5
夢の中にいる時間こそ本当の現実だと思う。
リアルな世界こそ虚構。考え方や価値観の合わない他人のために、わざわざ心を痛めたり、不安になったり……。余計な時間の浪費でしかない。
その点、夢ならストレスはない。眠っている間は何者にも邪魔されない。どんなに悪い内容でも私にとっては現実離れしていて愉快な物語になる。憧れていた運命やシチュエーションなど、もしもの人生がいくらでも体験できるのだ。
だから、私の本当の居場所は夢の中にこそある。
「ん…………」
少女のまぶたが薄く開く。
ぼんやりとした視界にまず映るのは、フローリングの床だった。ただ、どこか揺れていて自分も宙に浮いている感覚。聴覚も遮断されているようだった。
それもそのはず、彼女は“水の球体”の中にいた。群青色の塊は、決して粘着性があるわけでもない。宇宙に浮かぶ惑星のように宙を漂っている。打ちっぱしのコンクリートの室内にはあまりにも異質な光景だ。
一糸まとわぬ姿で上半身を丸めて膝を抱え、まるで胎児のような姿勢で彼女は眠っていたのだ。
「はぁ……」
コポリ……と、彼女のため息と共に水泡が上がる。
(また……目覚めてしまったのね……)
まだ思考はまどろんでいるが、ここが偽物の現実だと理解した途端に気分が萎えてしまう。
幾度となく繰り返した憂鬱な気分。
厭世的思考は起きている間中、絶え間なく続く。
少女はさらに身体を丸め膝に顔をうずめる。身体は正直なもので、鬱々とした思いを抱いていれば全身が鉛のように重くなるもの。もはや生きていることさえ億劫になる。
それでも、日常と化したこの寝覚めの悪さも、この日はまだマシな方だった。
昨晩の出来事の余韻がまだ残っているからだ。
(もう、ニュースになっているのかしら)
ちなみに、この部屋には家具の一切が置かれていない。窓さえも設置されていなかった。当然、テレビなんてものは、つまらない現実をいじくりまわしただけの創作物ばかりなので必要としなかった。でも、今回ばかりは後悔した。
生まれて初めて高揚感というものを味わった。常識という箍を外して力を思うままに揮えば、あんなにも気持ちがいいものなのか。改めて思い出し、自然と笑みがこぼれた。
これを続ければ、いつかはこの腐りきったリアルが面白くなるのか。だとしたら、生きる価値もあるものだ。
――でも。
まだだ。
まだ足りない。希望なんて抱くにはまだ早い。
心地よい眠気がまたさざ波のように押し寄せる。このまま、また眠ってしまおうか。
そう考え、目を瞑ろうとした――そのとき。
ガチャリという物音が耳に入ってきた。古びたドアノブが回る音。厚い鉄板をただ壁に埋め込んだだけのような扉がわずかに開き、その隙間から人影が姿を現した。
「どうもー」
腰低く、気さくな笑みで入室してきた長身の男。丸い眼鏡をかけ、まるでセールスマンのような風貌のその男を目にした途端、少女はふぅと息を吐く。残念そうに顔を上げて水の中から男へ言った。
「なんだ、アナタなの」
「相変わらずですねぇ。雨の精霊使いは数いれど、貴女だけですよ。そんな方法で寝る人なんて」
「勝手に入ってきて随分なご挨拶じゃない」
水中にも拘わらず、彼女が唇を動かす度に明瞭に言葉が響く。
「そんなに不思議? 言っとくけど、人類は皆こうして誕生したのよ。例外なくあなたもね」
「以前にも伺いましたが、それは母胎の羊水を模している――でしたか」
「そ。だから、私にはこれが最高のベッドなの」
「精霊による性質変化ですか。あなたの輪郭を覆う部分にだけ空気の保護膜を造り出して通常の状態を維持する。いやぁ、こちらから見れば中々芸術的な光景ではありますが」
「それより何の用? 私はこれからもう一度理想郷に行こうとしてたのに」
不機嫌さを声色に乗せると、男は苦笑いを浮かべつつ肩をすくめた。
「夢に漂うのが理想郷ですか……。夢など脳の処理に過ぎないというのに。願望が生み出す幻だ」
「誰のために構築された世界なのか。そこが重要なの。私にはこちらがディストピアであって、わざわざ長時間活動する意味はない」
「そうですか? こちらはこちらで混沌なりにも面白いですがね」
「そりゃあんたはそうでしょうね」
「あまり邪険にしないで下さいよ。私たちは同志でしょう? 貴女が忌み嫌うこの腐った世界を潰す、ね」
くつくつと笑いながら、男は少女の傍に近寄る。こちらが裸体なのもあるだろう、無遠慮な行動が気に入らないのか、少女は眉根を寄せた。
「私の役目はあなた方が立ちまわりやすいよう、サポートすること。もうちょっと感謝されてもいいと思うのですが」
「感謝、ね。してなくもないけど。この世界に於ける私の存在を削除してくれたのだから。その一点だけだけど」
「いやぁ、神のシステムに侵入するのは大変刺激的でしたよ。とはいえ、一度入れば無数にいる、特にストレイの一人のデータを消すのは造作もありませんでしたが」
やや陶酔気味に話す男に、少女は呆れ口調で返す。
「何が嬉しいのやら。クラッカーの快楽なんて理解できないわ」
「あなたこそ憎んでいた相手をようやく殺したのです。どうですか、念願叶った気分は?」
少女は少し考え、天井を見上げた。水の中から見る歪んだ景色。目を閉じ、手の甲を額に当て「どうでもいい」と小さく呟いた。
「恨みなんて愚かな感情、とっくに消えていたわ。わたしはただ、お姉様の指示に従っただけですもの。群衆の中から選ぶか、対象がいるかの違いだけ」
「貴女は本当にあの御方が好きなのですねぇ。まぁ、私もですが」
「当然。――そういえば、今日お姉様は?」
「さぁ?」
「知らないの? つまらないわね」
「私はあの御方のマネージャーではないので。逐一行動を把握していませんよ。それに、あの御方は心の奥底を他人に見せない。真実を語らない。ですが、不思議と不信感を抱かせない。カリスマという言葉がピッタリ当てはまる――あの御方こそが伊邪那美命の化身ではないかと思えるのです」
「……そうね。私にとってもお姉様が全てですもの」
ふぅ……と、その女性を思い浮かべているのか、うっとりとした表情で少女は息を吐く。
「あぁ……、会いたい……」
恍惚に瞳を潤ませる少女へ、男は両手を大きく広げ声を張る。
「会えますよ。この先いくらでも。これからなのですから。融合に喜び胡坐をかく権力者の顔がまるで伊邪那岐のように、絶望に歪む未来は――ね」
分析班の解剖結果が出たのは事件発生から三日後。
インジェクターB班のオフィスに全員が集まっていた。PCに送られてきた情報をカイが読み上げる。
「遺体の名前は咲島知絵里。十七歳。種族は陽。精霊使い専門の教育機関『アビュランス精霊学校』の生徒だった」
「アビュランス!」
その名を耳にして真っ先に反応したのはアイサだった。
「どーしたのさアイサちゃん。突然声張り上げてよ」
「ちょっ、キョウヤさん知らないんですか。アビュランス精霊学校」
「知らね」
興味なさげに答えるキョウヤ。咥えた煙草の先から細い煙が立ち上ってゆく。
「知ってっか? お前ら」
キョウヤがユリカと織笠の方へ首を回す。ユリカは微笑みながら軽く頷き、織笠も同様に首を数回縦に振る。
「あら、まさか常識?」
「残念です、先輩」
口の端を引きつらせるキョウヤへとアイサは苦笑で肩を落としてみせる。
現在の教育システムには、高等教育の段階から精霊使いのみが入学を許される専門学校が存在する。一般教養は勿論のこと、能力の適性を判断し、開発や強化に比重を置き、より優秀な精霊使いを育成する――要はこちらの世界には『里』と呼ばれる修練の場がないための措置として国が用意したのである。
「全国でも屈指のエリート校ですよ。頭も能力もみーんな超一流。将来、どの分野に於いてもトップになれるようにっていう教育理念があって、育成にはかなり力が入ってます。卒業した生徒は大体大企業に勤めてますね。精保にもそこの卒業生が多いはずですよ」
「ほー」
「くわしいね、アイサちゃん」
「んまぁ、私にも推薦の話があったからね」
照れたように頬を掻きながらアイサは言う。
「でも断っちゃった」
「どうして?」
「だって息が詰まりそうなんだもん。毎日毎日ただひたすら能力を磨くだけ。しかも周りは皆ライバル視でさ、他人を蹴落とすために雰囲気はかなりギスギスしてるらしいよー。そんな内情聞かされたらさ、行きたいと思う? 楽しくないよー、きっと」
「うわぁ、そうなんだ…」
「俺だったら絶対ゴメンだわ」
確かに居心地はあまりよくないだろうな、と織笠は思った。
『里』の構造を現代風にアレンジしただけ、と言えばそれまでだろうが、有能さが将来の選択に直結するという点では彼らの世界とは根本で異なる。本来いた世界では、精霊使いはどちらかといえば影の存在だった。世界の調整者という役割は変わらないにしても、現代では有能であればあるほど世間から注目される。多種に渡る明確な地位が確立されるからこその現状なのだろう。
「ま、私は進路云々の前にインジェクターになってたってのもあるんだけどね」
(むしろそっちの方がすごいと思うけど…)
気恥ずかしそうにアイサは「ほ、ほらアタシのことはいいんで、続きを」と先を促すと、カイは小さく頷きモニターに目を戻す。
「恐らくはその帰宅途中に殺害されたと思われる。遺体発見の前夜から連絡がつかなかったらしい。解剖結果によれば、死因はやはり下半身にあった無数の創傷による出血多量のショック死。そして、傷口には彼女の陽のマナと、雨のマナが混在していた」
「導水路のモンだろ、そりゃあよ」
「八割方は。ただ、その中に別の雨のマナが検出された」
「見つかったのか」
「ああ。かなり微量だったようだが。ただ……」
と、カイの顔が途端に曇る。
「どうか……されましたか?」
思わずユリカが声をかける。報告は事前に目を通しているはずのカイが何故言葉に詰まるのか。やがて、モニターをじっと見つめながらカイはゆっくり口を開く。
「精保のデータベースで検索をかけたところ、“該当者なし”だそうだ」
「……はぁ?」
間の抜けた声と共に、キョウヤの口から煙草がポトリと落ちた。
「なんだそりゃ」
「どういうことッスか?」
アイサも訝しげに問う。
「まさか登録漏れ……なんてのはないですもんね」
「あり得ない……と否定したいけどな。現実問題としてヒットしなかったらしい。最初聞いたときは俺も耳を疑った」
「精霊使いの幽霊、とかかねぇ」
「まさか、そんなことって……」
「冗談だ。雨の精霊使いってことだけは判明したんだろ?」
顔をこわばらせる織笠を安心させるように、キョウヤは肩を竦めてみせる。
「だったらリーダーさんよ、殺害方法は何だと思う?」
その答えをあらかじめ用意していたのか、カイは迷わず言った。
「恐らく、殺人犯は水を氷に性質変化、さらに形状を極限にまで鋭利にし、被害者を貫いたんだろう。――こんな具合にな」
カイの右腕がおもむろに上がる。
手のひらを返した瞬間に、ひんやりとした湿っぽい空気が閉めきった室内に充満する。雨の精霊が呼び出され、小さな水の玉が出現した。さらに、ボコボコと音を立てながら細長くなったかと思うと、突然蒸気を上げながら氷に変化。両端が鋭くなったそれは、まるで槍の穂先な形状をしていた。
「成る程な。そいつを高回転させて飛ばせば、あんな見事な傷口になるわけか」
納得したようにキョウヤが片眉を上げて言う。
「ああ。おまけに時間が経てば、氷は溶けて証拠は跡形もなく消え失せる。雨のマナは他と比べて消失反応が早いからな」
「氷が凶器とは……。厄介だねぇ……」
「聞き込みも空振りでしたしねぇ……」
頬杖をつきながら大きくため息をこぼすアイサ。唇を尖らせながらユリカに訊ねた。
「そっちはどうでした? 監視カメラの方は」
「録画映像を調べてもらったのですが、やはり不正に改竄された形跡があったようです。分析班の方々の話では……えぇと……」
「どしたの、ユリ姉?」
何やら言葉に詰まるユリカに、アイサは首をかしげる。
「いえ、説明は受けたのですけれど……。その内容が難しくて……」
「あー、もしかして横文字が多かったんでしょ?」
「お恥ずかしながら……」
「機械オンチだもんなぁ、ユリカちゃんは。トレーニングルームの操作なんかも必死で覚えたぐらいし」
そうだったのか。
確かに、ユリカは普段機械の類いは一切触らない。会議の内容などは胸元に忍ばせたメモ帳に記載するし、手帳型デバイスも使うところを見たところがなかった。
彼女とトレーニングをするとき、妙に嬉しそうにコンソールを操作していたのは、そういう理由があったからか。
「……馬鹿にしているんですか?」
怒れば般若より恐いユリカだが、頬を紅潮させ二人を睨む姿はどこか可愛らしく、織笠も自然と笑みがこぼれる。
「俺の方にも報告は来ている。だから、ユリカをあまりからかうなよ。――後が怖いぞ」
嘆息混じりにカイが言った。
「逆探知はかけたようだが、これがどうしてウチの分析班が手をこまねく程のクラッカーらしい。何重もの踏み台サイトを経由して、あのカメラに侵入したようだ。特定にはかなりの時間を要するだろうな」
「クラッカーってのは用心深いヤツばっかりだ。下手に刺激するとメンドクサイことになんぜ」
カイが頷く。
「ああ。そもそも、殺人犯とクラッカーが同一人物であるかどうかも分からない。クラッキング技術と精霊は無関係だしな」
「じゃあ、ウチらはどうします?」
と、アイサが訊くと、カイは改めて全員を見渡し、言った。
「まずはアビュランス精霊学校に聞き込みを行う。被害者に関係ある人間を洗い出すぞ」




