11
織笠はじりじりと後退しながら、パンツのポケットに忍ばせた携帯端末を、ハイトから見えないようそっと触れる。
通話機能をオンにし、ハイトとの接触を精保に伝えておく。こちらの声は出せないが、会話で状況を把握してくれるはずだ。
「救援要請ですか?」
「!?」
動きを悟られないようにしたつもりだったが、挙動が不自然だったらしい。あっさりと見抜かれた。浅知恵だったかと、織笠は唇を噛む。
「構いませんよ。こちらの要件はすぐ済みますので」
眼前の男はアルカイック・スマイルで言った。
「一度お会いしてみたかったんですよ、貴方にね」
「……どうして俺のことを」
「知っているのかって? 外部には一切漏れていないはずの新人インジェクターの存在を我々が把握しているのか、ですよね?」
ごくり、と織笠は生唾を飲む。
以前からの疑問点。『伊邪那美の継承者』は“織笠零治”という一つの個体を知っている。織笠自身に接点は当然ない。どんなに過去を思い返しても、見当すらない。
「簡単な話ですよ。知っていたからです。貴方がこの世に生まれる、その遥か前から」
さらりとハイトは言った。
「…………?」
「おおっと、勘違いしないでください。私たち下々の者は教えられただけですから。……もがれた純白の翼から出た希望の一つの羽根――世界再構築へのラストピースだと」
スラスラとハイトの唇が滑らかに動く。
「意味が分からない」
「神の言葉など、我々には到底理解しがたいものです。ですが、貴方は神の寵愛を受けているのですよ」
「神……? それはリーダーのことですね?」
「まともに取り合ってはだめ。こういう手合いは、でたらめなこと言ってこっちを惑わしながら主導権を握ろうとするんだから」
横からモエナがピシャリと言い放つ。織笠も、弁が立つ相手は得意じゃない。ミスリードの耐性が低いのは自覚している。
しかし。
ピース。すなわち、欠片。
頭の片隅で、針で突かれたような感覚が宿る。
「……ッ」
「精保にハッキングするような奴よ。まともな神経じゃないわ。」
「真実なのですがね。これだから一つの側面しか物事を判断できない凡夫は困る」
「ハッキングは否定しないのね。それだけで十分よ」
肩をすくめるハイト。
そうだ。余計なことは考えるな。織笠は頭を軽く振り、雑念を振り払う。
「メディカルセンターでの一件。そして、個別に行われた私怨による殺人。貴方はその全てに関与していますね?」
「さぁ? どうでしょう?」
ハイトは肯定も否定もしない。ただシニカルな表情で、こちらを見据えている。
ならば、と織笠は質問を変える。
「じゃあ、『伊邪那美の継承者』は一体何をしようというんですか? 共謀して犯罪を成立させる――そんなあくどい商売をするだけの集団ではありませんよね?」
「ははっ。中々言いますねー。ですが、挑発して私の言葉を引き出そうなんて甘いですよ。小型犬がキャンキャン吼えているようにしか聞こえませんから」
「な……」
ミシリと、剣の柄に悲鳴が上がる。強く握り締めたために。織笠は、険しい目つきでハイトを睨みつける。
「おおっと、失礼。失言をお詫びしましょう。神の御子には敬意を示さないと」
「答えてください。今回のテロ、それが本来の目的ですか」
唸るような低い声音で、織笠は問う。
「それは私の口から言わずとも、追々分かりますよ。ですが――」
と、言葉を切るハイト。たっぷりと間を置き、指で眼鏡を押し上げる。
「言っておきますと、メイガスや有栖。彼らは同志です。個人的な恨みの解消は、協力してくれたことへの対価でしかない。単なる報酬ですよ。その先があった。……ま、これからってときに貴方方に殺されましたが」
「違う! お前たちが口封じのためにやったんだろ!」
「いいえ。間違いなく、貴方方が生み出す社会に抹殺された。残念ですよ。んまぁ、それでも計画は滞りないのですがね」
「ふざけるな。そんな言い分通るとでも――」
織笠の言葉を打ち消すように、ハイトが語気を強めてくる。
「では問いますが、現状、ストレイに救済はありますか? ないでしょう? 天国と地獄がこれほど近い世界なんておかしいと思いませんか? なら、一度壊さないと」
「そんなの無茶苦茶だ! 確かにこの社会は平等とはいえない。それでも、先人たちが調和維持を重点に試行錯誤して、ようやくここまできた世界じゃないか。それを――」
「そう、いわば我々はマスター共が造り上げた不完全なシステムの中で生かされている。こちら側の最高権力者さえ押しのけ、舵取りをしているのは何故か。人形劇にするためですよ。我々の元いた世界と同じ偶像崇拝にしたいがための、ね」
「詭弁だ! そんな事実はない!」
実質、精霊使いが政治に関わることはない。実状は、あくまで人間側が精霊使いを尊重した結果だ。
「人間も精霊使いも関係ない。全員が安心に暮らせる世界を目指す――それが今だ」
「そんなの、民衆を安心させるための方便に決まっているじゃないですか。裏からアドバイザーとして待機している。要は操っているんですよ、人間の心さえも。マスターというのは、業突く張りばかりですから」
「貴方だって、只の精霊使いでしかない。上の仕組みなんて知らないはずだ。どうして断言できる?」
「ではお伺いしますが、これから先、我々の望むような世界が訪れると言い切れますか? 結局は、あの聖人もどきだけが都合のいい未来にしかならないと思いませんか?」
「そんなこと――」
ない、と言い切れなかった。
分からない。この世界を、この現実を、あるがままに。元より、そういうものなのだろうと受け入れてきた。何の疑念も抱かずに。
「私個人の目的がそれなのです。世界に挑むこと。この国の最高機関、精保への侵入。どうでしょう、ゾクゾクしませんか? マザーシステムこそ、マスターの思惑が全て詰まっている。彼らの脳を覗けるんですよ」
「馬鹿げてる。そんな興味本位で犯罪に加担するなんて……」
「犯罪、ね」
呟き、ハイトの笑みが歪む。
「法とは一体誰のためのものなのか。一億以上の市民なのか、はたまた統治する一部の王のものか――」
ハイトの五指が小刻みに動き始めた。ごきり、ごきりと不快な音が織笠の耳に響く。
「ま、いいでしょう。貴方もまた神ですから、いつか直面します。私はそのお手伝いをさせていただきますよ」
――来る。
そう直感した瞬間、織笠は真横にいる黒猫へ促す。
「モエナ、出来るだけ遠くへ!」
彼女もまた黙って従う。ゆっくり下がり、建物の影へと移動した。
ハイトの身体が右に傾く。直後、そのまま数メートル先に高速スライド。そして今度は反対に移動。ジグザグな動きでこちらへ襲い掛かる。
眼球で追うのがやっとだった。
一瞬で懐に詰められる。
「――ッ!?」
上半身を屈めたハイトが、右腕を横に振るう。織笠の視界の端に、薄く風を纏った手刀が映る。
反射的に織笠は後方へ地面を蹴った。ギリギリでかわしたつもりだったが、胸元のシャツに切れ目が入り、さらに肌へと赤いラインが描かれる。痛みもないほど綺麗に切れていた。
「く……!」
「ふむ。予想外に良い反応ですね。戦闘経験は乏しいと思っていたのですが」
風の精霊を纏うことで鋭利な刃物と化した長い指先を、ぺろりと舐めるハイト。
風の恩恵といえば、やはり速度。対象の身体能力を無視し、移動速度を高める。仕組みとしては、全身を浮遊させ低空飛行する、ホバーの要領。
もう一つが、風を一ヶ所に集中させ圧縮する――武器としての使用。刃物として又は砲弾として、様々な形状に変化させる。
その二つが代表的だ。風はとにかく自由度が高い。
「この短期間にご成長された様子。嬉しく思いますよ」
「……色々あったんで。そちらのお蔭で」
ハイトは、口角をさらに吊り上げる。
「それはそれは。その言葉をぜひ我が主にも仰ってください。さぞお喜びになりますよ」
織笠としては精いっぱいの皮肉を込めたつもりだったが。愉悦の色に染まったハイトに、心底、気味悪さを覚える。
有栖のときもそうだったが、この心酔度合いは異常だ。
ゆらりと、またハイトが重心を今度は左に傾ける。
(――させない!)
またスピードに乗せてしまえば厄介だ。なら、その前に封じるしかない。織笠は素早く漆黒の銃を構え、引き金を連続で引く。
狙いは正確だった。ハイトの表情が僅かに曇る。が、しかし。すぐに笑みに戻すと、まるで踊るようにターンする。宙を裂く黒い光弾が、呆気なく通り過ぎていく。
(くそっ!)
鮮やかにかわされたと嘆く暇はない。ハイトは先ほどと同じように鋭角に動き、距離を詰めようとしてくる。その間にも織笠は銃を撃ち続けるが、照準が定めにくく、一発も当たらなかった。ハイトの独特な走り方には、こちらの攻撃の狙いを惑わす、そんな意図もあるのだろう。
ハイトの手刀が喉元を襲う。
回避できない――そう悟った織笠は、上半身を庇うように両腕を十字にクロスさせる。
激突する、純白の刃と緑の刃。
二つの精霊がまるで悲鳴を上げているような、甲高い音と閃光が炸裂した。
「ぐぅうッ!」
「ハッハ! そんなものですか!? 違うでしょう!!」
織笠の両腕が勢いに負け、真上に弾かれる。ハイトはその隙を見逃さない。一度右腕を後方へ引き、真っ直ぐ突き出す。織笠の心臓に的を変えたのだ。
「さぁ、見せて下さいよ。神の御子の力を!」
腕を下ろして防ぐ。織笠の脳裏に、その選択肢が浮かんだが、それでは遅い。間違いなく、胸を貫かれてしまう。
だから、瞬時に思考を切り替え、上半身を仰け反らせた。弾かれた勢いを利用しながら。さらに、地面に倒れながらハイトの顎先に蹴りを見舞う。
予想外の反撃だったためか、ハイトの痩躯がふらふらとよろめいた。
ただ、効果は低い。無理な体勢で放ったためだ。例え相手が無防備でも、そこを理解していたからこそ、織笠は無謀な追撃はしなかった。立ち上がり、銃を構え直す。
「ふふふ……」
喜色に満ちた顔を、ハイトは向けてくる。
「ハハハハハッ!!」
狂ったような笑い声を上げながら、また突進してくる。次は一直線に。そして、両手を風の刃と化して。
次々と攻撃を繰り出すハイトに対し、織笠は防戦一方だった。
一撃そのものを防ぐのは、そう難しくない。ただ、いかんせん速い。しかも腕が鞭のようにしなり、目で捉えにくいのだ。多頭の蛇のように、一つ一つがランダムな軌道で襲いかかってくる。
「いいですねぇ! では、これはどうです!?」
顔面への攻撃を防いだ直後だった。
ハイトの空いた右手。そこに、硬球大の風の塊が出来上がっていた。精霊を集中させた高エネルギー体。
ハイトが、それを織笠の腹部へと押し付ける。接触と共に、皮膚を通り越して、内蔵を攪拌されていく感覚。織笠はロケットのように弾き飛ばされ、ガードレールに激突する。
「が、は……っ!」
血を吐きながら、地面に倒れ込む織笠。さらに追い打ちをかけてこようとするハイトを、闇雲に剣を振って距離を取らせると、今度は織笠が攻撃に転じる。
「ああああああああああ!」
咆哮を上げる織笠。トリガーにかかる指がとてつもない速さで動く。だが、どれもこれも的外れ。ハイトのいる場所など無視しているかのように、全て逸れていってしまう。
「おやおや、どこを狙っているのですか? 気でも触れ――」
そこでハイトは気付く。自分の周囲が、十数個の黒い光球に囲まれていることに。
正体は直前に放った織笠の弾丸だ。
「これで動けないだろ」
力強い瞳で、織笠は静かに呟く。
織笠はこのために敢えて外したのだ。レーザーの形状を瞬時に再構築させ、形状を変える。風の速さに対抗するための精霊の檻である。
「…………ッ!」
初めてハイトの余裕が崩れた。
劣勢にも拘わらず、冷静な思考。戦闘経験の浅さから、織笠を見下していた男の笑みが消える。そして、これから青年の起こす行動の予測も付いていた。
「弾けろ」
短く放たれたその言葉が、合図となる。
そう。浮遊する黒球は爆弾だった。
織笠の声に反応し、一斉に起動。瞬間、世界が白に包まれる。爆発開始――花が開くように黒の外殻から紫色の光が弾け、轟音が周囲に響き渡った。
織笠がユリカとの修練の間、ずっと感じていたこと。
圧倒的な戦力差である。その差を埋めるにはどうすればいいのか。
達人級の相手となれば、やはり小細工は通用しない。かといって、真正面からいけば待つのは死。
ならば、相手のペースにしないこと。一対一では特に重要だ。
(直接的なダメージは少ないはず。なにせ、疑似的な精霊だからな……)
だが、意表はついたはず。
隙を見せたなら、その好機を逃すな。
「るぁぁああああああ!」
痛みで肉体が悲鳴を上げるが、それをこらえ、織笠は前のめりに走り出す。立ち昇る爆煙へ、剣を振りかぶり突撃していく。
その先で、織笠は見てしまう。
煙の隙間から覗く、男の細い眼を。光彩もなく、淀んだ瞳。しかし、確実に、殺意が込められていた。
「だーかーらぁ、ぬるいんですよォ!」
下から上へ。何かが織笠の上半身を通った。それがハイトの放った手刀だと気づいたときには、身体中から血が噴き出していた。
織笠の全身が地面に着く直前、彼の視界にハイトが飛び込んでくるのが映った。止めを刺すために。そこで失いかけていた意識を取り戻し、すかさず横へ転がって追撃を間一髪回避した。
「がっは……、ぐ……」
胸元を掌で押さえつけながら、織笠は立ち上がろうとした。指の隙間からボタボタと流れ続ける大量の血液に、死の恐怖を感じる。それでも気力を奮い立たせ、歯を食いしばる。
対して、ハイトは無傷だった。
正確には、スーツが所々破れている程度。生身には汚れが付着しているだけ。
それだけだ。相変わらず、感情の読めない笑みを浮かべて。
――形勢逆転したかと思ったのに。
思わず、「くそっ」と吐き捨てた。
敵わないとは思えない。現時点の実力で、通用する――その確信はある。
厳然たる力量差は感じつつも、時間稼ぎくらいにはなれる。
そう感じる。感じるが。
分からない。
コイツは、俺をどうしたいのだ。
メイガスのように、全てを蹂躙するような破壊力があるわけでもない。
有栖やミコトのように、洗練された技術があるわけでもない。
カイたちならば、きっと楽に倒せるに違いない。
だけど。
見えてこないのだ。
『伊邪那美の継承者』には、明確な殺意があった。
剝き出しの怒りがあった。
慟哭があった。
残虐性が、そこにはあった。
しかし、ハイトからは何も伝わってこない。故の不気味さ。
何のために、俺の前に現れた?
「申し訳ありませんねぇ。つい、力がはいってしまいました」
ぺろりと舌を出し、下唇を舐めるハイト。
「本当に驚きました。まさか、術式まで考案されていたなんて。さすが可能性の塊、というべきでしょうか」
「さっきから何の話を……」
「貴方はね、未来の希望ですから」
「未来? 希望? それは貴方達が壊した先にある、絶望のことでしょ?」
「今は混沌でしかない。しかし、私たちの理念が達成されれば、待つのはひと時の静寂。そして、その行く末は全く別の、新しい第二の精霊社会が生まれる。貴方はその変革に於ける、キーマンというわけです」
「そっちの悪事に加担する気なんて毛頭ない」
「そうでしょうね。少なくとも、今は。ですが真実を知れば、必ず貴方はこちら側につく」
「まだ、そんなことを――」
「貴方の秘密ですよ」
ハイトは織笠の言葉を手で遮って言った。
「……なに?」
思わず訊き返す織笠。
「俺の……秘密?」
「おや。まさか見当がつかない、とでも? そんなわけありませんよねぇ」
意外そうに片眉を上げて、ハイトはにっこりと笑う。
「あるはずですよ。ずっと貴方の心に引っかかっているものが」
「…………」
「人間にしろ精霊使いにしろ、肉体に精神を宿す生物は、実に繊細ですよねぇ。とにかく壊れやすい。特に、心の些細な揺らぎには」
「……ッ!」
心臓が、痛いくらいに脈打つ。
どうして?
心当たりなら一つある。それは自分の心に、体に、血に、巣くうもの。
だが、そのことを奴が何故知っている?
「そこまで驚かなくても。言ったでしょう? 我らが神が、全てを知っていたんですよ」
「…………」
やはり、ここでもか。
心を落ち着かせようと、静かに深呼吸を繰り返す。
「そうか。だったら、俺は意地でもお前たちのリーダーに会わなきゃいけないらしい」
「レイジ!!」
遥か後方から、モエナが非難の声を出す。織笠は振り返ることなくハイトを見据え、話を続ける。
「だけどそれは仲間としてじゃない。俺はインジェクターとして。しっかりと法の裁きを受け入れてもらうために、『伊邪那美の継承者』と対峙する」
「……良い信念ですね」
微かな笑い声を漏らすハイト。嘲笑だろう。そして、さながらオペラ歌手のように両手を大きく開くと、こう告げてきた。
「では私も信念に基づいて貴方を痛めつけることにしましょう」
風が舞う。
男の全身から発せられる、緩やかな風の流れが街並みに拡がる。
ハイトの言葉とは反して、仕掛けにしては弱々しいもの。
織笠に油断はない。緊張を高まらせて出方を窺っていた。
しかし、その段階で既に遅かった。
その時点で、異変はすぐそこに迫っていたのだから――。




