85.次の魔術は
「――お久しぶりです、クノン様」
声を聞くなり、クノンは一歩引いた。
無意識の一歩だった。
「やあ、ジルニ。曇りの日でも君の美貌は輝いているね。まるで何カラットかの何らかの宝石のようだね」
それでも言葉は出る。
いつも通りに。
「はあ、どうも。雲一つない青空ですけどね」
「あ、そう? ……曇ったのは僕の心かな」
「…?」
クノンは思い出した。
そうだった。
聖女が学校の外に出るということは、彼女の護衛も付いてくるということだ。
どんぶり勘定もいいところのクノンでさえ、先日のランチ二十二万ネッカの支払いは、忘れられない心の傷となっている。
あのたっかいたっかい二十万ものワインを注文した者こそ、この侍女兼護衛のジルニだった。
今日は冒険者ギルドに行く用事があった聖女は、昼前に引き上げるつもりだったそうだ。
そのため、己の護衛に迎えに来るよう頼んでいたとか。
なお、もう一人の侍女兼護衛フィレアは、今日は留守番だそうだ。
校門付近で無事に護衛と合流し、三人は冒険者ギルドへ向かう。
「ギルドで用事が済んだら、どこかへ行きましょうね」
「うん」
「どこへ行きましょうか?」
「君が望む場所ならどこへでも。たとえ女性用下着売り場でも僕は躊躇わない」
ギルドへ向かう道中、聖女とクノンは取り留めのない話をする。
二人が並ぶすぐ後ろを、ジルニが付き従っている。
「そういえば約束していましたね。今日こそパフェを食べに行きましょう」
「そうだね」
「でも、この時間だとランチが先でしょうか?」
ランチ。
聞きたくない単語が出てきた。
思わず尻込みする言葉だが――
「――もちろんランチにも行こう」
だが、クノンは前に出た。
たとえ心がきりきり痛みを主張しても。
断れと大声で訴えていたとしても。
リンコの大目玉を思い出せとばかりに、過去の記憶を脳裏に呼び起こしたとしても。
内心はともかく、姿勢だけでも紳士でありたかったから。
「どこか行きたい店は? ぜひ美女二人をエスコートしっ、したい、な」
声が震えた。
言葉が詰まった。
しかしクノンは頑張った。
ここで引いたら二度と紳士だなんて言えなくなると思ったから。
男とは、女性の前では格好を付けたい悲しい生き物なのだ。
「本当ですか? ――よかったですね、ジルニ。またクノンが美味しいお店に連れて行ってくれるそうですよ」
「ご馳走様です、クノン様」
「はは、ははは。なんのなんの。僕これでも稼いでるから。大丈夫。うん。大丈夫だよ。怖いものなんて何もないさ」
嘘だ。
リンコに怒られた件は、そう簡単に忘れられるものではない。
思い出すのも嫌なくらい怒られたのだ。
ワインは頼むな、絶対に。
空元気で笑う最中、そう願わずにはいられなかった。
――ところで、だ。
「それで?」
ちょっと気持ちを切り替えたい。
クノンはランチの話題を打ち切った。
このままだと気持ちに追い立てられて足が止まり、逃げ出してしまいそうだったからだ。二十二万。リンコ。怖い。
「レイエス嬢は、僕に何かさせたいことがあるの?」
「わかりますか?」
「紳士だからね」
――理屈がよくわからないが、紳士ならそんなものかと聖女は思った。
「今朝、ギルドから要請がありまして。心当たりがあるなら腕の立つ水の魔術師を連れてきてほしい、と。
クノンと会わなければ無視するつもりでした。ちょっとお手伝いしてほしいことがあるようです。お願いできませんか?」
「あ、ギルド絡みなんだ?」
「はい。それで、さっき話を聞いた限りだと、クノンも無関係ではないみたいですよ」
「無関係じゃないの? 僕が?」
「ええ。もちろん報酬も出るそうですよ」
そう言われても、クノンには心当たりはまるでない。
シ・シルラと薬箱以外の用事では、冒険者ギルドと拘わりはないはずだ。
その用事なら直々にクノンを呼び出すだろうし。
まあ、水の魔術師が必要で声を掛けられたのだ。
関係のあるなしでクノンを誘ったわけではないだろう。
「実は――」
「ああ、いいよ。行ってから聞いた方が面白そうだ。今は仕事の話より、楽しいランチの話をしたいな」
説明を遮り、それよりとランチの話を持ち出す。
一拍入れたおかげで、少し落ち着いた。
――高級レストランはダメ、できるだけ庶民的なお店に誘導するのだ。
今ならできるはずだ。
まだ何も決まっていない、今なら!
「――お久しぶりです、クノン君」
冒険者ギルドへ行くと、いったん聖女らと別れた。
聖女は、事前に決まっていた仕事の打ち合わせ。
そしてクノンは、聞いていた通り、別口の仕事を任された。
面識のある管理部責任者アサンド・スミシーに案内され、ギルドの隣にある倉庫のような建物に入る。
がらんとした場所で、人はいないし、物もほとんどない。
それより何より、様々な臭いがする。
「ここは、ひとまず獲物や売り物を預かる場所なんです。解体まではしないんですが、やはり血の臭いは染みついていますね」
「なるほど。……ん?」
様々な臭いの中、馴染みのある少々生臭い香りが鼻につく。
「魚?」
それは、先日まで海を中心に動いていた時に嗅いだものにそっくりだった。
「ええ。実は先日、大量の高級魚がディラシックに持ち込まれましてね。買い手が付くまで当ギルドで保管していたのです」
大漁の魚。
なるほど、聖女の言っていた「無関係ではない」はそういう意味か。
「それでですね。購入者の希望で、二尾を街の外へ運ぶよう頼まれたんですよ。あ、向こうです」
アサンドが指した先には、台車に乗った巨大魚が二尾。
時期といいあの大きさといい、「合理の派閥」代表ルルォメットが仕留めたものに間違いないだろう。
つまり、これから魚は旅をするという意味だ。
日程はわからないが、なんとなく話が見えてきた。魚は見えないが。
「凍らせるんですか?」
「え? あ、ええ、そうです! 今も半分は凍っている状態ですが、運び出す前に今一度ちゃんと凍らせておきたいと思いまして」
あの難破船の探索から数日。
今は冬場である。
ちゃんと魚を凍らせて保管しておけば、多少日持ちはするだろう。
で、これから街の外へ持っていくわけだ。
ならば確かに、出発前にもう一度凍らせておいた方がいいだろう。
「でも……失礼ですが、大丈夫ですか?」
「え?」
「いえ、氷の魔術は難しいと聞いていますから……だから水属性の冒険者には、あまり頼める相手がいないんですよ」
「そうなんですか。……あれ? サンドラ先輩は?」
サンドラは大出力を誇る水の魔術師だ。
冒険者界隈では有名人であり、実力も認められているはずだが。
「あの人は魚だけを凍らせることができません。魚ごと倉庫内半分くらいは凍らせてしまいますので……」
――それはサンドラが魔力の細かい操作が下手だ、というのもあるが。
そもそも、氷の魔術自体の操作が難しいからでもある。
正確に言うと、「決められた部分、決められた場所」だけに限定して凍らせるのが難しいのだ。
ある程度の大雑把な範囲ならできる者も多いが、的を絞り込めば絞り込むほど難しくなる。
「ああ、わかります。ちょっと難しいですよね」
クノンは懐かしさを覚えながら、台車に並べられた少し溶けかかった大魚に近づく。
部分的、限定的に凍らせる。
クノンも苦労して通ってきた道である。
「じゃあ凍らせていいですか?」
「はい。お願いします」
ピキピキ、ピキ
魚の表面に霜が降り、音を発てて固まっていく。
「終わりました」
あっという間だった。
巨大な魚の全体から、白い煙が噴出している。
「……氷か」
「水球」の変質で氷は使える。
だが、氷そのものを生み出す魔術は、まだ知らない。
「……これにしようかな」
水ではない水の形。
追及し甲斐がないわけがない。
――クノンの三つ目の魔術が決まった。





