478.彼女の教養
「――はあ、やっと終わったぁ……」
「――はあ……嫌な汗いっぱい掻いたわ……」
ユシータとカシスが、疲れ切った溜息を吐いている。
予定通り。
午前中で掃除を終わらせることができた。
六階から一階まで。
廊下、壁、天井。
入れなかった教室以外は、全部回ったと思う。
「カシス先輩、上階に汚れって残ってました?」
「あ? ああうん、ちょっとだけ――赤いのよ! 早く洗え!」
クノンの全身は真っ赤だ。
陽の下に出てくれば、ものすごく目立つ。
そういえば、今日もぴちゃぴちゃやられていた。
謎の何かが、上から垂らしていたようだ。
臭いからして、血液ではなさそうなのだが。
しかし、血液と同じくらい粘度が高いというか……まあ、害はないからいいだろう。
クノンは「水球」の風呂に入り、全身を洗浄し。
改めて問う。
「少しだけあったけど、掃除しといたから」
カシスが調べて。
問題の箇所が見つかれば、ユシータの「洗泡」を風で運んで汚れを洗う。
そんな合わせ業で掃除したそうだ。
サンドラの傍を離れることなく。
単独行動を取ることなく。
死に散らかすリスクを取ることなく。
「ついでに校舎から出る直前に三階から一階まで調べたけど、こっちも大丈夫みたいよ」
さすがである。
出る時は、ユシータと一緒に、我先に我先にと出口に走っていたが。
しかし。
それでも、最後までやることはやってくれたらしい。
「ありがとうございます、カシス先輩。そのスカートの短さは責任感あるレディの証明ですね」
「いや意味わかんない」
まあ、とにかく。
「これで終わりか。これで単位一点はおいしいな」
サンドラの言う通りである。
そうね、とユシータも頷いている。
「今年度最初にやったことが第一校舎の掃除とか……。
ちょっと先行きが不安になってたけど、数日で単位が貰えるならありがたいわ。むしろ幸運かも」
確かに。
これで単位が貰えるのはありがたい。
――ところで、だ。
「僕らに掃除を頼んだ先生、第一校舎の中にいると思うんですけど」
ユシータとカシスが、我先にと出口へ向かったから。
だからクノンも一緒に出てきたのだ。
だが、掃除完了の報告をしないといけない。
恐らくチェックも入ると思うし。
「私は絶対行かない」
「私も。サンドラ行ってこい」
「やだ。今回の私は働いた。一番働いた。パシリは仕事しなかった奴の仕事だ」
「じゃあユシータか」
「ふざけんな! ふざけるのは太腿だけにしとけよ! こういうのは新入りの仕事なんだよ!」
「ふざけんなブス! 私よりふっとい太腿しやがって! 何それ大根!?」
「なんだとおらぁ! グーで顔いくぞこらぁ!」
さっきまで疲れ果てていたのに。
元気なことである。
「じゃあ僕が行きましょうか?」
「「よろしくお願いします」」
ケンカしていた二人が、バッと頭を下げた。
「……どうやら僕は乗せられたようだ。イタズラなレディたちの甘い罠にね」
「甘くはなかっただろ」
それもそうか。
むしろしょっぱいかもしれない。
ちょっと苦味もあったかもしれない。
それくらいの醜態……いや、とても元気がよかった。先輩方は元気がよかったのだ。
まあ、本当に行くつもりだったから問題ない。
クラヴィスから直接依頼を請け負ったのはクノンだから。
だから。
完了の報告も、クノンがやる方がいいだろう。
始まりと終わりのけじめとして。
ただ――
「サンドラ先輩、付き合ってもらえませんか?」
「あ?」
「え?」
「お?」
クノンの言葉は、三人とも意外だったようだ。
「私も? 報告にか?」
「はい」
「なんでだよ。おまえ平気だろ」
そう、クノンは平気である。
真っ赤になったり。
たくさんの手に掴まれたり。
突然目の前に何かが出てきても。
まるで気にならない。
気にならなさ過ぎて逆に気にした方がいいんじゃないかと気を遣いたくなるくらいに。
「ちょっと気になるものを見つけまして。ぜひ見ていただきたいんです」
「気になる? ……わかった。行こうぜ」
クノンの言葉も意外だったが。
「え?」
「え?」
ユシータとカシスには。
サンドラの返答も、意外だったらしい。
クノンとサンドラは、再び第一校舎に足を踏み入れた。
早速、何かに囲まれたが。
「で、どこ行くんだ?」
二人は気にしない。
「音楽室です。こちらへ」
クノンが歩き出し、サンドラが続く。
床が軋む音。
遠くから聞こえる悲鳴。
何者かのうめき声。
狂気を感じさせる甲高い笑い声。
耳を済ませれば、いろんな怪異の音がする。
だが、一歩ずつ近付くにつれて。
謎の音ではなく、音楽が聴こえてくる。
弦楽器の音色だ。
次第に、はっきりと、心に染み入るような旋律が耳朶を打つ。
「――ウフル・シヴァンか?」
「え?」
クノンは振り返った。
サンドラが口走った言葉は、きっと。
「曲名ですか?」
「ああ。即興から生まれた二重奏用の曲だ。すげえ古いけどな。
スローテンポだろ。
年寄りどもがのんびり、酒とか飲みながら踊ったらしいぜ。
当時の音楽界は遅い曲が飽きられていてな、若い連中は古臭いって嫌ったらしい。
でも、不思議だよな。
流行りの曲やご大層な協奏曲なんかは、歴史に消えた。
でも、こういう評価されなかった曲は、意外と残ってるんだ。
アレンジが入ったり曲調を変えたりしてな。どっかでは名前さえ違うかもな」
……。
「詳しいですね」
クノンはちょっと驚いている。
まさかサンドラが知っているとは思わなかったから。
「ガキの頃に習った。こういうどうでもいいことは案外忘れねぇんだよな」
それは、わかる。
わかる、が。
「サンドラ先輩って……いえ、なんでもないです」
この人も。
もしかしたら貴族の生まれなんじゃないか。
そう思ったが、言わなかった。
ここは魔術学校。
家のことなど関係ないから。
「早く行けよ。なんか見せたいんだろ」
二人はまた歩き出した。
音楽室は、すぐそこだ。





