92.そして彼女を怒らせた
少しばかりグリフスの魔術訓練に付き合い、クノンは三級クラスの教室を出た。
まず食堂へ向かい昼食のサンドイッチを貰い、サトリの研究室へ。
昨日と同じコースである。
今日、ジェニエは図書館で調べ物をするそうなので、別行動である。
紳士的に「調べ物を手伝いましょうか」と言ったが、「授業に関してだから生徒には相談できない」と断られたのだ。
――実は三級クラス用のテスト作成のための調べ物なので、生徒じゃなくても部外者であるクノンには漏らせないのである。
そんな背景を知る由もなく、クノンは目的地にやってきた。
「こんにちは、レディ」
「はいよ。こんにちは」
ノックして入室すると、サトリは書き物をしていた。
返事はするが視線を向けることもなく、手の動きも止まらない。
「何か手伝いましょうか?」
「そこにある資料をまとめてくれるかい? 飯食いながらでいいから」
すかさず指示が飛んできた。
遠慮のないレディである。
そこの、と指されたテーブルに着き、クノンは書類の束を手に取る。
「これは……『砲魚』と『氷面』のレポート?」
「古い走り書きだよ。清書してくれ」
「わかりました」
覚書や走り書きやメモの清書は、ゼオンリーに散々やらされたことである。
ただ、彼の師匠からの書類は、全部魔道具に関するものだった。
対するこちらは、水の魔術に関するもの。
どちらが興味深いかと言われれば……
まあ、魔道具の理解がある今のクノンにとっては、どちらも同じくらい興味深い代物だ。
「……ふうん。面白いなぁ」
サンドイッチを片手に、まずは書類に目を通す。
授業で聞いた内容もあるし、授業で学ばなかった内容もある。
新しい魔術。
まだまだ改造できる魔術。
正直、「水球」と「洗泡」でできることはやり尽くした感があった。
だから新しい魔術の実験や研究は、これからなのである。
まだ初級、初歩の魔術の段階だ。
魔術師としての成長は遅いのかもしれないが――クノンはこれでいいと思っている。
まだ魔術学校の一年生だ。
焦ることはない。
だから、結論を急がないでほしい。
「サトリ先生」
「なんだい。頭ぁ使うような小難しい話なら聞かないよ、今日中に片付けたいレポートなんだ」
不機嫌そうな声だが、応じる気はあるようだ。
ぶっきらぼうだが、サトリは全体的にゼオンリーよりは優しいな、とクノンは思った。
「三級クラスの生徒が、一年で魔術学校を辞めるって言ってて。理由を聞いたら才能がないからもういいって言ってて。
でも僕は、諦めるのはまだまだ早いと思うんです」
簡潔にそう言うと、サトリの手がピタリと止まった。
じろりと睨まれるが、見えないクノンには些細な動作はわからない。
「……頭を使わせるなって言っただろうが」
休憩休憩、とサトリはペンを放り出してクノンのいるテーブルにやってきた。
「気持ちはわかる」
まず、サトリはそう言った。
「魔術を使えるのは才能だ。
人間誰しもが魔術師なら、魔術を捨てる奴がいてもいいと思う。だがそうじゃないからね。
だから気持ちはわかる。せっかくの才能を捨てるべきではない、ってね」
才能。
クノンにとっては、憑いているものが才能そのものにも思える。
サトリにはクラゲが憑いている。
彼女の周りを漂う、大人くらいい大きな二匹のクラゲだ。
ゆっくり深呼吸をするように、ぼんやりと明暗を繰り返す、半透明の美しい生物だ。
ちなみにジェニエには、水でできた鳥が憑いていた。
「じゃあここで問題だ。魔術を捨てる奴は何が原因だと思う?」
「……さあ? 僕は一度も捨てたいと思ったことがないので。わかりません」
「そうかい。答えは失望だよ。
せっかく才能があってもこれくらいしかできない、この程度しかできない、上には上がいる、続けたところでどの程度身に付くだろうか。
魔術ってのは自己研鑽だ。自分との戦いだ。
自分との戦いってのは、かなりつらい。
つらいから諦める理由を探す。
一番手っ取り早いのが、周囲なんだ。
周囲と比べて、勝手に嫌になるんだよ。自分があれだけ頑張ったのに、周りは簡単に自分の先を行く。自分の才能は二流だ三流だ、だから上に行くのはもう諦めよう。自己研鑽をやめよう。
目標がない奴は、よくそう思っちまうのさ」
それと――サトリは言わなかったが。
クノンのように周りが見えず、ただただ自分と向き合い続けるしかない方が、もしかしたら求道者としては楽なのかもしれない、と思った。
無神経すぎて、とてもじゃないが口に出す気にはなれなかったが。
「目標かぁ……そう言われるとわかる気がします」
魔術を習い始めた当初は、クノンも特に魔術に思い入れなんてなかったから。
目標ができて、変わったのだ。
すべてはそこからだった。
目標。
そうか、目標か。
「先生」
「ん?」
「女の子をその気にさせるテクニックって何かないですかね?」
「……おう。それをあたしに聞くのかい。この初老のババアに」
「え? でもサトリ先生にも女の子の頃はあったでしょ?」
「まあ、いきなり老いたとは言わないが」
「でしょ? というか今だってまだまだ女子でしょ?」
「女子? あたしが?」
「ええ、女子です」
「女子?」
「女子。どこに出しても恥ずかしくない女子ですよ、あなたは。ちょっと年上なだけの女子です」
「……はあ、そう。その内ご両親に挨拶させてくれるかい? あんたの親の顔ならぜひとも見てみたい」
「わかりました。父上と母上に伝えておきます」
「嫌味だよ」
「え、なぜ嫌味を? 僕何か悪いことを言いました?」
――こいつ無敵か、とサトリは思った。
最初はあまり気にならないが。
じっくり話すと嫌でも際立ってくる、この性格は何なのか。
本当にジェニエは恐ろしい生徒を育てたものである。
魔術師としても、子供の育成としても。
なお、性格面を育てたのは別人なので、これは完全なとばっちりである。
サトリとそんな話をした翌日。
「おはよう、リム」
クノンは今日も三級クラスにいた。
「おはようクノン。今日も三級なんだね」
そんな返事をしつつ、リム・レースが隣に座る。
本来クノンは特級クラスなので、ここにいるのは場違いなのだ。
「数日の予定だから、明日か明後日までかな。それまでよろしくね」
予定通り新しい魔術も覚えたので、もう通う必要もなさそうだが。
ただ、魔術の訓練をする初心者魔術師が珍しくて、もう少し見ていたいのだ。
幸い特に気になる生徒も二人ほどいるし。
しかし単位取得もまだ終わっていないので、あまり長居はできない。
「ねえリム」
「ん? ――うわっ」
彼女を振り向かせたクノンは、目の前で霊草シ・シルラを瞬時に出して見せた。
ほんのり光る、透明な花。
儚く美しく、そして見るからに繊細で神秘的。
月光の下で見たらさぞかし幻想的だろう、そんな花だ。
「……綺麗……え、何これ? 花?」
珍しい霊草だけに、この三級クラスにそれを知る者はいない。
だが、クノンが女子を口説いていること。
そして見たことのない、見るからに高そうな花を出したことは、目の前にある事実である。
見るでもなく見ていた者も。
「ね、あれあれ」と横の誰かに教える者も。
密かにリム・レースに思いを寄せる者も。
想いは違えど、今、クラスの全員がクノンとリムを見ていた。
「花だよ。この世で一番君に相応しい花だよ。どうぞ」
見たことのない花を差し出すクノン。
その様は堂に入っていて、生まれ育ちの良さが如実に表れていた。
対するリムは、初めて花を贈られた少女のように頬を赤らめる。
その横顔は、もう子供ではなく、一端の女性のようだ。
「え、え、あ、え? あ、ありが……おっ!? おっ、おっ!?」
だが、それもつかの間。
戸惑いながら受け取ったリムの手から、幻想的な花は、霧散して消えてしまった。
手に残るのは湿り気ばかりだ。
「――今のは僕の『水球』でした! どう!? 魔術に興味持った!? 興味津々になったよね!?」
クノンははしゃいだ。
昨日、サトリに言われたのだ。
まだ魔術の魅力を理解してないから簡単に捨てられるんだ、と。
魔術の魅力を伝える。
魔術で何ができるかを伝える。
だからクノンは、霊草を魔術で作ってみせたのだ。
女性は花が好き。
だったら魔術で花を出して見せたらどうだ。
これならきっと興味を持つに違いない、。
――そしてリムは舌打ちした。
「今日はもう話しかけないで!」
「えっ!? なんで!?」
どうやらリムを怒らせたようだ。
クノンには、どうして彼女が怒ったのかわからなかった。
このクラスでそれがわからないのは、クノンだけだった。





