96.四つしか使えない特級クラス
何もない部屋だった。
壁も床も天井も白い、それなりに広いだけの真っ白な部屋だった。
「ああ、なるほど……」
クノンはなんとなく理解した。
入学試験の最後にあった面接で、「夜の部屋」へ案内されたことを思い出した。
恐らく、その類の部屋だ。
魔術的な保護と補強、もしくは空間的な安全処置を施してあるのだろう。
ここでなら、どんな魔術を使っても、部屋の外に漏れないように。
第六実験室とはそういう場所なのだ。
今のクノンでは、この部屋の理屈のとっかかりさえわからない。
実に興味深いなと思った。
「ラディア嬢も、今度の楽しそうな催しに出るの?」
案内してくれたついでに、クノンはラディアに雑談を振る。
全員実験室に到着しているが、肝心のサーフがまだなので、皆それなりにゆったりと待っている。
アゼルには睨まれているし、他の生徒には遠巻きにされているが。
「わたくしも出ますよ。二級クラスのイベントですから」
ラディアは根が優しいのでちゃんと答える。
相変わらずいい顔はしていないが。
――今朝、サーフから説明があった。
もうすぐ二学期が終わるので、その直前に魔術の試験があるそうだ。
その試験とは、筆記と、属性別の対抗戦になるのだとか。
なので、これから少しの間は、魔術の実習が授業代わりとなる。
教師監督の下、実戦に近づけた授業をするのである。
だからこそ、属性の違うサーフでも、この時期なら臨時教師を務められるのだ。
属性別の対抗戦。
非常に楽しそうなイベントだが、特級クラスには関係ない話である。
学科が違うので特級クラスの生徒は出られないし、表向きは見学も禁止されている。
まあ、別に特級クラス同士の勝負が禁止されているわけではないが。
だからやりたいなら勝手にやれ、という扱いになっている。
特級クラスは、その点もまた自由なのである。
「君も中級まで使えるの?」
「ええ、もちろん。二級クラスは全員最低でも一つは習得していますよ」
中級魔術は、初級とは別物だ。
制御も操作も格段に難しい。
十二、三歳くらいで使いこなせるのなら、充分誇れることである。
「へえ、優秀だねぇ。僕なんて初級四つしか使えないよ」
「……え?」
――聞き間違いだろうか、とラディアは思った。
今、初級を四つと言わなかったか、と。
特級クラスは化け物揃い。
ラディアも聞いたフレーズである。
実際、特級クラスのとんでもない連中を何人かは知っている。
とんでもない噂も聞いている。
クノンのことも噂で知っていた。
もちろん、とんでもないという意味の噂でだ。
なのに、初級を四つとは?
中級の聞き間違いだったか?
「クノン、今、あなた……」
「え?」
聞き返そうとしたところで、サーフ・クリケットがやってきた。
「よし、じゃあ今日も元気に始めようか」
結局聞けなかった。
「――今なんか言いかけた? あ、髪型? 綺麗に巻けているかって? もちろん巻けているよ。とても美しい巻きだよ。その巻いた穴にカップとか置いておけるんじゃないかってくらいしっかりセットされてるよ」
何を誤解したのか、クノンはサーフに聞こえないよう小声で囁いた。
そんな寝言を聞くつもりはなかった。
あとカップは置けない…………設置できる強度はあるかもしれないが、そもそもそんなことは絶対しない。
ぞろぞろと集まった生徒たちに、
「で、話はついたかい?」
前置きなく、サーフは身も蓋もないことを言った。
「私も君たちも暇じゃないからな、手っ取り早く行こう。誰がクノンと勝負するんだ?」
彼の言葉は、暗に「どうせクノンに絡んだんだろ?」と言わんばかりである。
「私がやります」
実際絡んだアゼルが前に出た。
彼の態度は、話が早くて助かると言わんばかりである。
「そうか。じゃあアゼルでいいんだな?」
サーフは穏やかに笑った。
「ちなみに言っておくが、クノンは初級クラスの魔術を四つしか使えない」
さらりと言われた。
さすがの内容に、全員が耳を疑った。
「初級が四つ。入学当時はたった二つだった。
それで彼は特級クラスを果たしている。この意味をよく考えるように」
タイミングと、場の空気。
これがずれていれば、嘲り笑うような声も上がったかもしれない。
あるいは、サーフの「それで特級入りしている」という不可解な言葉がなければ。
あまりにも少ないクノンの習得魔術の数。
しかし誰も笑わなかった。
実際それで特級クラス入りしているからだ。
厳しい顔をして緊張感を漲らせるアゼル。
対して、楽しみで仕方ないとばかりに笑っているクノン。
――特級クラスは化け物揃い。
対峙するアゼルとクノンを見守る全員が、その言葉を思い出していた。
向かい合っているアゼルさえも。
「じゃあ、はじめ」
サーフの開始の合図が出た。
先手必勝とばかりに、アゼルは右手を出してクノンに向けた。
中級魔術の構えだ。
初歩の魔術と違い、中級は制御も操作も難しい。
初歩なら端折れる動作や言葉も、どうしても必要になる。
もちろん、慣れればその限りではないのだが。
「――『大波寄』!!」
巨大な魔法陣が描かれる。
アゼルの真後ろに。
ゴォォッォ!!
そして、魔法陣から大量の水が迸る。
一気に。
壁のように。
その様はまさに大津波だった。
アゼルの頭上を越えて、床に落ちて走り。
圧倒な水量は大きくうねり、その先にいるクノンへ襲い掛かる。
この水量に対し、たった一人。
その対比が恐ろしい。
もし海辺であるなら、小さな集落くらいは呑み込んでしまいそうだ。
それが、たった一人に向けられた攻撃なのである。
アゼルは本気だった。
いや、本気にならざるを得なかったのだ。
クノンは初級四つしか使えない。
そんな事実を聞いても、それでも、まったく勝てる気がしなかったから。
――ほら見ろ、とアゼルは思った。
大量の水が迫る中。
クノンは何も変わらず、反応もせず、笑っていたから。
己の直感は当たっていたことを、誰よりも早く理解した。
アゼルが唱えた「大波寄」に、二級クラスはざわめいた。
「そんなっ!?」
ラディアも驚いた。
まさか。
まさかアゼルが、彼の手札の中で一番強力なものを、いきなり切るとは思わなかった。
いや、それ以前の問題だ。
あんなものが直撃したら、人は死ぬ。
水の重さで圧死するか溺れるかは知らないが、間違いなく死ぬ。
今度の対抗戦、防御用の決闘用魔法陣を使用しないことになっている。
だから実習段階である今も、使用していない。
当然、属性別の対抗戦は殺し合いではない。
魔術の殺傷力を理解し、その上で加減を覚えるという課題でもあるのだ。
課題である以上、練習でも使うことはない。
つまり、今。
アゼルもクノンも、魔術次第では即死する可能性があるということだ。
その上で――アゼルは致死性の高すぎる強力な魔術を使用した。
あまりにも危険だ。
「先生――」
「これ止めないと――」
中止を求めるように、ラディアやほかの生徒が声を上げるが。
「ちゃんと見ていろ!」
サーフは穏やかに……いや、どこか異常さを感じさせる笑みを浮かべて、声を上げた。
彼の視線は、勝負している二人から動かない。
「滅多に見られない貴重なものが見られるぞ! 魔術師なら記憶に焼き付けろ!」
――それは教師ではなく、ただの一人の魔術師としての言葉だった。
ポン
ポン ポン ポン
クノンの足元を、「水球」が転がっていく。
「……」
誰もが唖然としていた。
術者であるアゼルも、開いた口がふさがらない。
何がどうなったのかわからない。
ただ、純然たる事実として。
津波はクノンを襲った。
サーフは助けに入らなかったから、誰も庇いも邪魔もしなかった。
だが結論として、クノンに津波は当たらなかった。
彼に触れそうになった津波は。
その先から「水球」という個体となり、ポンポンと軽く床を弾んで転がっていった。
水、すべてが。
壁が迫りくるような津波が。
大量の「水球」となって、部屋の壁まで転がり、溜まっていった。
「ダメだよ」
クノンは言った。
ちょっと渋い顔をしていた。
「魔術は放ってからも制御しないと。
放ちっぱなしだと、相手に水の制御を乗っ取られるよ?」
その言葉は、普通に反撃もできたけどあえてしなかったよ、と。
そう言っているように聞こえた。





