255.ヒューグリアへ行く準備 後編
鉢植えを取りに来た侍女フィレアとジルニを待って。
「サーフ先生、行きましょう」
聖女レイエスは移動する。
――世界一の魔女グレイ・ルーヴァ。
彼女の名を聞いて、興味を示さない魔術師はいない。
彼女に呼ばれたと聞けば、何をおいても飛んでいくだろう。
八割から九割は、絶対に。
しかしレイエスは、しばしの待ちを選んだ。
自分の用事のために。
「それほど時間が掛からなくて助かったよ……」
レイエスは感情が欠落している。
だからこその反応だった。
呼びに来たサーフの方が動揺していた。
あのグレイ・ルーヴァを待たせるつもりか、と。
世界一の魔女の名を聞いても、まるで何も思わない。
呼ばれたところで物怖じしない。
レイエスらしい反応ではある。
「――サーフ先生、こんにちは。どうしたの?」
受付から学校の敷地に戻ると。
鉢植えとともに飛んできたリーヤ・ホースとかち合った。
「こんにちは、リーヤ。ちょっとレイエスを借りるよ」
「は、はい。そうですか」
サーフの返答に要領を得ないリーヤ。
そんな彼に、レイエスは言った。
「今、受付に私の侍女がいますので、彼女と相談して残りの作業をお願いします。
私は呼ばれたので用事を済ませてきます」
「あ、うん。わかった」
簡単に打ち合わせをして別れた。
「……まだあったのかよ」
リーヤを。
というか鉢植えを見送りながら、サーフは呟く。
すでに受付の中はおびただしいほどの鉢植えが並んでいた。
にも関わらず、更に鉢植えが運ばれていく。
「彼はあと一回往復すると思います」
「マジで?」
「全て大切な植物です」
「マジか……」
まあ、研究者らしいと言えば、らしいと言えるのかもしれない。
サーフが案内したのは、入学試験で筆記テストを受けた教室だった。
中には誰もいない。
いや――
「こんにちは、グレイ先生」
佇む「黒い棺桶」。
この気配――闇の魔術は、レイエスの記憶にある。
「よく来たね、レイエス・セントランス」
影が老いた言葉を発する。
――素の彼女ではなく、老婆の彼女の対応である。
「では私はこれで……」
「構わん。すぐに済む、おれ」
出ていこうとしたサーフを、影が止める。
グレイ・ルーヴァ。
レイエスが彼女と会うのは、二回目だ。
一回目は入学試験の面接だった。
まあ、厳密には会ってはいないのかもしれないが。
もっと言えば、
「私に何かご用ですか?」
レイエスは、相手が誰であろうと気にならない。
早く用事を済ませてほしい。
そして早く帰りたい。
家に運び込んだ鉢植えたちを、適した場所に置きたい。
日当たりも気になるし、風通しも気になる。
配置を考えるだけで大変だ。
置くだけで半日は掛かるかもしれない。
でも、それもまた楽しみである。
だから早く帰りたい。
むしろこの呼び出しが邪魔だとさえ思っている。
相手が誰であれ、邪魔しないでほしい。
――などと考えていることまではわからないが。
レイエスの無関心な言動に、サーフの方がはらはらしていた。
世界一の魔女を相手にしているのに。
「おまえに頼みがあってな。ずっと機をうかがっておった」
サーフの気も知らず、影は平然と話を続ける。
「頼み? ご依頼ですか?」
「依頼だ。仕事の話だね」
影のすぐ隣に、大きな樽が瞬時に現れた。
年季を感じさせる古ぼけたタルだ。
かなり大きく、まだ子供のレイエスなら、中に入れるかもしれない。
「失礼します」
レイエスはずずいっと樽に歩み寄った。
ただの樽なら気にしなかっただろう。
魔力を感じる一品だったがゆえに、気になった。
横っ腹に刻印と、古代文字が刻まれている。
レイエスは指でなぞる。
「ア、ゲナ、ゲハル……オ、ガ」
「アゥゲ・ナルゥ・ズィガ!?」
たどたどしく読み上げる声に反応したのは、サーフだった。
肩をよせるようにレイエスの横に立ち、サーフは刻印を見詰める。
――間違いない。
「実在したのか!」
「ズィガ?」
首を傾げるレイエスに、サーフは言った。
「刻印が薄くなってるから別の文字に見えるだろ?
でも、こう書かれてる――酒を捧げよ、神の渇きを癒せ。
つまり、神の酒樽だよ。戦乱時代に失われた神器だ」
サーフは興奮していた。
これは神の酒樽。
神が作ったもので、とんでもない力を持っている。
感じられる魔力からして、間違いなく本物――
「神器ですか。なるほど。
それでグレイ先生、私への依頼とは?」
レイエスの興味のなさ。
正体がわかれば、酒樽のことなんてどうでもいいらしい。
サーフの方がはらはらする反応だ。
本人を差し置いて興奮しているくらいなのに。
「これで酒を作ってくれ」
神の酒樽で、酒を。
これは大変なことだ、とサーフは思った。
そして「でもレイエスならきっと」と思った。
思ったというより、期待した。
「いいですよ」
やはりだ――レイエスなら無関心に反応すると思った!
「なんでだよ!」
期待通りだ。
だが、全然嬉しくない。
むしろ思う。
なぜだ、と。
「なんでそんな反応なんだよ! これすごい話なんだぞ!」
平然と神の酒樽を出したグレイ・ルーヴァ。
平然と話を受け入れているレイエス。
一人興奮しているサーフ。
これではサーフの方が異常に思える構図ではないか。
サーフの反応の方が正しいはずなのに。
魔術師と酒好きなら、興奮して然るべきなのに。
「サーフ先生」
そんな冷静な目を向けるな。
反射的に言いそうになるほど、レイエスの瞳に感情はない。
「神の酒樽なら私も知っています。
その樽で作られた酒は万病を討ち、穢れを払い、一口呑めば命が一年延び。数多の神を酔わせ、数多の生物に幸福を与える。
――酒神オルグリンダムの髭を編み込んで作った神の道具、でしょう?」
諳んじるレイエスに。
今度は反射的に言った。
「知ってるなら驚けよ! 今君は神の御業の前にいる!」
そんなサーフに、レイエスはやはり無感情だ。
「信じている神が違うので」
そういう問題か、とサーフは思った。
が。
でも宗教関係に強く言うとややこしくなりそうなので、一旦落ち着くことにした。
そもそも、この話は自分には無関係なのだ。
一人だけ興奮していたところで、部外者なのだ。
――そうであっても、レイエスの反応は少々納得いかないが。
世界一の魔女にも、神器にも、ちゃんと驚けよ、と。
「面白いですね」
神の酒樽の使い方を聞くと。
ようやくレイエスが興味を示した。
傍目には「心なしか」程度だが。
「水、香草、果実を入れて蓋をし、温度管理をした暗所に五日。それで酒が完成する、ですか。
工程だけ聞くと非常に簡単なんですね」
神の酒樽。
思いっきり簡単に言うと、醸造樽の魔道具という解釈でいい。
「五日で酒が……」
とんでもない速さだ、とサーフも思う。
「これがおすすめレシピじゃ。散々試したからな、だいたいの果物や香草はもう試した。
できればこれ以外の方法で、旨い酒を作ってくれ」
紙にはびっしりと文字が掛かれている。
いろんな酒の作り方。
水、香草、果実の比率などが細かく書いてある。
――ざっとレシピに目を通すと、レイエスは話が見えてきた。
「つまり香草と果実が欲しいんですね?」
「そうじゃ。シンプルなワインでもええぞ」
レイエスの育てる植物や果実の出来がいいことを知り、だから依頼してきたのだ。
ただの果実は、だいたい試した。
だからレイエスの育てたもので新しい酒を作ってほしい、と。
「依頼の期限は?」
「遠征に出るんじゃろう? その間に一つ、これぞというのを作ってきてくれ。
出来が良ければ継続、駄目じゃったら酒樽は回収じゃ」
「報酬は?」
「できる限りおまえの望みに答えてやろう。金でもええし物でもええぞ」
「――わかりました。この依頼、受けます」
やることは難しくない。
これならできるだろうと考え、レイエスは返答した。
聖教国の法で、飲酒は十六歳からと定められている。
レイエスはまだ飲酒が認められていない。
だが、酒に強い侍女がいる。
味見なら、彼女が喜んでやってくれるだろう。
「一応確認したいのですが。
神の酒樽で作られた酒は、本当に万病に効いたり寿命が延びたりするのですか?」
「正しい手順で正しい素材をぶち込み、正しい作り方をすればな。
そうじゃなければ、少々健康にいい酒ができるだけじゃ。
じゃから安心して作れ。呑んでもええぞ、儂の注文する酒さえあれば構わんからな」
思わぬ人物から、思わぬ依頼が飛び込んできた。
今度の遠征では、この大ぶりの酒樽を持っていくことになる。
「少し邪魔になりそうな大きさですね」
「神の酒樽に邪魔はないだろ……」
――サーフは思い知った。
なぜあの場に、自分に残るように言ったのか。
「できれば家までお願いしますね」
「はいはいわかったよ」
酒樽を運ぶ、荷物持ちのためだ。





