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精霊世界のINJECTION  作者: 如月誠
第三章 アンダーグラウンド
26/100

11

 精霊保全局内――レストルーム。


 仄暗(ほのぐら)い室内には冷気が漂っているのか、わずかに寒気がする。

 ここは、主に戦闘で負傷したインジェクターを治療する目的で使用される。人が一人入れるスペースのカプセルが合計四台並び、パイプで繋がれた巨大なタンクから高濃度のマナを流し込む。精霊使いの細胞と結びつくマナを活性化させることで、短時間で傷を癒す装置だ。

 現在稼働しているのは一台。緊急搬送されたレアが寝かされていた。


「――どうですか、容態は?」


 アイサが沈痛な面持ちで、隣にいる若い女性に訊いた。医療班のスタッフである彼女は、PCのモニターを厳しい目つきで凝視しながら口を開く。


「さすが主任、と言うべきでしょうか。普通ならとっくに死んでますよ。全身の裂傷に加えて、胸部と右腕の尺骨に左の大腿骨を骨折。内臓も破裂しています。ですが、幸いなのは頭部のダメージが少ないところでしょうね。……まったく、珍しい事例ですよ。主任がここまで体を張るのも。無茶のギリギリ手前で自重しますから、普段」


 上司への言葉と思えない口ぶりだが、きっと軽口を叩いていないと、理性を保てないのだろう。青ざめた顔色は決してモニターの光を浴びているためではない。声もかすれている。

 医療班のスタッフは彼女を含めて数名しかおらず、全員女性だった。その誰もがレアを師事し、能力面と人間性に心酔している。

 取り乱さないだけ立派というものだろう。常日頃から、どんな事態に陥っても冷静に対処しろと、レアに叩き込まれているのかもしれない。


「レアさんも必死に抵抗したんですね。だから一命を取り止めた……と」

「きっと“レイ・アルター・ドーム”を発動させたんでしょう。」


 女性職員はため息を挟んで続ける。


「あの術は主任自ら考案したもの。使用効果は外部からの攻撃の一切を遮断する、要は超結界なんです。その代わり、術者のマナを空にするまで搾り取ってしまう諸刃の剣。――見てください」


 女性職員から目線をモニターに移すアイサ。画面を埋め尽くす数字と文字の羅列の中のある一点を女性職員は指さす。円形のグラフだ。レアのマナ保有値を示したものだが、メーターがほぼゼロに近く、『E』の文字が点灯している。EMPTYの意味だ。


「信じられない……」

「でしょう? 皆さんのE.A.Wを極限まで使用したとしても、ここまではなりません。奥の手のまたさらに奥の手だからあの人も使用を控えていましたから……。といっても、こちらの世界ではそんな機会もまず訪れなかったんですが」

「いえ、まあそっちもビックリですけど……。これだけの術を使って、レアさんがなぜこんな重傷を……?」


 女性職員は少し考える素振りを見せ、


「確かに、あの術は燃費が極端に悪いんですが、空になるまで使用したならそれなりに発動時間も長いはずです。皆さんも知っての通り、主任の陽の精霊使いとしての能力は一流です。そこを考慮すると、相手も同等の能力者かと思われます。……ですが、おかしいですね」

「何がです?」

「それを示す証拠が体内はおろか、傷口にさえも残されていないんですよ。普通、そのクラスの能力者同士が交戦すれば、マナの残留がどこかしらにあるものなんですが……」

「それは……実力が拮抗していたから、相殺した……とか」

「その可能性がゼロと断言出来ませんが……。その場合、互いの能力者が放つ術の威力が同じでないといけないんです」


 つまり、と女性職員が身振り手振りで解説する。


「精霊は術者のマナと大気のマナの混合物ですから、その混合率が威力の高低を決めることになります。しかも、マナを多量に使えば威力が上がるのではありません。大事なのはバランス。仮に10で力を使いたいのであれば、両方のマナを10に設定する。そこでようやく練度の高い精霊が具現化します。なので、マナを多量に消費して、威力を上げようと思えばそれだけ調整が難しくなる。バランスが狂えば無駄になりますから。だったら、最初から中程度のマナ放出量にした方が効果は上がるんです」

「……ということは、高出力の精霊がぶつかって相殺するとなると、互いのマナの数値がピッタリ同じにならないといけないと……」

「ですね。まあ、微々たる差でも起こりえる話でしょうが、意図的に示し合わそうとでもしない限り難しいかと」

「はあ……。そんな仕組みになっていたんですか。アタシ、あまりよく知らずに使ってました」


 目から鱗とばかりに、感嘆するアイサ。

 精霊を扱うのに、そこまで深い理屈があるなんて考えもしていなかった。単純に精霊使いとしてのレベルが高ければ、マナの密度も濃い――その程度の知識だ。バランス調節なんて、欠片も意識がなかった。


「それも科学を学んだからこそ、長年の研究で判明したんですが。精霊使いは修行の段階で無意識にその感覚を覚えていくので」


 アイサは腕組みして唸る。

 改めて考え直す。


「これでは、犯人が何の精霊使いかすら分からないですよ」

「それは――あッ!」


 突然、「そっか。んあぁ、もう!」と自己嫌悪したように頭を抱えた。


「ど、どうしたんですか?」

「いや、ごめんなさい。そういえばレアさんを搬送中、車内でカイさんから報告を受けてたんですよ。あの時は私もパニックで頭に入ってなかった」


 アイサは落ち着かせるように、深く息を吐く。


「レアさんは今日矢崎氏の遺体を鑑定するために警視庁に出向いていたんですよ」

「それなら私たちも聞いていますが……」


 瞬間、女性職員の顔が強張る。察したのだろう、アイサが頷いた。


「犯人の目的はレアさんが握った証拠の隠滅だった。自分の不利となる証拠を排除したのに、そこでまた同じ失敗を繰り返しては意味ありません」

「……なるほど。レイ・アルター・ドームは効果持続型。結界を削るために精霊の力を用い、崩れたところで純粋な暴力に切り替えたと」

「多分そうでしょうね。後々、ユリカさんが地脈のズレがあったとかで、大地の精霊使いと判明したらしいんですけど」


 精霊使いにとって体内のマナは、言わば鎧だ。ウィルスに対する抗体と言ってもいい。

 それがあるからこそ、外部からの干渉があっても、ある程度の損害は抑えられる。

 逆を返せば――だ。抵抗力を失った生身の体はあまりに(もろ)い。普通の人間と変わらない……、いや、むしろ精霊使いはマナに頼る分が大きいため、わざわざ筋力を向上させようとする意識が低い。なので、マナがガス欠になってしまえば、極端に運動能力が落ちてしまう。


「となると……、弱りましたね。それでは主任から犯人に繋がる手がかりは掴めませんよ」


 肩を落とす女性職員に、アイサは優しく声をかける。


「しょうがないですよ。まずはレアさんの治療が最優先。目を覚ました後で、色々訊けばいいんですから」

「……こんな状態です。いつ意識を取り戻すか分かりません。マシンレベルは最高に設定してありますから、傷の修復だけなら一週間で完治するでしょうが……。でも、目覚めたからといって、あまり無理させないで下さいよ?」


 分かっています、とアイサは強く頷く。


「とまぁ、あなた方に忠告したところで、本人が無茶しますからね。……困ったものです」


 女性職員が深いため息を吐く。レアの使命感が強いのは、身近にいる彼女たちが一番よく知っているのだ。

 だから。女性職員は静かに肩を震わせ、怒りを滲ませた声で言った。


「事情は伺いましたが、どうして、どうして主任が襲われなければいけないんでしょうか」

「……え?」

「……いえ、理解はしています。精保に身を置いていれば、そうなる可能性は十分にあるということも。ですが、納得いく訳がないじゃないですか! 我々に刃を向ければ重罪なんですよ! それなのに!!」


 バンッと両方の拳をデスクに叩き付ける女性職員。吐露される言葉に嗚咽が混じる。


「精霊使いの本来の使命は世界を正常に保つこと。それは今も昔も、たとえ世界が移り変わろうとも同じです。精霊使いが敵対するなど、あってはならない。本来なら戦争ものです!!」

「……ッ」


 アイサは唇を噛む。涙ぐむ女性職員に、かける言葉すら思いつかなかった。


(アタシらも迂闊だった。回避しようと思えばいくらでも方法はあった。あの報告を受けた段階で護衛の一人や二人つけていれば、まだ未来は違ったのかもしれない……)


 恐らく今回の相手は怪物だ。インジェクターでも、太刀打ち可能なのか怪しいところではある。それでも、自分達が対処していれば少なくともレアは守れた。証拠も無事だった。

 そういった点では今後、体制の見直しを計るべきかもしれない。

 アイサは震える彼女の肩にそっと手を置き、言った。


「今はレアさんが一刻も早く目覚めるのを祈りましょう。――何かあれば呼んでください」


 お願いします、最後にそう添えてアイサは部屋を後にした。しん、と静まりかえった廊下。アイサはうなだれながら壁にもたれかかった。


 ――もどかしい。


 他人が怒りを露わにしていれば、案外自分は冷静になるものだ。だがこうして一人になれば、沸々と憤りが込み上げてくる。

 その根本は、やはり“仲間を傷つけられた”という単純明快な気持ち。さらには愚かな自分への苛立ちだ。警察と並ぶ国家権力に盾突いた――なんて、そんな正義感は二の次だ。

 自分でも子供じみていると思う。

 インジェクターとして生きてきた時間と、前の世界での精霊使いとして責務を全うしてきた時間。二つを比較すれば、アイサの場合、後者の方が遥かに長い。


(戦争……か……)


 そもそも、あちらの世界にいた頃は余計なことは考えなくてよかった。

 精霊使いとしての素質を見出された者は『里』と呼ばれる隔離された土地に連れて行かれ、修練の日々を送った後、世界の調整者としての任に就く。漫然と過ごす日常。交流さえもない鳥かごのような毎日だ。

 そこには理由がある。

 不戦の掟。世界の均衡を保つために、六つの精霊使いの間で交わされた約定だ。一度争いが起きれば、世界のバランスが大きく狂う。その対処法として無用な接触を避けることにしたのだ。

 未来への希望を捨てて。

 精霊使いはまるで世捨て人のように隠遁生活を送ってきた。

 ところが、こちらの世界では人間も六種の精霊使いも、全てが混在した生活を送っている。しかも自分達は格付けされ、掟は法律に成り代わり、どんなに小さな争いでも罪として裁かれる。

 だからこんな悲劇も起きてしまう。

 それでも、いや、だからこそ得たものもある。他者と関わりを持てたからこそアイサは成長できたのだ。

 職場の皆を家族と思えるほどに。

 自分だけではないはずだ、とアイサは思う。カイも、キョウヤも、ユリカも。今を、世界を、家族を大事にしたい。正義という重い責任を手にしても。


 ……そして、人間である『彼』も。


「レイジ……」


 話を聞いたときは信じられなかった。

 あんな事態に巻き込まれながら、精神的にも深い傷を負いながらも、危険な捜査に志願するなんて。

 しかも場所が場所だけに、嫌な予感が決壊したダムのように押し寄せてくる。だが、待機命令が下された自分にはどうもできない。

 彼の無事を願う――それしかないのである……。







「んもぅ! キョーやん何ヵ月ぶりぃ?」

「ハハ、悪い悪い」

「どうして来てくれなかったの? ずっと待ってたのに。ほんっっと寂しかったんだから!」

「だーから悪かったって。俺も忙しかったんだよ」

「キョーやん、私のこと忘れちゃったんじゃないかって、すんごく心配だったの」

「忘れてねぇって。メールも返してただろ?」

「……もしかして違う店に行って、お気に入りの娘でも見つけたのぉ?」

「んなわけねぇだろ。俺はキミ一筋なの」

「ホントにぃ~? キョーやん上手いからなぁ~」

「あら、キョウヤさん。じゃあ私は?」


 若い女性たちの嬉々とした笑い声が飛ぶ。

 どっかりと深紅のソファに腰をおろして酒をあおるキョウヤの両隣に座った女性二人。彼女らは光沢溢れるドレスを身に纏い、キョウヤに密着している。時にはキョウヤの腕に自分の腕をまるで蛇のように絡ませ、また時には豊満な胸を()()()押しつけている。

 ――その横で、織笠は肩身の狭い思いで座っていた。

 ここは、スラム地区の入り口から三百メートル先にある歓楽街だ。アーケードの通りには、とにかく自己主張の激しい電飾の看板を掲げた店がズラリと並ぶ。やはり夜とあって、人の往来は激しい。少し路地を外れれば爛然としたピンクの照明がひしめく、いわゆる「いかがわしい」一画もある。

 織笠は度肝を抜かれた。理由はこの界隈にではなく、キョウヤの到着早々の「ちょっと呑んでいこうぜ」発言に対してだった。

 選んだ店はいかにも高級そうなクラブ。

 織笠は当然のように抗議した。まったくこの人は何を考えているんだ。これから捜査じゃないのか。

 モエナは呆れを通り越し、うんざりした様子で首を振っていた。

 レア襲撃の際のあの情熱はどこへ。憧れから一転、幻滅してしまう織笠である。

 キョウヤは「一杯だけ、ね? 一杯だけ」と酒好き特有のセリフを言いながら店に入っていく。頭痛がしてきた織笠へモエナは「私はそこらへんにでも隠れてるから」と、路地の闇に溶けていった。

 ……とまあ、そういうわけで、キョウヤは指名したホステスをはべらせつつ、お楽しみの真っ最中なのである。

 どうやらキョウヤはこの店にきたことがあるらしく、女性二人はかなり気さくだ。一人はかなりギャルっぽい、派手な金髪を結い上げた童顔の女性。そして、キョウヤと織笠の間に座っているのは、黒のロングヘアーを肩に回した大人びた美女。精霊使いは見た目=年齢ではないものの、キョウヤのゾーンの広さはさすがである。


「――それで、こちらさんは?」


 黒髪のホステスの艶めかしい視線が織笠に向く。


「あっ、うっ、えっと……」

「ああ、そいつはな」

「珍しいね、キョーやんが誰かと一緒に来るなんて。いつも一人なのに。……弟さん?」


 女の子が興味津々に大きな瞳を輝かせる。キョウヤは笑い飛ばしながら言った。


「違ぇーよ。コイツはダチみてぇなもんだ。今日たまたまコッチに寄る用事があったんでな」

「へぇ~。でもキョーやんの友達にしてはちょっと違うかも。大人しいし、真面目そう」

「どーいう意味よ、ソレ。俺がチャラいとでも?」

「こういう店に来るようには見えないわ。どうせキョウヤさんが無理矢理連れ込んだんでしょ?」

「……バレたか」


 ドッと場が華やぐ。

 指摘通り、織笠はクラブに来るのは初めてだ。そもそも、こういう夜の街には近寄ったことすらない。人々の欲望のはけ口――テレビのイメージもあって、嫌厭(けんえん)していたのだ。

 きっと彼女らには織笠の落ち着きのなさから、上京したての田舎者にでも映ったのだろう。


「お酒、呑まれていないのね。弱いのかしら?」

「え? あ、そうですね……、あまり強いのは……」


 会話の糸口か、黒髪のホステスが織笠の前に置かれたグラスを見て言った。キョウヤに勧められるままオーダーしたウーロンハイには、ほとんど口を付けていなかったのである。


「でもぉ、ちょっと顔色悪いよぉ? 大丈夫ー?」


 たいして心配していない様子で訊ねられ、織笠は苦笑して頷く。酔った感覚があるのはきっとこの場のせいだろう。豪奢な内装に、耳を刺激する曲の音量、さらには他の客の弾けっぷり。座っているだけなのに、目が回っていた。


「ん~、まだちょっとレイジにゃこういうトコは早かったか?」


 隣のホステスに火を点けてもらった煙草をくわえながらキョウヤが言う。


「……子ども扱いしないで下さいよ……」

「な~に言ってんの。さっきから女の子の目もまともに見れてねぇくせに。大学生にもなって、んなこっちゃこの先苦労すんぜー?」


 そう言われてしまうと、閉口せざるを得ない。

 他人との距離の測り方が分からない、この難儀な性格には自分でも手を焼いている。

 ――まさか。だからキョウヤはこんな店に連れてきたのか? だったら荒療治もいいところだ。


「へぇ~、キミ大学生なんだ。ドコ?」

「新明……大学です」

「まぁ、あそこ。有名よね。私の友人にも新明の卒業生いるのよ」

「うっそ! 新明大学って難関じゃなかったっけ? レイたんって頭イイんだ」


 織笠の返答に一気に盛り上がる女性陣。

 食いつきの激しさに、織笠は困惑した。

 新明大学は、精霊使い側からの受けが高いのは周知の事実だ。その学生という肩書きがステータスになる――織笠はそんな理由で入学したつもりはないが、こうもあからさまだとかなり面食らってしまう。


「あら。急にソッチにいく? お兄さん妬けちゃうなぁ」

「キョーやんの話はいつも聞いてるし、今日ぐらいはいいじゃん。ねぇ、でもさ、今あそこ大変なんでしょ? 学長さん死んじゃって」

「そうですね……」

「残念だよねー。あの人、昔ここによく来てたからさ。あたしもたまに指名してくれたし」

「ちょっと、やめなさい」

「……え?」


 黒髪の先輩ホステスから叱咤が飛ぶ。こういう業界では、他の客の情報を漏らすのはご法度なのだろう。口走った金髪ホステスは、たいして悪びれる様子もなく、ぺろっと舌を出した。

 しかし意外だ。あの聖人君子のような矢崎学長が、こんな殺伐とした危険な区域に来るなんて。


「ふーん。あの有名人がねぇ……。遊ぶイメージはネェけどな。世間の目があっただろうに……。いつの話だ、そりゃ?」

「やめてよ、キョーやん。記者じゃないんだからさ~」

「ヤローのことなんか興味ねぇっての。俺が気になってンのはな……」


 キョウヤは金髪ホステスに顔を近づけ、甘く、とろけるような声でささやく。


「キミがいくらで接客したか、だ。教えてくれたら、俺はソイツより高い酒を入れてやるよ」

「ホント!? やったぁ!!」


 金髪ホステスの目が輝く。眼前にちらつかせられた大金を前に、釣られないわけにはいかない。あっさり彼女の口から銘柄が飛び出た。織笠には初耳だったが、キョウヤは知っているらしく、瞬時に眉をひそめた。


「そりゃ、二十年ぐらい前に流行った酒だな。そこまで安価じゃないし、昔は俺もよく呑んでたな。……ん? 待てよ、二十年前……?」

「ねーねー、キョーやん。ワタシも呑んでいい~?」

「あ? あー、ハイハイ。何でも好きなヤツ頼め」


 遠慮なく最高級のワインを嬉々として頼むホステスの横で、顎に手をあて考え込むキョウヤ。少しの間が空き、ゆっくりと織笠の方へ顔を向けた。


「なあ、新明大学って今年で創立何年だ?」

「ちょうど二十年ですよ。学長もテレビでインタビュー受けてましたし」

「じゃあ……、矢崎が議員時代に通ってたのか? いや、それこそスキャンダルにでもなったらマズイよな……」


 誰にでもなく、宙に放られた呟き。低く、重く、深い声音。集中のあまり、じわじわと煙草の灰が根元に近づくのに気づかない。

 キョウヤの視線はグラスの氷に注がれているが、網膜にそのビジョンは記憶されていない。女たらしの軟派は影を潜め、インジェクターとしての精悍な男の顔が姿を現していた。


「んーん。あの人初めて来たとき、かなりみすぼらしい服装だったよ。きっと議員辞めた直後だったんじゃないかなぁ」

「コラッ! いい加減にしなよ!」

「むー。いいじゃないですか、ちょっとくらい。等価交換ってヤツですよー」


 剣呑な空気が織笠たちのテーブルに流れる。それを素早く察知したキョウヤは、すかさず両者を宥めた。


「いやぁ、ワリィ。他人を詮索する気はねーのよ。ただちょっと気になっちまって」


 黒髪のホステスは、胸の下で腕を組んで嘆息して言った。


「キョウヤさんも人が悪いわ。私たちはお客様に直接職業は訊かない決まりだけど、たまにキョウヤさん情報収集のためだけに来店するでしょう。この子口軽いから、押せばなんでも喋っちゃうの。勘弁してくれる?」


 そういうことか。キョウヤは最初から容疑者の情報を得るためだけにここに来たのだ。

 そして、インジェクターとは敢えて名乗っていない。バラしてしまうと、このストレイエレメンタラーの巣窟での立ち回りが厳しくなるためだろう。

 しかし素性を伏せ、誰かの情報を得るのは至難の業だ。だからこそキョウヤの出番というわけである。話術、女性の扱いに関しては彼の専売特許とするところ。さらには値の張る情報料を躊躇なく支払える財力。あの面子なら、彼が間違いなく適任だ。

 とはいえ、キョウヤもまさかここで矢崎の名が出るとは思いもしなかっただろうが。


「勘付かれてたか、さすがだな。別に愚劣な商売してるわけじゃない。情報を悪用するつもりもさらさらねぇ。そこは誓う」

「こっちも人を観察する仕事。キョウヤさんが何者か、大方の察しはつくのよ。だから、こちらとしてもリスクの低いカードを先に切る」


 黒髪の美女ホステスが挑発的に微笑む。


「へぇ……。じゃあ、なぜ矢崎はこの店に来た?」

「理由なんて人それぞれだから。ストレス解消とか、お気に入りの娘がいるとか。……あの人は精霊使いを愛していた。だからじゃないかしら」

「会話の内容は?」

「主に愚痴じゃない? だって議員辞めた直後ですもの。きっとストレスでボロボロだったのね」

「それだけかよ?」

「さぁ? だって二十年前も前のことですもの。覚えていないわ」

「ホントに~? あの当時、矢崎の議員辞職はかなりドデカいニュースになった。そんな時の人がやって来たんだろ。質問攻めにしなきゃおかしいって」

「キョウヤさん、私らは下衆なレポーターとは違うのよ。そんなこと散々されてきた本人に、さらに追い討ちをかけるなんて無粋な真似、すると思う?」

「……愚痴をこぼしていたのは覚えているんだろ? だったら何かあるはずだ、会話の端々に関係者との繋がりを示すピースが」

「お客様が喜ぶピースなら、逃さず拾いますね。あ、そうそう。矢崎さんはブランデーがお好みでしたよ」

「どうでもいいさ、そんなのは。俺が喜ぶピースも分かってるはずだろ」

「さて? どうでしょうか」


 冷静に受け答えする彼女の笑みは一切崩れない。

 核心は上手く逸らし、最低限の情報しか提示しない。取捨選択はそちらが決めろ――というわけだ。

 冷ややかな視線の交錯はしばらく続いた。

 ――が。


「あーあ、ミスった。俺の負けだな。焦っちまった」


 お手上げといった感じで、キョウヤは肩をすくめた。黒髪のホステスも、これ以上の追及は来ないと分かると、笑みをより深くした。


「らしくないですね」

「ねーさんはガードが固いよな。腹の探り合いじゃ敵わんわ」

「当然よ。この商売は信用第一だもの。お客様が心を開いてくれるにはどうするか。そこに全神経を注いでいるわけだし」

「最終手段として身体に訊く……っていうのもあるが……。どうかね?」

「あら。キョウヤさんって、勝率が一割を切るようなギャンブルをするタイプだったかしら? もしかして私、あなたを買い被ってたの?」


 完全降伏である。キョウヤは苦笑いを浮かべながらうなだれる。諦めるか、そんなキョウヤの表情だった。

 そんなとき、黒髪のホステスの背中に控えめな声がかかった。


「あの……、すいません」

「はい、何かしら?」


 女性が振り返ると、困った表情で織笠が見つめていた。


「その、学長のこと……、どうしても教えてもらえないんですか?」

「え……?」

「おい、レイジ」

「学長を殺した犯人、それを僕らは突き止めたいんです。その手がかりを握った知人も、そいつにやられて重体なんです。……だから! どんな些細なことでもいいんです。お願いします! 絶対他言はしませんから」


 深々と織笠は頭を下げる。

 舌戦や駆け引きといった類のスキルは、織笠は持ち合わせていない。相手の手札を切らせる材料としてのカードを、この青年は所持していないのである。

 ならば。

 手持ちをさらけ出し、不戦敗を認めた上で懇願する――織笠にはこの方法しかないのだ。無理は百も承知。相手が降りてくる可能性が限りなく低かったとしても。

 

「……ごめんなさい。私にも譲れない一線はあるの」


 意外な伏兵の登場に若干動揺の色を見せたものの、それまでだった。


「そう……ですか……」


 申し訳なさそうに黒髪のホステスは言った。

 しゅん、と肩を落とす織笠。その様子は食事を貰えない子犬を想起させた。

 それを見た黒髪のホステスは、ぐっと言葉を詰まらせる。目を細め、無言で織笠の全身をしばらく凝視し、やがて首を横に振った。まるで、何かを諦めたかのように。

 そして、織笠の背中に手を触れながら、今までにないほど優しい声色で言う。


「そんなに悲しい顔をなさらないで。――分かったから。矢崎さんの関係者ということにして教えます。……でも、今回限りですよ?」

「あ……ありがとうございます!」


 驚きに目を見張るキョウヤと金髪ホステスが、顔を見合わせる。


「うっそぉ……。ねえさんが落ちた……」

「マジかよ……。どーなってんの……」


 あれだけ頑なだったホステスさんの気がどうして変わったのか。織笠的にはきっと熱意が通じたのだろうと純粋に感じていたが、どうやら違うらしい。

 織笠の頬を、まるで割れ物を扱うように両手で優しく包み込み、さらに距離を詰めた。恍惚の微笑みを鼻先数センチで向けられ、織笠の心臓は強く脈打つ。


「レイジさん……でしたよね。あなた、私の弟に似ているわ。……だからかしら。放っておけない気持ちになるの」

「うえ!? あ、いや、その……」

「フフッ。惚れさせるのが鉄則のこの仕事で、まさか逆に惚れてしまうなんて……罪な方。貴方専用の娼婦に成り下がっても構いませんわ」


 どうやらこの黒髪の美女ホステスさんは、母性本能をくすぐるタイプに激弱らしい。普段年配ばかり相手にしてきたから、露呈しなかったのだ。


「ちょっとマズイですから!」

「照れてらっしゃるのね……可愛い」


 顔を真っ赤にして激しく狼狽える織笠。

 結果オーライには違いないが、どうにもやるせない気持ちのキョウヤが一言。


「レイジ……。ジョーカーはお前自身だったのね……」


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