17
(くっ……あ……?)
まぶたが痙攣している。薄く目を開くと、視界がぼやけていた。なぜか働かない思考――徐々に脳に血が巡っていくと、自分は気絶していたのだと理解する。
その瞬間、全身を耐えがたい激痛が襲う。のたうち回りたくても体が上手く動いてくれないし、呼吸すらままならない。あばら骨の二、三本が折れているようだ。
(そ……うだ、メイガスは……? 勝負はどうなった……?)
どうして俺は生きている?
あの男が敢えて生かしくれているとは考えにくい。気を失っていたのがどんなに短時間だったとしても、あの男がその好機を逃すはずはない。
――一体、何が……。
ふと、誰かが目の前に立っているのに気付いた。
(ああ、そっか。トドメを刺すのはこれからなのか。くっそ、余裕こきやがって……)
死を覚悟した。が、その人影は動く気配がない。それどころか、こちらに背を向けているようだった。視界がはっきりして、ようやくその正体に気付く。
思わず、キョウヤは目を見張った。
そこに、いるはずのない人物が立っていたからだ。
「レ、レイジ……!」
そう。紛れもなく、織笠零治だった。織笠が、キョウヤをかばうようにしてメイガスの前に立ちはだかっていた。
それだけではない。
信じられないことに、織笠はメイガスの攻撃を防いでいたのである。
メイガスは大地の精霊が付与された手刀を繰り出していた。本来であれば、キョウヤの心臓を貫くための一撃。しかし、その切っ先が触れていたのは、織笠とキョウヤを包むように構築された緑色の半円形の物質。――精霊の障壁だ。どうやら色から判断して風のようだが……。
「レイ……ジ、おま……」
「大丈夫ですか、キョウヤさん!!」
織笠は両手をかざしながら、キョウヤへ声をかけた。この状況が飲み込めない。だからキョウヤは、呆然と返すしかなかった。
「なに……やってんだ……? それに人間のお前が、どう……してそんな力を……」
「俺にもよく分かりません……ッ! ただキョウヤさんが危なくて、それで助けなきゃって……。そうしたら、コイツが勝手に……!」
原因は不明だが、織笠は人間であるにも拘わらず、精霊の力を扱える。ただ織笠の場合、意識して発動しているのではない、偶発的なもの。それはキョウヤも知っていた。実は最近、レアが過去の事例から研究した結果、どうもこの織笠の謎の特性は、“その空間、特に、そばにいる強いマナの持ち主から一時的にマナを拝借し、精霊を使用しているのではないか”と彼女は言っていた。
まだ推論の段階だし、そもそも根本の問題が解決していないので信用できないが、それでもこうして目の当たりにすれば信じたくなる。
しかも、この障壁。
(レアの『レイ・アルター・ドーム』に似ている……?)
まさか。あの高度な術を一度見ただけで、自分の風の精霊を使い、再現してしまったというのか。
「――驚いた」
そう静かに呟いたのはメイガスであった。織笠の行動に微塵の動揺も見せず、手刀を押し当てたまま、いやに落ち着いた声で続けた。
「小僧、お前の特質は聞かされていたが、よもやここで出てくるとは思わなかった」
メイガスの拳が、じりじりと織笠の障壁を押し込んでいく。
「くぅ……ッ!!」
当然だ。精霊を扱えるといっても、所詮とっさに形成された模造品。精錬された強靭な精霊の圧に耐えられるわけがない。障壁は確実に破られる――キョウヤはハッとして叫んだ。
「ばっかやろうッ、もうやめろ!! いいからお前はどこかに避難してりゃいいんだよ!!」
「うっぐ……、そんなこと言われても……」
「その通りだ。戦士同士の闘いに、余計な横やりは無粋以外の何物でもない。素人はどいていろ」
必死の抵抗も無意味だった。メイガスがほんの少し力を加えただけで障壁は解除。ガラス片のような緑の粒子が織笠に降りかかる。バランスを崩し、織笠は後ろへ倒れかかる。
「――ッ!!」
「ふん」
メイガスが織笠の頬をはたく。まるでハエを払うような軽い素振りだったが、間違いなく強烈な一撃を浴びた織笠の体は、真横へスピンしながら地面に落ちた。
「レイジッ!!」
「神聖な闘いを汚した当然の報いだ」
うつぶせに倒れ動く気配のない織笠を見下し、メイガスは淡白に言った。
「てんめぇぇぇえええええ!!」
痛みすら忘れ、怒声を上げるキョウヤ。その視界の隅に、反対側のリングサイドから素早く駆けてくる黒い物体が映る。
「モエナッ!!」
織笠の傍で足を止めた黒猫は、彼の様子を確かめるため顔を近づける。血だまりに浸った織笠の頭部の匂いを嗅ぐと、キョウヤに言った。
「――大丈夫。意識はないけど、呼吸はしてるわ。すぐに治療すれば助かる」
言葉とは裏腹に、口調は切迫していた。顔が強張るキョウヤに、モエナは語気を強める。
「キョウヤ。この子の介抱は私がするから、アンタはそこの怪物をとっとと倒しなさい!」
モエナが、本来の姿である妖精へと変化。自分の構成物質である、闇のマナを全力で注ぎ込む。死を司る闇には、治療には不向きだが、細胞の壊死の進行をある程度コントロール出来る。殴打された頬からの出血を極力抑えながら、死への速度を遅らせる応急処置でしかないが、やらないよりかはマシだ。
とりあえずは安心――と思いたいが、モエナのマナの供給ペースからみるに、そうもいかないようだった。存在自体が精霊であるモエナは、そのサイズからは考えられない程のマナを保有している。メイガスは限りなく手加減したようだが、抵抗力のない織笠には余程のダメージだったのだろう。供給のペースが速過ぎる。あれでは長くもたない。
舌打ちしながら、キョウヤは立ち上がる。
「まだやれるようだな、インジェクターよ。面白い。闘いはこうでなくてはな」
「戦闘狂も大概にしとけよ」
ギリッと、奥歯を噛み締めるキョウヤ。
「精霊使いでも珍獣の部類だぞ。損だぜ、その気性はよ」
「長生き出来ないとでも言いたげだな。しかし、この愚かな世界で無意味に時を費やす方が余程生き地獄だ。だったら一つの出会いに全てを賭ける方がいいだろう」
「……チッ、カタブツが。口説き文句なんか使うんじゃねぇっての」
吐き捨てるように言うキョウヤだが、口元には小さな笑みが刻まれていた。
「いいぜ、付き合ってやる。何も考えず、ただひたすらに、脳が弾けて昇天するまでヤリあおうか。――後悔すんなよ」
そう言葉を発した直後、キョウヤの姿が忽然と消えた。超人的な脚力によるものではない。文字通り消えたのだ。キョウヤの体が透明になり、風景に溶け込んでしまったである。
その不可思議な現象を目の当たりにしたメイガスは、直感でその正体に気付く。
「――インビジブルか」
表情に変化は現れないが、声色は確かに驚きが含まれていた。
精霊を肉体に纏うことで、様々な効果が得られる補助術式。時がテーマである風の精霊使いがこの補助術式を使用すると、自分と世界の時間に強制的なズレを引き起こすことが可能となる。
一見、術者の移動速度や跳躍力が爆発的に向上したように錯覚してしまうが、実は自分だけの時間を分解し自在に光の明滅と残像現象を操作――他人の眼が感知する一秒間のコマ数の幅を変化させているのである。
他の精霊とは違い、風の特性は他者の視覚や聴覚に誤情報を与えるという異質なものなのだ。
そして、インビジブル。
これは、風の補助術式の中で最も習得が難しいとされており、インビジブルの会得がマスターになるための条件ともいわれている。
その正体は“騙し絵”。色の認識は光の反射で決まる。対象及び、周囲の無関係な人々の反射した光を欺くため、風の精霊を全身に纏わせ、さらに余波を放出――色彩判別を狂わせてしまうのだ。
「その術をこうして目に出来る機会があるとは……。見事なものだ」
素直に感嘆するメイガス。
「だが、俺はそいつの弱点も知っている。――高速の移動を制限せざるを得ないところだ。もし速度を上げてしまえば、精霊が剥離して効果が半減されてしまう。そいつは戦闘用じゃなく、偵察用だ」
メイガスの瞳がせわしなく動く。全方位に語りかけてキョウヤの気配を探っているのだ。
「風の精霊使いは基本、戦闘を嫌厭する者が多い。六属性の中で最も臆病者の集まりだ」
「挑発して俺をいぶりだそうってか? やめときな。王者なら真正面から受け止めな」
キョウヤが姿を現す。その位置は、大胆にもメイガスの正面。
「まぁ、とりあえずリングに戻ろうや」
口角を吊り上げながらキョウヤはささやき、メイガスの顔面へ拳を振るう。わざわざインビジブルを解除したのは、メイガスの説明と同様、攻撃に切り替えるため。素手なら無用だが、キョウヤは右手に風を付与させ威力を上げていた。
分厚い鉄板がへこんだような重低音が響く。メイガスの巨体が後方へ吹っ飛んだ。硬質なリングに叩きつけられる直前、身体が一回転。両手足でブレーキをかけた。
メイガスは顔を上げ、前方を睨む。しかし、キョウヤの姿はそこにない。既にインビジブルを再発動――移動を開始していた。
「一つ、いいことを教えてやる」
声は背後から。即座にメイガスは振り返るも、そこには気配の欠片さえ皆無。
「お前は速度を制限されると言ったが、例外もある。――それが」
今度は真上から。見上げれば、キョウヤが拳を引いて、落下する最中だった。
「E.A.Wのサポートなのよ」
大気が渦巻く。キョウヤの固く握られた拳に風が集中――E.A.Wがエメラルドに輝き、相手のマナを刈り取らんと振り下ろされる。
「――チッ!!」
神の雷さながら攻撃。瞬間、キョウヤの顔が歪む。メイガスは体を捻りながらかわした。が、鋭い一撃はメイガスのこめかみから頬の辺りをかすめていた。勢いよく鮮血が噴き出す。メイガスは、流れる血を拭おうともせず、落ち着きを払った声で言った。
「惜しかったな。骨でも折れたか? 動きが鈍いぞ」
背中の隆起した物体が光を放ち、連動するように蹴りが飛んだ。受けるのは危険だ――そう直感で判断したキョウヤは、着地と同時にメイガスを飛び越える。風圧だけで数メートル先の壁が抉れる光景にゾッとしつつ、キョウヤは改めてその背中の物体に着目する。
(どうやら、あれで精霊の力を増幅させてるみてぇだな……)
バッテリー装置。精霊の発動に合わせ、背中の突起物が起動し力を増強させる。ただでさえ、メイガスは能力者としてのレベルが高い。
メイガスの戦闘スタイルは接近戦格闘術。自身の限界を超え、相手の障壁するも突き破る。厄介なこと、この上ない。
だが不可解だ。
そもそも、メイガス程の実力者に増強装置が必要か?
それともう一つ。あれは、背中から生まれた。ということは、あらかじめ体内に何かしらの異物を埋め込んでいた、ということになる。何のために?
増幅装置なら、市販でいくらでも手に入る。あくまで弱い精霊使いのための補助用で外部に取り付けるユニットだ。しかも、法律で精保のセンサーに引っかからないよう増幅値は定められているのだが。
わざわざあんな激痛を伴うリスクを負ってまで入れる意味が分からない。
「……困惑しているようだな」
メイガスが振り返りながら、キョウヤの思考を読み取ったように言った。
「無理はない。これまでコイツを披露する機会に巡り会わなかったし、それどころか、そもそもこれは術式などではないのだからな」
「……何?」
「大昔の話だ。この闘いの前に言ったが、俺は守護門番をしていた。その時期、俺はどうしたらより強く効率よく力を出せるのか……そればかり考えていた。どんなに満足いかない相手ばかりの日々でも、ただひたすらに力を求めた。そこで思い至ったのが――霊種だった」
「霊種……!?」
キョウヤが目を見張る。
「精霊王の庭に咲くという花“チャリス”の種か。だけど、ちょっと待て、あれは……」
「おとぎ話のアイテム、だろう? 違う。精霊王の庭も精霊使いのみの伝承と思われがちだが、ちゃんと実在するし、マスターのみがその居場所を知っている」
「どうしてお前がそんなこと……」
「先代と俺は義兄弟の契りを交わした仲でな。彼が所持していたものを密かに分けてもらっていた。本来は聖水に溶かし、里に振りまくことで大気中のマナを濃くし、俗世の人間を近づかなくする――要は人払いのためのアイテム。だが、俺は、直接その種を背中に埋め込んだ」
信じられない。思わす絶句するキョウヤに、メイガスは平然と語っていく。
「体内に霊種を埋めると、コイツは常に少しずつではあるが俺のマナを吸い取っていく。これが正直キツくてな。豆粒サイズなのに、どこまでも養分を喰らうのだ。――まぁ、大地の精霊使いの俺は、足が地に接触していれば補給は事足りるが」
レザーブーツの踵で床を鳴らす。
「限界まで溜め込んだ霊種は、俺の合図と共に開花を迎える。それが、この姿だ。その攻撃力は、当然ながら俺の全開状態のおよそ二倍強。蓄えた分をその都度抽出、顕現した精霊に注入する。威力は身をもって知っている通りだ」
「隠し味にもならねぇ、とんだ調味料だ。……どうかしてるぜ」
キョウヤは吐き捨てた。想像を絶して、絶望する気にもならない。
だが一つ。殊勝にも、包み隠さずさらけ出してくれたおかげで光明が見えた。
「けどよ。その説明だと、一度使っちまえばもう後戻りできないってことだろ。種が割れているわけだからな。しかも、テメェ自身にも相当な負担がくる危ない方法だ。要はニトロみてぇなもん――違うか?」
「俺の信条は、一瞬に全霊を賭ける、それのみだ。ならば、どのようにすれば、好敵手と相まみえた時に悔いなく力を出せるのか。そう考えた末に辿り着いたのがこの方法だった。満足する闘いが出来れば命など惜しくない」
「…………ッ!」
「前言は撤回しよう。お前は素晴らしい戦士だ。だから、俺は手の内をさらした」
キョウヤは歯噛みした。メイガスの言葉は真っ直ぐで清々しい。だからこそ疑いを抱いてしまう。
だったら、何で、こいつは――と。
「さぁ、続けよう。存分に、どちらかのマナが尽きるまで」




