血が噴き出し、混ざり合う。そのまま猛スピードで、地面に叩きつけられた。粉塵が舞い、風が荒れ狂う。大気を震わし、この辺り一帯のビルの窓ガラスが木っ端微塵に割れていった。一瞬にして機能的だった街並みが、荒廃と化した。
突風が止み煙が払われた、その中心部――陥没したアスファルトの上に、織笠とハイトは少し距離を離して倒れていた。
(やった……の……か……?)
織笠は頭を横に向け、ハイトの姿を確認してみる。うつ伏せになったハイトはピクリともしない。完全に意識を失っているようだった。
「終わっ……た……」
安堵感からか、織笠の意識も徐々に遠のいていく。
本来ならば、ハイトを拘束して初めて任務完了というべきだろうが、限界を超えた織笠には体を引きずる気力さえ残ってはいなかった。
視界がぼやけてきた――そのとき。誰かが近づいてくる気配がした。霞む視界ではそれが誰なのか判別が付かないが、その人物はこちらを見下ろして笑っているように見えた。
(カイ……さん……? いや……)
体格からして女性だろう。長髪からして、ユリカかもしれない。救援要請が届いて駆け付けてくれたのか。ならば、もう安心だろう。
織笠は、今度こそその瞳を閉じて、眠るように意識を失った。




