159.キームの村にて 4
「――うん。そろそろ終わってもいいかもしれん」
ザリクス、サイハ、クノン。
そしてサトリ自身も書き殴ってきたレポートを確認する。
早朝。
キームの村で実験が始まり、十一日目。
毎日のように思いつく限りの実験をし、また推測や推論を重ねてきた。
クノンら助手たちは、サトリの深い知識に驚き。
サトリも柔軟な若い発想に驚かされてきた。
話し合いに比例するように、水槽の数も増えた。
やりたいことがどんどん増えていったからだ。まあ、枝葉が増えるのは実験にはよくあることである。
楽しい時間だった。
しかし、そろそろ必要なデータが揃って来た。
「そうですか? 早くないですか?」
「まだ試してないことも、引き続き経過を見たい水槽もあると思いますけど」
ザリクスとサイハは不満そうだ。
彼らはすでに、発案のサトリより実験に夢中だ。
まだまだ水踊虫のことを知りたい、あの虫はまだまだやれると思っている。
虫だけに無視できない存在なのだ。
「僕もまだ気になるなぁ」
クノンも同意見だった。
いや、少し違うか。
クノンは近辺の毒沼ではなく、他の毒でやってみたい。
もっと幅広く虫を試したいと思っていた。
虫だけに虫の可能性を無視できないのだ。
「気持ちはわからんでもないが、ここから先の展開は予想ができるだろ?
そもそも生息地として安定した時点で、水踊虫は水槽の環境に適応したことになる。だったらいずれ必ず毒の中和は完了するだろう。
あとは、中和にどれだけの時間が掛かるか、って問題が残るわけだが」
サトリは続けた。
「そもそも毒沼を浄化する必要はないだろ?」
毒沼は魔的素材が育つ貴重な環境だ。
その周囲に住む――キームの村は、すでに毒と共存の道を選んでいる。
毒沼や周辺の環境を利用して、ある程度の実験はした。
そしてそれは成功を収めた。
充分なデータも取れた。
だが、この実験の先にあるのは、毒沼の排除ではない。
あくまでも水踊虫を知るための実験である。
つまり、だ。
「違う場所か、あるいは違う毒か。
水踊虫の実験は、次の段階に移すべきだとあたしは思う」
――それに、あえて言わないが、サトリは若くない。
助手たちのような若者ならともかく。
サトリには、先の見えた実験を長々続ける時間はないのだ。
「……そうですか。まあ、サトリ先生が言うなら……」
ザリクスは残念そうだ。
助手としては、主導のサトリがここまでと言うなら、従うしかない。
「次って? 次の段階って? サトリ先生次は何を?」
サイハは次の実験が気になるようだ。
ひそかにお気に入りの水踊虫に名前まで付けている彼女だ。
実験云々の前に、この虫自体を気に入っているのかもしれない。
「そうだね、毒を中和する器官や仕組みを調べてみたいが。
それと並行して、解毒剤の見つかっていない毒でも中和できるかどうか。これは調べてみたいね」
そこら辺からが、サトリが本当にやりたかった実験になる。
これまでは、水踊虫がどこまで対応するか見たかった。
一般に知られる生物毒は試してきた。
今度は、環境毒を試してみた。
充分に対応できることがわかったので、ようやくスタートラインに立てそうだ。
「というわけで、明日か明後日には撤収する。充分データが取れた水槽は破棄、清掃を頼むよ」
「はあ!?」
彼女は耳を疑った。
いや、耳を疑ったというより。
「あの、お義母さん、それは本当に……?」
昼は、いつも夫の母親と二人である。
夫は弁当持参で働きに出ていて、昼は帰ってこない。
大きくなった子供たちは、もう自分たちの所帯を持っているので、同じ村に住んでいるが住まいは違うのだ。
だから。
昼はいつも八十を過ぎた義母と、五十を過ぎた彼女の二人きりだ。
そんな彼女は、義母の正気を疑った。
義母は高齢だ。
高齢らしく身体は弱ってきたが、しかし意識はしっかりしていた。
だが。
いよいよ頭まで弱ってきたのか、と思ったのだが――
「わたしゃ正常だよ。まだぼけとらん」
義母は不服そうだ。
だが、仕方ないだろう。
正気じゃないとしか思えない。
もし話が本当なら、違う意味でも正気じゃない。
どちらにしろ正気じゃない話なのである。
「お義母さん、もう一度言ってくれます?」
だが、正気じゃないにしても、看過するわけにはいかない。
万が一にも本当のことだったら、大変なことになりそうだったから。
いろんな意味でだいぶ不安げな彼女に。
義母は、なんだか腹が立つほど得意げな顔で、言った。
「魔術師様にナンパされちゃった」
やはりボケたな。
最近暑いしな。
いよいよか――彼女はそう思ったが。
「いやそれがな」
しかし。
ぼけていないと主張する義母が一から説明すると、彼女はすぐにそれを信じた。
普通にありそうな話だったからだ。
暑さのせいで倒れそうになった義母を、偶然魔術師が助けてくれたそうだ。
なんでも、遠目でもふらふらしていたので、相手は注意して見ていたのだとか。
そして倒れそうになった義母を、魔術師が助けた。
その出会いの後、お礼に昼食を出すという約束をしたのだとか。
――言葉の意味は多少違うかもしれないが、義母がナンパされたのは本当らしい。
「身体はもう大丈夫なんですか?」
「うん。水分を取ったら治った。食欲も見ての通りだよ」
それは重畳。
では遠慮なく次の問題に入ろう。
「それじゃ、この家に魔術師様が来るんですか?」
この村にはよく魔術師がやってくる。
だが、普通の村人は彼らと接する機会など、ほとんどない。
遠目に見ても、誰も彼もが綺麗な身形をしていて、皆貴族のように見えた。
そんな魔術師が、この、何の変哲もない民家にやってくるというのか。
「うん。来る。明日の昼来いって言っといた」
――大変じゃないか!
貴族がこんなボロ家に昼食を食べに来るなんて。
何もかも正気じゃない。
「わたしはもう台所には立てんからな。あんた、わたしの代わりに料理を頼むよ」
「いやいや! 魔術師様が食べるような高級な物、私は作れませんよ!」
「大丈夫だよ。あの子は細かいことは気にせんよ」
「そういう問題じゃ……!」
「あの子は、このババアをレディ扱いするような大物だよ。泥の塊でも出さない限り、食い物くらいで文句は言わないよ」
この八十以上の老婆をレディ扱い。
どんな子だ。
正気か。
――そんな会話を交わした翌日。
「こんにちは」
本当に来た。
義母をナンパしたという魔術師がやってきた。
身形のいい、眼帯をした少年である。
本当に来るのか半信半疑だった。
準備しておいてよかった。
「今日はお招きありがとうございます」
口調も所作も美しい……恐らく、やはり、きっと貴族である。
「は、あの、どうぞ、汚い庶民の家ですが、その、大したおもてなしもできませんが」
貴族と言葉を交わすことなんてなかったし、生涯ないと思っていた。
昔は、言葉一つ無礼一つで首を飛ばす、みたいな恐ろしい貴族もいたという。
学のない彼女は、緊張のあまりしどろもどろだ。
が――
「落ち着いて、レディ」
ふわりと。
少年は、出迎えに対応する彼女の手を取った。
「美しい女性に焦りは似合わないよ。どうか大輪の花のように堂々と微笑み、僕を魅了してほしい」
――あ、こいつほんとに正気じゃない、と彼女は思った。
「美味しそうな匂いだ。僕のために用意してくださってありがとうございます」
――正気じゃないが悪い子ではなさそうだ、と彼女は思った。
「魔術師様、こちらの席においで」
中で待つ義母の声に、少年は「はい」と答えた。
「それではレディ。エスコートを頼んでも?」
エスコートも何も、テーブルは目と鼻の先なのだが。
ほんの数歩先くらいのものなのだが。
「あ、はい。……どうぞ」
しかし。
眼帯や言動がやや怪しいし、俄然正気も疑っているが。
田舎の村の子供にはない上品な微笑みが、とても可愛くて。
「――ボロ家? しっかり掃除が行き届いているし、働き者がいる家だとすぐにわかりますよ」
こんな庶民のボロ家でも難色を示さず。
「――うん、美味しい。料理が上手な女性って素敵ですね」
若い頃はともかく。
今や夫も何も言わない、腕に寄りをかけた渾身の料理を一品一品褒められたり。
「――野菜の切り方一つとっても、食べる人のことを考えているのがわかるものです。料理は愛情と言いますが、これは間違いなく愛情でできていますね」
発言はぺらぺらに薄いが。
それでもとにかく逐一褒めてくる。
それが、まあ、嬉しくないというわけでもなく。
「――今日だけは僕のために愛情を込めてくれたの?」
その言葉を否定できず。
少年が帰る頃には、なんというか。
本物の紳士っていいものなんだな、と、彼女は思うに至っていた。





