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精霊世界のINJECTION  作者: 如月誠
第四章 未来は嗤う
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 織笠は、大学の正門を出たところで激しく後悔した。

 この日は朝から曇天模様だったが、大学が昼までだからと油断していたのが災いした。講義が終わり、さあ帰ろうとしたところで雨が降り出した。幸い、まだ小降り。カバンで頭上を覆いながら走り出す。

 大学から自宅までは、歩いて二〇分の距離。雨も大して強くもないし、この程度ならあまり濡れずに済むと、織笠は楽観的に考える。

 それにしても、単位が危ない。精保の仕事もあるので、毎日大学に行けないのが現状だ。授業を調節して組んではあるのだが、やはり事件などが起きるとそちらを重視せざるを得ない。アイサに話を訊くと、学校と相談して上手く両立させているようだった。羨ましいな、と思う。


(俺が精保の関係者なのは秘匿事項だからなぁ……)


 このままだと卒業できるのか、本気で悩む。

 駅前に着いた辺りで雨がひどくなってきた。徐々に衣服が肌に貼り付いて、気持ち悪い感触を寄越す。


(おいおい、マジかよ……)


 普段、通学は徒歩にしている。お金がもったいないからだ。バスも滅多に使わないし、タクシーなんて以ての外。精保で働くようになって、多少の給料は貰っているものの、贅沢をする気にはなれなかった。そんなポリシーも、織笠と同じように突然の雨に打たれながら走っている人を見ると、今日ぐらいは破ってもいいかなぁと思えてきた。

 とりあえず、交差点に面した店の軒先で雨宿りをしながら、信号が青に変わるのを待つ。バスに乗るにしても、横断歩道の向こう側。このままずぶ濡れになるのは御免だ。

 出来れば、通り雨であってほしいなぁ……、そう空を眺めながらぼんやり考えていると。


「――あら?」


 ふと、織笠の耳に綺麗な声が届く。そちらに目を向けると、歩道を傘を差しながら歩いてきた女性と目が合った。

 精霊使いが日本に定住してもう数十年と経つが、それでも珍しい銀糸の髪。どこかの令嬢を思わせる白いブラウスとスカートは、気品を感じさせた。

 その女性は柔らかな笑みをたたえて、パンプスの小気味いい音を鳴らしながらこちらへ向かってくる。

 どこかで会ったような気がする。見覚えはあるのだが、はっきりとは思い出せない。


「こんなところで奇遇ですね」

「あっ、はい……」


 急に声をかけられ戸惑いながらも、一応返事をする織笠。


「お久しぶりですね。どうしたんですか、びしょ濡れですよ?」

「傘を忘れてしまって……。雨が降るなんて思ってもみなかったので」

「そうですね。天気予報も当たらないものです」


 緊張もあってか、たどたどしい織笠にクスリと女性は笑い声を漏らす。そして、肩に掛けたバッグからハンカチを取り出した彼女は、その手を織笠の顔に触れようと近づけた。


「とぅぁあ!」


 女性の突飛な行動を受け、キテレツな叫びを上げながら後ずさってしまう織笠。それがまた可笑しいのか、彼女は目を細めて言った。


「せっかく雨宿りされていたのに、それではまた濡れてしまいますよ」

「いや、でも……」

「そのままでは風邪を引きますから。さぁ、こちらに」


 大人しく彼女に従い、織笠は近寄った。再度、女性は織笠の頬から全体にかけて優しい手つきで水気を拭き取っていく。その際、距離が近くなるのは仕方のないことなのだが、他人の顔をまじまじ見つめるのはさすがに失礼なので、目を逸らしながらじっと耐えることにした。


「はい、終わりました」

「ど、どうもありがとうございます。あの――」


 拭き終わるのを待っている間、この女性が一体誰なのか思考を巡らしてみたが、やっぱり出てこない。

 すると、彼女はやや残念そうに苦笑した。


「お忘れですか? 天霊祭でのこと」

「天れ……」


 瞬間、全てを思い出した。


「――ああ!!」


 思わず街のど真ん中で叫びを上げてしまう織笠。

 この銀髪の女性と出会ったのは、新明大学の学園祭。織笠のクラスは、展示物を出し物として用意していた。内容なんて至って退屈なものだったが、そこへ見学に来たのが彼女だった。何故かは分からないが、彼女の希望で織笠がガイド役になり少しばかり会話を交わしたのだが、すっかり脳内から消え去っていた。


「嬉しいと同時に悲しいです。私にとってあなたとの再会は、これ以上ない至福だというのに」

「ご、ごめんなさい!」


 落ち込む女性を見て、すぐさま織笠は頭を下げる。


「いや、あのときは色々あったし、その後もバタバタしていて、とにかく大変だったというか……。決して忘れていたわけじゃなくて!」

「…………」

「すいません、完全に頭から抜け落ちていました!!」


 少し拗ねたように、じっと織笠を見つめていた彼女はやがて、プッと小さく吹き出した。


「フフッ、別に怒っていませんよ」

「……本当、ですか?」

「ええ。言い訳は良くありませんので、少し意地悪をしてみただけです」


 それに、と彼女は言って。


「大変だったのは事実ですし」

「あっ、そうですよ! あの爆発の後大丈夫でした? 皆パニックになっていたから」

「ええ。私はすぐに外へ避難しましたので無傷でしたよ」

「そうですか……良かった」


 数ヵ月前に起きた新明大学爆破事件。あれは当時の学長、矢崎を狙ったメイガスの仕業だった。無差別テロではないにしろ、二次災害で何が起こるか分からない。逃げ惑う人々の悪意なき独りよがりな防衛本能で、他人を傷つけることだって容易に起こりうる。それだけ、逼迫ひっぱくした状況だったのだ。


「私はすごく気になっていました。――貴方のことが」

「……え?」


 ボソッと放たれた言葉に織笠はドキリとした。微かに潤んだサファイアの瞳に見つめられ、織笠の心臓の鼓動が速くなる。


「あんな形でのお別れになってしまって……。どうしても、またお会いして話がしたいなと思っていたんです」

「は、はぁ……」

「たったひと時の語らいじゃ物足りないのです。貴方との対話はとても楽しい。精霊使いと人間の両面に立つ有識者はいれど、本当の慧眼を持つ賢者はいない」

「いや、俺はそんな……」


 この女性は一度会っただけの自分を、どうしてそこまで評価しているのだろうか。かなり不思議だ。別段、大学の成績が良いわけでもないのに。


「この後、お暇ですか?」

「え、ええ。大学も昼まででしたし……」


 インジェクターの仕事も今日は非番。元々、精保の一員になったとはいえ、まだアルバイトのような立場。捜査も進展のない状態だ。殺人のために仕掛けられた人払いの結界がとにかく厄介で、目撃情報を意図的に封じられているのが痛い。分析班の結果待ち……というのがどうにももどかしい状態だった。


「では、少々付き合ってくださいませんか? 昼食はお済みで?」

「いえ、まだですけど……」

「良かった。じゃあ、一緒にランチにしましょう。私、以前から行きたい場所があったんです」

「はあ……。それってどこなんです?」


 銀髪の女性はニコッと微笑むと、織笠の背後を指差した。振り返ってみると、一見してどこにでもあるような普通のカフェのようだった。


「ここ、ですか?」

「美味しい菓子パンを食べられることで有名なんだそうですよ。楽しみです」


 特に拒否する理由もないので織笠は付いて行く。店の玄関脇に置かれたボードには、意味は分からないがフランス語の店名と、ランチタイムのお知らせ。値段もリーズナブルで、織笠の所持金でも問題なさそうだった。

 と、扉の前で銀髪の女性が何やら思い出したのか、こちらを振り返った。


「そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたね。私はイナンナ。イナンナ・クルヌギアと申します」


 イナンナと名乗った女性は礼儀正しく頭を下げる。織笠も自分の名を言うと、イナンナは嬉しそうに笑みを浮かべた。

 中に入ると、まずコーヒーの香りが鼻腔を刺激したが、同時にほのかな木の匂いもした。壁に生の丸太を重ねて、暖色の照明とも相まって山奥のロッジのような雰囲気を演出している。

 傍目(はため)からは分からなかったが、店内は女性客が圧倒的に占めていた。OLや近辺の短大生が会話に花を咲かせ、パンをつまんでいる。

 女子だらけの空間に織笠は若干緊張しつつ、とりあえずカウンターに向かう。


「いらっしゃいませ! ご注文はいかがされますか?」


 若い女性店員がメニュー表を広げてくる。パン系だけでなく、パスタやグラタンなどメニューが豊富だった。初来店の織笠には悩みどころではあるが、ここは無難にベーコンサンドとスープのセットを頼む。

 お金を払い、注文したものを待つ間、空いている席があるか探していると、次にイナンナがオーダーし始めた。


「では私は、BLTサンドのセット、単品でウィンナーロールに、欧風カレーパン、グリルチキンのバーガーと、ローストビーフサンド、ベーコンチーズのパニーニ、きのこをふんだんに使ったシチューパン。あと、デザートでプリンアラモードとストロベリーパフェをお願いします」

「多ッ!!」


 大量かつあまりに肉々しい注文に、織笠どころか店員さんまで目を丸くする。


「ちょ、え、多くないですか?」


 と、思わず訊ねてしまう織笠。見事なスマイルを決めていた店員さんも、織笠に同意するように口角を引き吊らせたままコクコク頷いている。


「? そうですか?」


 きょとんと首を傾げるイナンナ。


「いや、食べきれます?」

「だって、こんなにも種類があるんですもの。目移りする暇があれば、全部頂いてしまえと思いません?」


 どうやら完食する気満々らしい。店員さんも唖然としたまま彼女の注文をレジに打ち込む。

 あれだけの量となるとトレイも複数になり、織笠は彼女の分も持ちながら、空いていた二人掛けのテーブル席に運ぶ。


「ふふっ。それでは、いただきます」


 料理で埋め尽くされたテーブルを、ご満悦な様子でイナンナは合唱。最初はハンバーガーを手に取り、豪快にかぶりつく。口一杯に頬張りながら食べる姿は、まるで小動物のようだ。やがて、あっという間にハンバーガーを喉に流し込んだ彼女は、唇の端に付いたソースをペロッと舐め、ふぅと息をつく。


「うん、美味しい」

「はは。それは良かったですね」

「ええ、来た甲斐がありました」

「この店はグルメ情報誌か何かで知ったんですか?」


 ホットコーヒーを口に含んだイナンナは、一瞬眉根を寄せると、「苦っ」と小さく言った。


「知人がこういうのに詳しくて。恐らくネットだと思うんですけど」


 言いながら次のパンに手を伸ばす。


「ここは大地の精霊使いでも一流の職人が作っているそうですよ」

「それって……関係あるんですか?」


 作り手の技術と精霊は接点がなさそうに思えるのだが、と織笠は首を捻った。


「理解度、と言いましょうか。料理には四大元素が大きく関わりますよね。特にパンの原料となる小麦にしても、初めに大地の精霊使いが豊穣の祈りを捧げ、種を蒔く。そして、それを知る職人が小麦の粉を丹精込めて練っていく。大地の恵みをどれだけ知っているか――直に接する大地の精霊使いだからこそ美味しくなるのです」

「じゃあ、特別な力は使っていないってことですか?」

「そうですね。人間は生産した人間に感謝する。対照的に、精霊使いは自然の恩恵に感謝する。そこはいつまで経っても変わらない」


 根本的な考え方の違い。確かに、それだけで技術だけとは違う質の差が生まれそうではあるが。


「でも、人間だって自然を敬うことだってあると思うんですけど……」

「それは“神”に、でしょう」


 イナンナはきっぱり言った。


「元素を司る神に対して人間は敬意を払う。物質そのものの理解は、精霊使いに遠く及ばない。だから人間は技術の向上だけを追い求める。尊き精神だとは思いますが」


 イナンナは平らげた二枚目の皿を重ね置き、


「両極端なんですよ、歴史から考えても。一つは常に進歩、進化を念頭に置いてきた。もう一つは維持を最優先事項としてきた。この両者の融合は必然だったのかも知れません。対等にフォローし合えば、失敗はしない。もう二度と滅びは起こさせない、と」


 小さなミルクのカップをコーヒーに注ぐ。黒い液体に白い渦がからまる。イナンナはスプーンでちゃんと溶け合うように優しくゆっくりとかき混ぜる。


(フォロー……、か……)


 織笠は食べかけのサンドイッチを皿に置いた。いきなり深刻そうな表情になった彼に、おずおずとイナンナは訊ねる。


「……どうかされました?」

「え?――ああ、すいません」

「……もしかして、食欲がないんですか?」

「いや、別に体調が良くないとか、そういうわけじゃないので」


 織笠は慌てて首を横に振る。


「そうですか……。私はてっきりあなたが無理に付き合ってくださったのではと……。だとしたら申し訳ありません……」

「いやいや謝らないでください。俺もこんな美味しい店知れて良かったと思ってますし」

「本当ですか?」

「はい」


 ほっとするイナンナを見て、織笠は苦笑した。ひょっとしたら風邪でも引いたのかと思ったのだろうか。


「ちょっと考え事してて」

「考え事、ですか?」

「ええ、まあ……」

「何かお悩みでも? 私でよければ相談に乗りますよ」


 大地の話をしていると、どうしてもユリカのことが頭をよぎる。彼女の最近の異変。事件もあるし、ユリカには一刻も早く立ち直ってほしい。そのためにも、自分が何か力になれれば――と思っているのだが。


(けど……。無関係な一般人にベラベラと話すわけにはいかないしな……)


 と思いつつ、もやもやしながら織笠は唸る。

 しばらく黙考した後、特定されるような情報は伏せ、話すことにした。


「これは俺の知り合い――といっても、アルバイト先の先輩なんですが」

「その方は精霊使いですか?」


 織笠は軽く頷く。


「このところ様子がおかしくて。元気がない、というか塞ぎ込んでいるというか……」


 第二の殺害現場を目にしてから、ユリカの様子は明らかに変だった。慄然としていたのだ。結局、精保に戻っても彼女は一言も喋ることはなく、トレーニングルームに籠ってしまった。だから、織笠もあれからユリカと会話をしていない。


「普段はいつも笑顔で優しくて、でも仕事となるとすごく頼りがいがあって……。素敵な先輩なんですよ」

「悩んでいるのは、その方なのですね」


 今度は重々しく、織笠は頷いた。


「一応お尋ねしますが……本人に直接訊く、というのは」

「いえ……。本人は言いたくないような雰囲気ですし、無理に話させるのも……。俺も力になりたいんですが」


 沈んだ声で言いながら、織笠は拳を強く握る。


「そうですか……。でも、どうしてそんなことになったのでしょう?」

「過去に何かあったようなんです。恐らく本人にとって、とても大きいショックな出来事が。それが今になって突然現れた、というか……」

「トラウマ、ですか」

「ええ、多分……」


 守秘義務もあり、言葉を選びながら相談する織笠だが、これではただの説明でしかない。イナンナにアドバイスを貰う以前の問題だな、と腹の中で嘲笑する。

 それでもイナンナは真剣に考えてくれているらしく、唇を指でなぞりながら言った。


「一つ、大事なことを確認したいのですが」

「は、はい」


 織笠に緊張が走る。あまり深い部分を詰め寄られると、隠し通せる自信がない。そんな織笠にイナンナは顔を寄せ、声を低くしながら、囁く。


「その方は、貴方の想い人か何かですか?」

「……は?」


 彼女の言葉の意味が分からない織笠は二、三度まばたきをした。


「いやいやいやいや!!」


 ブンブンと両手を振りながら、顔を真っ赤にする織笠。動揺のあまりのけ反ったせいで、危うく椅子から落ちそうになった。


「ち、違いますよ! そんなんじゃありませんから、ただ尊敬しているだけですから!」

「でも口ぶりから察するに、女性ですよね?」

「いや、まあ、そうですけど!」

「冗談です。――でも、全部が全部無関係というわけじゃないんですよ」


 くすくす笑っていたイナンナは、ふと真顔になって織笠を見据える。


「私は精神科医ではないので、上手くアドバイスはできませんが……。トラウマとは過去の傷痕。突発的な外的要因のために起こる、心を蝕み続ける鎖のようなものなんです」

「鎖……」

「精神が大きく関わるため、解決も困難です。だから、一番の方法は忘れること。人は案外脆い生物です。負荷が続けば精神は崩壊してしまいますから、それを防ぐため、脳が無意識に封じ込めるわけです」


 それが今回の事件で、その封印が解かれてしまった。ユリカの強靭な精神を揺るがすほどのパンドラの箱が。


「要因も、加害なのか被害なのか。罪なのか罰なのか、様々。外部の者には繊細な対処が要求されます」

「はい……」

「トラウマは奥底に眠る闇。どこまでも深く暗い沼。半端な決意では触れることさえ許されない。安易に触れれば貴方も獄炎にまみれてしまう」


 まして相手は精霊使い。抱える悩みも次元が違うかもしれない、とイナンナは口にした。


「なので私は先程質問したのです。その方は貴方にとって大事な人なのか、と」


 彼女の青みがかった瞳がさらに鋭い光彩を放ち、織笠を射すくめる。

 間を取るようにして、イナンナは改めて織笠に問うた。


「貴方は、その闇に触れる覚悟がありますか?」


 決して強い語気ではない。だが、間違いなく彼女の端的な一言は、織笠の胸を突く。

 ユリカを助けたい。だが、まだ織笠は心のどこかで躊躇っていた。

 事なかれ主義だった自分には、他人の重荷を背負うなんて情けないが務まらない。そう思う。

 傷つけるのが怖い。傷ついてしまうのが怖い。

 安易に突っ込むつもりはない。

 だからイナンナは確認しているのだ。

 覚悟を。闇に手を沈めて引き上げるための胆力を。


「俺は――」


 織笠が声を絞り出した、そのとき。

 カバンに入れていた手帳型デバイスが振動した。イナンナに断りを入れ、デバイスを見られないようにテーブルの下に隠しながらメールをチェックする。


(――ッ!)


 事件の進展を示した内容。

 織笠は慌てて立ち上がった。


「ごめんなさい! 緊急に呼び出されちゃって」

「いえ、私こそ大した力になれなくて」


 残念さを滲ませて彼女は首を横に振る。


「また会うこともあるでしょう。そのときにまたゆっくりお話ししましょう、レイジさん」

「は、はい!」


 織笠は飛び出すように店を出て、急いで精保に向かった。





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