130.彼はこれが本当に現実なのか疑いました
――おかしいな、夢でも見ているのか。
クノンが真っ先に思ったのは、そんな陳腐な感想だった。
昨夜は、久しぶりに何も考えずに熟睡できた。
ぐっすり快眠した。
まだその眠りの中にいるのかと疑った。
次に思ったのは「目的地を間違えただろうか」、次いで「近くの女性に確認してみよう」だった。
「そこの美しく可憐で神秘的でありながらもミステリアスでもありつつでも親しみも覚える魅力的で親切なレディ、ちょっといいですか?」
「「はい」」
何人か返事をしたが、この際それはいいだろう。
クノンにとっては女性はだいたいそうだから。例外こそ中々いないのだ。
一人男の野太い声が混じっていたのは少々解せないが。
まあ、それも、今はいいだろう。
大したことじゃない。
「どうやら僕は迷ってしまったようです。第十一校舎に行きたいんですが、ここはどこら辺になりますか?」
間違いはない、と信じている。
ほぼ一年間、毎日のように通っていた校舎だ。
目が見えなくても身体が覚えているのだ、間違いようがない。
しかし、疑って当然だろう。
今朝、第十一校舎があるはずのそこには。
見覚えのないものがあるのだから。
「ここだよ」
「ここで合ってるよ」
「ここが第十一校舎のはずだけど……」
「朝からナンパか、クノン。この状況で余裕だな」
数名の女性の声と、さっき混じった男の声がほぼ同時に返ってきた。
「……あれ? もしかしてベイル先輩?」
さっきは目の前が衝撃すぎてピンと来なかった。
今度はわかった。
この声はもう馴染んでいる。
つい昨日まで、半年近くを一緒に過ごした、「実力の派閥」代表ベイル・カークントンである。
――いや、それも今はいいのだ。
「先輩とレディたちの言うことは本当ですか?」
異口同音で肯定の返事が返ってきた。
ここは第十一校舎。
クノンが毎日のように過ごしてきた、クノンの居場所で間違いない。
では、なんだ。
これはいったい何なんだ。
「僕の勘違いですか?
ここ……昨日まで第十一校舎があった場所、森になってません?」
とんでもなく巨大な木が真ん中にあって。
周りにわさわさと緑が広がっていて。
濃い緑の匂いがして、鳥のさえずりがうるさいくらい聞こえて。
あの大きかった校舎をすっかり飲み込むほどの、大きな森になっていやしないか。
「なってる」
「なってるよ」
「私の研究室もここなんだけど……」
なっているそうだ。
魔力視でも「鏡眼」でも見たが、間違いなく、ここには森が広がっているようだ。
そして周りには、困惑する生徒が集まっている。
おーすげー、とはやし立てる野次馬もいる。
他人事だとちょっとしたイベントに感じるのかもしれない。
当事者からすれば大変でしかないのだが。
そう、周りも困惑しているのだ。
クノンと同じように。
野次馬を除いて。
「きっと誰かなんかやったんだろ。数年に一度、誰かこういうデカい失敗をやるんだよな」
そんなベイルの言葉には、余裕が伺えた。
立場上、大規模な誰かの失敗、というものに慣れているのかもしれない。
リーダー役は大変だ。
つい先日まで続いていた開発実験で、クノンも度々実感した。
――だが、それよりだ。
やらかし。
緑。
大木。
クノンの脳裏にとある人物の姿が思い浮かぶ。
行くたびに鉢植えが増える研究室にいる、女子生徒の姿だ。
「これ、大惨事じゃないですか?」
「そうだな。今回のは長い魔術学校史でも、かなりデカい事件だと思うぜ」
「ちなみに先輩はここに何か用事が?」
「後片付けだよ。例のアレ、レポートとかまとめないといけないだろ」
「あ、手伝ってくれるつもりで?」
「まあな。あの量を一人でやるの大変だろ? だから俺くらいは付き合おうかと思ってな」
それはリーダーであるクノンの役目だと思っていた。
五ヵ月、思いつく限りの実験と試験を繰り返した。
そして雑な覚書として残してきた。
それらを清書しなければならない。
まとめられる部分をまとめ、必要ない記入を削り、できるだけコンパクトにするのだ。
何せ五ヵ月分の研究の成果だ。
誰かが読むだけでも大変だろう。
もちろん、学校に提出する必要もあるので、そのレポートも作成する必要がある。
開発自体は一区切りつけたが、まだやることはあるのだ。
……あるのだが。
……残りの一ヵ月でまとめてしまおうと思っていたのだが。
「これ、僕らの研究室はどうなっているんでしょう?」
「研究室はダメだな、校舎自体が無事じゃないから。だが研究成果なら残ってはいるんじゃないか? 救出が難しそうなだけで」
謎の森が校舎を呑み込んだ。
だが、校舎自体がなくなったわけではない。
完全に瓦解はしているらしいが。
つまり、校舎の瓦礫の中にすべて埋まっている、ということだろうか。
「これって大変じゃないですか? こんな風にのんびり話してていいんですか?」
あまりのことに、クノンはちょっと感情が追いついていない。
喜びも悲しみも怒りもない。
今はただただ驚き、困惑している状態だ。感情は後から追いつくだろう。
「まあ、大丈夫だろう」
しかしベイルは平然としていた。
「――この学校の教師は世界で通用する人たちばかりだぜ? 更にはグレイ・ルーヴァもいる。
俺たちじゃどうしようもないが、あの人たちに掛かればこれくらいどうにでもなるだろ」
なるほど、とクノンは思った。
周囲で聞くともなしに聞き耳を立てていた生徒たちも納得した。
そうだ。
ここには世界一有名な魔女グレイ・ルーヴァがいるのだ。
この程度のことなら、どうにでもできるだろう。
「――アッハッハッハッハッ!!」
その頃、森になった第十一校舎の報告を受けた魔女は、大笑いしていた。





