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織笠零治にとって精保を訪れるのはすっかり慣れたものだが、この日はまるで違った。
精保の高層ビルを憂い顔で見上げて、重たい息を吐く。
(まさか、こんなことになるなんてなぁ……)
あまりに突然だった。
新明大学爆破事件から一週間あまり。メイガスが死亡したため、一応の解決――と呼んでいいかは微妙だが、とりあえず事態は収束していった。そろそろ大学の閉鎖も解ける頃、カイから連絡があった。普段、あまり彼から着信が来ないので「何だろう?」と疑問に思いながら電話に出ると、通話口から告げられた彼の言葉に、織笠は耳を疑った。
『――レイジ、よく聞いてほしい。君を正式に精保の一員として迎え入れよ、とマスターからお達しがあった。……信じられないのも無理はない。しかも、問題はここからなんだ。精保の一員……というのも配属された部署がな。俺達の班なんだ』
……は?
思考が停止した。
精保にも警察と同様に、内部には様々な部署が存在する。レアが所属する医療班や、遺体の分析や鑑定を行う科捜研のような機関。今のところ、レアは掛け持ちしているらしいが。都市部のマナの流れを逐一チェックして、情報を管理し把握する情報統制班などが、一般的に知られている。
そして、精保と言えば。
誰もが知る、代表格の部署。
カイが間を置いた。彼もその先を言うのを躊躇っているのだろうか、沈黙がひどく長く感じてしまう。
やがて、カイは意を決したように言った。
『レイジ、インジェクターになってくれないか?』
意味が分からなかった。
自分がインジェクター?
精霊使いでもないのに?
どうしてそんな話になったのだろう。確かに、一般の人よりはインジェクターに近しい位置にはいる。自発的に捜査に加わったりもしたが、それだけでインジェクターになれるわけがない。立場的には、病の関係で世話になっているだけの患者でしかない――そう自覚している。
カイには何度も訊き返したが、向こうも困惑しているようだった。
とにかく詳しい話は明日オフィスでしよう――ということになり、織笠もその場で答えは出さずこうして直接やって来たのであった。
まだ頭が混乱している。
とにかく、こうしていても仕方ない。深呼吸し、緊張を幾分か和らげる。
中に入り、エントランスの受付でオフィスの場所を訊く。既に話は通っているのか、名を名乗るとすんなり教えてくれた。
エレベーターに乗り案内された階層ボタンを押す。パネルの数字がどんどん上昇するのに従って、織笠自身の緊張もまた高まっていく。
自分がインジェクターに任命されたことを、皆はどう思っているのだろう。どんな反応をするのか、それが不安だった。
(俺なんかがどうして……。きっと迷惑なんだろうな……)
あれこれ考えるのは悪い癖だ。抱える原因不明の病も、もしかしたら精神的なものなのかも。思考がネガティブだから起きるのか――今度、レアに相談してみてもいいかもしれない。
エレベーターを降りて、直線的な廊下を歩く。さすがに厳粛な雰囲気が漂っている。『B班』と書かれたドアプレートを発見する。扉を開けるには、すぐ横の認証端末に手をかざす必要があるため、登録されてない織笠はノックをするしか方法がない。
扉を軽く叩いてしばらく待っていると、プシュッと空気の抜ける音と共にドアが開く。
「はっろ~、レーイジ!」
まるで春の陽光のような笑顔で出迎えたのは、緋色の髪と瞳の小柄な少女、アイサだった。
「こ、こんにちは……」
やや面を食らいながら部屋の中を見渡すと、他のメンバーも全員揃っているようだった。
「よォ、いらっさーい」
対面式のデスクから気さくに声をかけるキョウヤ。その向かいからは、ユリカがにこやかに会釈する。いつもと変わらない彼らの対応に、織笠は安堵した。
「――来たか」
なにやらPCとにらめっこしていたカイは、おもむろに腰を上げた。
「待っていたよ、まあかけてくれ」
促され、織笠は談話スペースに据えられた革張りのソファに座る。高級そうな見た目通り、座り心地は良かった。
「さて……」
続いてカイも腰を下ろすと、困り果てたように呟く。
「呼び出しておいてなんだが、どう説明したらいいものか……」
「……話が唐突過ぎてさっぱり意味が分からないんですが……。どうして俺がインジェクターになるなんて話に……?」
「申し訳ないが、俺もこの事態は予想だにしていなくてな。今回の決定は、さすがに理解に苦しむよ」
カイは眉間の辺りを親指で揉む。カイの重い溜息は、こちらが気の毒になる。
「冗談だと信じたいぐらいだ」
「マスターは……なぜそんな命令を下したのでしょうか?」
カイはうなだれたまま、かぶりを振った。
「確実に分かるのは、マスターは君のその特異な能力について大変興味を持っていらっしゃる。精保で保護という特例措置も、そこが理由だ。レイジの持病の解明と唯一無二の能力。この二つは密接な関係にある――というのが今のところの見解だが……」
「…………」
「にしたって、今回の件は特例に特例を上積みした感じですよねー」
と、アイサがやって来てコーヒーカップを二つ、テーブルに置く。
「アイスにしたら、何段重ねなんだよ! って、ツッコミたくなるくらい」
「十個以上は重なってんじゃね?」
「それではいただくのも困難ですわね」
「……いやいやユリカ姉、物の例えだから。実際あっても、まず持てないし、最悪落ちちゃうから」
「あら、そうですわね」
脇で話を訊く三人が笑い合う。
大事な話の最中なんだけどな……と、織笠は苦笑い。でもこんな緊張を緩和するやり取りも彼ららしい。
「あっ、でもカイさんはこの間六段重ねを食べてましたっけ。しかもまったく別の味を、上手く崩さずに」
「……あれぐらい普通だろ」
さも当然のことのようにカイが言うと、即座にキョウヤがしかめっ面で突っ込む。
「異常だよ。見てるこっちの胃が気持ち悪くなるわ」
カイは超甘党らしく、その度を超えた食べっぷりは周囲を度々ドン引きさせている。織笠はまだその場面に出くわしていないので、話を聞いても彼の普段のイメージとかけ離れ過ぎていて想像がつかない。
「ど、どうでもいいだろ、そんなことは!」
自分の感覚のズレが急に気恥ずかしくなったのか、カイは大げさに咳払い。少し顔を赤らめながら、織笠に向き直る。
「すまん、レイジ。話を戻そう。マスターは、君のその異能が今後の我々の職務に多大なる影響をもたらすと考えているのだろう。インジェクターという戦闘部隊の新戦力になる、と」
「ですが……」
不安げな表情を浮かべ、織笠は前のめりになる。カイはそれを言葉で制す。
「君の気持ちも分かる。ただ、それは表向きの理由に過ぎないと俺は勝手に思っている」
「どういう……ことですか?」
表向き? 織笠は訝しむ。
「マスターの真意は分からない。訊いてもはぐらかされるだけだろうからな。ということは、だ。マスターが隠さねばならない程の秘密が、君にはある」
「大仰な言い方だなぁ、オイ」
「大仰にもなる。レイジの存在は貴重だ。想像してみろ。もし、どこかの犯罪者に利用されたらどうする?」
カイの言葉に、皆が息を呑む。
「だから、正式に精保の一員に置くことで織笠零治という存在を確保、常に把握しておきたい――そういう意図なのだと思う。でなければ、こんな異例中の異例はないだろ」
「…………」
それを聞いた瞬間、織笠は黙り込む。記憶が鮮烈に蘇ってきたのだ。
そういえば、あのとき。
あの男は言っていた。
「そうですね。単純に人員を増やすだけなら、正規の手順を踏みますわよね」
ユリカが頬に手をあて、小首を傾げる。
「前々から補充の申請はしていたんだ。登用にまで至らなかったのは、審査の段階で手間取っていたんだろ。危険な商売だからな」
「その過程をすっ飛ばしてまで横入りさせたってことは、レイジにはそれだけの価値があるってわけか。少なくともマスターの中では」
マスターの思惑は分からない。ただ、これまでの経緯から、マスターは織笠についてある程度の確信は得ているのではないか、と感じる。織笠零治という特異点の正体を。でなければこんな強引な人事は行わないはずだ。
「でも、いくらレイジが精霊を扱えるといっても、そんないきなり前線でってのは無茶じゃないですか? ある程度は今まで通りフォローしてもらうって感じの方が……」
アイサの危惧も当然だというように、カイは頷く。
「まあ、その辺りはある程度考えてはいるんだがな。その前に……ってどうした、レイジ?」
全員の視線が織笠に集中する。険しい顔つきで何やら思考を巡らしていた織笠は逡巡の後、まるで罪人が白状するかのように言葉を絞り出す。
「……思い出したんです」
「……何を?」
「前の事件……。レアさんがメイガスにやられたときのことです。アイツは……メイガスは、俺のことを知っているようでした」
「はぁッ!?」
「うっそ、マジ!?」
唐突の告白に衝撃が走る。全員が揃って驚愕し、言葉を失ってしまう。直後、場には動揺と困惑が広がる。
「どういう……ことだ?」
それだけを言うのがやっとのように、カイが訊ねた。
事件当時、事情を説明する精神状態でなかったために織笠はレアとメイガスの戦いに巻き込まれた、という形で処理されていた。織笠は改めてメイガスとの間に何が行われたのかを詳細に語った。
あの日、殺されかけた自分を救ったのはレアの呼びかけ。『織笠』の名に反応したメイガスは暴行の手を止め、そのまま立ち去って行った――。
事件が解決し、メイガスがこの世からいなくなったとしても、織笠にはいまだトラウマとして残り続けている。苦い記憶を吐き出せば出すほど、織笠の表情は青ざめて歪んでいった。
「……そうか……。すまないな、辛いことを思い出させて」
「いえ……」
疲弊しきった織笠は、力なく笑みを浮かべる。
「そういや……、お前が俺を助けてくれたときもそんな風なことを言ってたよな……」
思い出したようにキョウヤは言った。
地下闘技場でのことだ。メイガスがキョウヤに渾身の一撃を放った、あの場面。織笠が偶然風の障壁を発動させ、キョウヤの窮地を救った。結果としては簡単に破られてしまったのだが、織笠の力を目の当たりにしたメイガスの反応は、実に淡白なものだった。
「ええ。けどあの口ぶりは、誰かから俺のことを聞かされていたような感じでした。俺のこの能力についても」
「……一応訊くが、心当たりは?」
首を横に振る織笠。
「俺のこの能力を知っているのは皆さんだけです。大体こんな馬鹿げた話、親にすら言ってませんよ。まあ、バラしたところで誰も信じないし、笑われるだけですから……」
他者からマナを拝借し、人間でありながら精霊を操るという史上類を見ない能力。この衝撃的な事実について、織笠は精保側から口外を禁止されているわけではなかった。だとしても、ベラベラと公言するものでもない。余計な誤解を生むだけだし、最悪、化け物扱いされてしまうかもしれない。
……といっても、意識して発動できるものではないのだが。
「知らぬ間に情報がどこから漏れたのか……? いや……、あり得ないな……」
自問自答のようにカイが呟きながら唸る。
織笠としても彼らを疑う気など毛頭ない。ただ、確実に自分の能力を知っている者が外部に存在する。となればマスター同様、正体を掴んでいるのかもしれない。
「まさか……、マスターはそれさえもご存じで、今回の決断をされたのでは……」
「無い話じゃないっスね。それなら辻褄が合うかも」
ユリカの意見にアイサも同意する。
「マスターは常にこの世界を見渡している。あの方のご意志に沿い、動く兵隊がインジェクターだ。俺達はインジェクターとして為すべきことを為そう」
カイは表情を引き締め直し、真剣な眼差しで織笠を見つめる。
「織笠零治。改めて君に訊いておきたい」
「はっ、はい」
思わず気圧された織笠は背筋を伸ばす。
「聞かせてくれ。君はどうしたい? これからインジェクターとして、精霊使いのために精霊を揮いたいか? この精霊世界に尽くしていきたいのか?」
「えっ……。でも、これは決定事項じゃないんですか?」
「この際、マスターのお言葉は考えなくていい。確かに、マスターの命令は我々精霊使いにとって絶対遵守。神の啓示に等しく、賛成も反対も存在しない。だが君は人間。強制力は当てはまらないんだ。どうしたいのか、己の意思で決めてほしい」
この言葉に驚いたのが周囲の三人である。彼らしくない発言に、キョウヤまでもが血相を変えて歩み寄る。
「おいおい、どういうこったよ、そりゃあ!」
「見れば分かるだろう。本人に意思の確認だ」
カイは目線だけをキョウヤに向け、あっさりと返す。
「だけどよ、マスターの命令を無視すんのかよ」
「インジェクターは危険な仕事だ。命の安全は保証出来ない。レイジも直に体験しているから理解しているはずだろう? もし拒否するなら、俺がマスターに言って取り下げてもらうよう頼むさ」
わずかに頬を緩ませ、カイは言った。滅多に見られない貴重な笑み。この人は本気で身を案じてくれている――その優しさが非常に嬉しい。
「マジかよ、知らねぇぞ……」
「全てはレイジの選択次第だ」
織笠はゆっくりと、眠るように瞳を閉じる。混乱した頭を整理させるため、息を小さく吐いた。
そして問いかける。
俺はどうしたいのか――と。
軽い気持ちで返答などしてはいけない。可能ならば、もっと時間を置いて考えたいが、そうすると逆に迷いが強くなって答えが出せなさそうだ。
半端な覚悟では到底務まらない、インジェクターという職務。ここで「無理です」と言えばそこで終了だ。向こうも自分に戦闘力がないのを承知な上での要請なのだから、引き留めることはない。またいつものように精保に診察に来るだけの日常が待っているだけ。彼等との接点も減るだろう。
さらに問いかけてみる。
織笠零治にとって、現状何を大切にするのか。
その答えは簡単だった。
“人”だ。
人間関係に壁を作ってしまう織笠が初めて、その壁を壊してまで近づきたい、もっと知りたいと思えたのが、彼等四人だった。勿論、助けられた恩義もあるし、それ以上にインジェクターとして日夜奮闘する姿に魅力された。
もう一つ。自分のこの能力も、今のままでは解明は難しいと感じているのもある。だから、戦いの場に身を置くことで、その正体により近づける気がする。
そして、その力で彼等の役に立ちたい――その想いが強く、激しく、燃え盛る太陽のように輝いた。
――だから。
まぶたを開ける。視界には自分の答えをじっと待っている他の面々の姿。
織笠は強い決意の眼差しでカイを見据える。
「……やらせて下さい」
そう呟き、続く言葉ははっきりと、力強く織笠は口にする。
「インジェクターになりたいです」
「……いいんだな?」
「はい」
念を押されるが、気持ちは変わらない。深く頷く。
「……分かった。手続きをしておこう」
どこか安堵したような、肩の力が抜けたカイは穏やかな口調で続けた。
「今さらだが歓迎しよう、レイジ」
「あははっ、やったぁ!」
喜びのあまり、背後からアイサが抱きついてくる。
「おわっ!」
「おーおー、嬉しそうだねぇ、アイサちゃん?」
「なっ、バッ、ととと当然じゃないですかっ。ほ、ほら念願の後輩だし。それに、皆だって人手不足だって嘆いていたじゃないですか! だからですよ、ホントだからね!」
にやにやしながら茶化すキョウヤに、顔を真っ赤にして腕をバタバタさせるアイサ。騒ぎ立てる二人を楽しそうに見ていたユリカは、いつの間にかレイジの横に立って優しく笑みを向ける。
「これからも、何卒よろしくお願い致しますね、レイジさん」
「はっ――はい!」
よかった。
まさかこんなに喜ばれるとは思わなかったが、ひとまず迷惑がられていなかったらしい。
ここに来るまでの余計な心配は杞憂だったようだ。
――こうして、織笠零治はインジェクターになった。




