123.発足からしばしの時が流れて 前編
――最初は下心ありきのことだった。
後にエリア・ヘッソンは、そう漏らした。
「実力の派閥」の一員であるエリアは、代表を務めるベイル・カークントンのことが大好きである。
それとなく。
いや。
思いっきりストレートに好意をチラつかせているが、当のベイルには伝わっているのかいないのか。
進展はあまりない。
嫌われてはいないと思うが、気持ちが伝わっている手応えがまるでない。
これはもういっそ接触を……
具体的には顔面と顔面の一部が接触するような事故なのか故意なのかわからないが意識せざるを得ないアレが必要なのではないか。
そんな一線を越えるアクションを考えつつある昨今である。
そんな恋する女は、一週間もベイルに会えない状況に、耐えられるわけもなく。
お菓子の差し入れを持って、第十一校舎にある研究室を訪ねることにした。
「――あ、いらっしゃい」
ドアをノックすると、「調和」のエルヴァが迎えてくれた。
ベイルは今、魔道具の開発をしている。
彼女もそのチームの一員なのだ。
同性のエリアが見ても、頭がくらくらしてくるような美貌を持つエルヴァ。
正直ベイルの傍にいてほしくない女性だが――
「今なら大丈夫よ」
しかしエルヴァは知っている。
エリアが誰に会いに来たのかを。
――というか、特級クラスでは知らない者の方が少ない。
エリアの気持ちなんて、周囲から見れば一目瞭然だから。
なんなら、付き合えるかどうか賭けまでしている輩もいるくらいだ。
不届きである。
まあ、邪魔しないだけまだマシか。
ちなみにエルヴァは、ベイルは好みじゃない。
鈍いのはまだ許せるが、鈍すぎる男は許せない。
女を傷つけても気づかない男など論外だ。
「お、エリアか」
想い人がいた。
彼らは机を寄せ合い、山のように積み上げた本やレポートを読み漁っていた。
関連しそうな情報を調べている最中なのだろう。
まだ開発チーム発足から一週間経っていない。
今のところは、動き出す前の下準備、といったところか。
「こんにちは先輩。差し入れを持ってきました」
「そうか。ありがとな。――なあ、ちょっと休憩しようぜ」
クノン、ジュネーブィズ、ラディオが顔を上げる。
――冷静に見るとすごい面子だな、とエリアは思った。
特級クラスでも有名な実力者ばかりだ。
特に、ラディオが参加しているのはすごい。
貴族相手に細工物の取引ができるほどの腕を持つ彼は、滅多なことでは誰かと一緒に活動しない。
それだけ、この開発が彼の琴線に触れたのだろう。
まあ、己の恋心を除いたとしても。
エリアでも気になる題材に取り組んでいるので、妥当と言えるのかもしれないが。
「紅茶でいいかしら?」
エルヴァが淹れてくれた紅茶と、エリアが持ってきたチーズハニートーストでしばしの休憩を取った。
発足から一ヵ月が経過した。
「あ、いらっしゃい」
今日もエリアが訪ねると、疲れた顔のエルヴァが迎えてくれた。
一週間前くらいから、目の下の隈が気になっていたが。
今や誰がどう見てもくっきりである。
「大丈夫? 疲れてない?」
「大丈夫、大丈夫。まだ家に帰る気力はあるから」
それは大丈夫なのか?
わからないが。
本人が大丈夫と言うなら、大丈夫なのだろう。
「お、エリアか。いつも差し入れありがとな」
想い人がいた。
眠そうな顔をして。
エルヴァだけではない。
チームの全員が、どこか疲れた顔をしていた。
「――ここの公式ですが、これで合ってます?」
「――……いや……減乗算ではないと思うが、自信がない……」
「――拝見しても? ……アハハッ、なんか霞んで見えるなぁ。代表これ見て」
本やレポートは、床に積まれて山となり。
机の上には様々な機材が並び出した。
「おう。……ああ、ちょっと休憩にしようぜ。俺も数字が三重に見え出した」
発足から一ヵ月。
彼らはなかなか疲労が溜まってきているようだ。
「紅茶を淹れるわ。砂糖多めに欲しい人は?」
エルヴァが淹れてくれた紅茶と、エリアの持ってきたハニーラスクでしばしの休憩を取った。
発足から二ヵ月が経過した。
「こんにちはー。差し入れ持ってきましたー」
もうノックはいらない。
対応が面倒だから勝手に入っていい、と言われたから。
エリアはさっさと、勝手知ったる研究室に足を踏み入れた。
「……お、エリアか。いつも悪いな。あんまり気を遣わなくていいんだぞ」
想い人の声がする。
だが姿は見えない。
今日も床で寝落ちしていたらしい。
本と資料に隠れて、彼の姿は全く見えない。
きっと、ジュネーブィズもラディオもエルヴァも。
この混沌なる本と資料の海に沈んでいることだろう。
「あ、エリア先輩。いらっしゃい」
と、後ろからやってきたのはクノンである。
門限があるので定時帰りしている彼は、皆よりは元気である。
あくまでも、ほかの四人よりは、だが。
眼帯をしているせいで顔半分しか見えない。
だが、それでも顔色が悪いことがわかるくらいには、疲れている。
家に帰っても、資料を漁ったり試算したり魔道具構成の計算をしたりと、やることは尽きない。
休む間も惜しんで没頭しているそうだ。
嘘ではないのだろう。
その証拠に、これだけの実力者たちと足並みを揃え、遅れを取らない。
本当にとんでもない一年生だ。
「皆ちょっと今は起きられないかもしれないので、預かりますよ。あ、それとも起こした方がいいですか?」
「いやいや。いいから休ませてあげて」
この状態を見て、わざわざ差し入れのために皆を起こすなど、できるものか。
ベイルの声もしなくなったので、彼もまた寝たのだろう。
「そうですか? 僕はまだ家で朝晩食べてますけど、エリア先輩の差し入れは先輩たちの生命線ですからね。喜びますよ」
「え?」
今なんと言った?
いや。
なんか、わかる。
エリアだって、実験や研究に没頭していたら、寝食は結構忘れるから。
「まさか、全員あんまり食べてないの?」
「どうなんでしょう。少なくとも僕は、エリア先輩の差し入れ以外を食べている姿は見てないですね。誰一人として」
まあ見えないんですけどね、というクノンの付け足した言葉は届かない。
なんてことだ。
食うのも寝るのも忘れているのか、ここの連中は。五人もいて。
――ありうるのだ。
普通はないだろう。
腹が減れば食べるし、眠くなれば寝る。
だが、それを忘れるほど没頭することが、あるのだ。
それも優秀な魔術師ほど体調管理が疎かだ、とエリアは思っている。
統計も何もない偏見ではあるが。
しかし経験則で言えば、的外れとは思わない。
「ほんと研究者って……」
夢中になれば、エリアも寝食を忘れるが。
それにしたって限度がある。
自分はここまでひどくなったことはないから。
「よかったら差し入れの頻度増やそうか?」
「僕は嬉しいですけど……エリア先輩の負担になりませんか?」
「私の負担を考えるくらいなら、早く開発してほしいな」
ベイルを早く解放してほしい。
そして何より、知り合いが過労死する現場など見たくない。
「わかりました。これからも先輩の愛情のこもった差し入れを待つことにします」
「いや君には……まあいいや。適度に休憩するんだよ」
君への愛情は入れてない、と言いかけたが。
まあ、敢えて言う必要もないだろう。
発足から三ヵ月が経過した。
「……」
エリアは思った。
もうさすがに限界だろう、と。
――ここは研究室ですか?
――いいえ、未整理の資料室です。
誰かがこの部屋を見たら、そう答えかねない。
そんな惨状が広がっている。
エリアは研究には一切口を出さないでいた。
どんなに散らかろうが。
薬品系の危険な臭いがしようが。
なんかの資料を布団にして床に寝落ちしていようが。
部外者である自覚があるので、言わなかった。
だが、いい加減もう限界だろう。
足の踏み場がなくなったこの部屋も。
まともな返事が返せない面々も。
珍しく寝落ちしておらず、机に着いている彼らは、一目見て危ないと思った。
ベイルの顔色は青を通り越して緑がかっているし。
ジュネーブィズはインクの付いてないペンでひたすら何か書いているし。
「おかしいなぁ書けないなぁああこれは夢の中かそうかそうか」とぶつぶつ言いながらニヤニヤしているし。
エルヴァとラディオは猫を撫でながら「王子様がこの地獄から連れ出してくれるのを待っているの」「俺も一緒に連れて行ってくれ」とわけのわからない会話をしているし。
いや、わけはわかるか。
時々皇子様が様子を見に来ているらしいから。
一人まだ余裕があるクノンは、来客に気づかず、「あれ? あの資料どこやったかな?」と、崩れていない場所の資料と本の山をどんどん崩して探し物をしているし。混沌の海を広げているし。
いや、あれはあれで見た目ほど余裕はないのかもしれない。
これはもはや。
研究どころではないだろう。
「――もうちゃんと休みなさい! あと部屋を少し片づけなさい!」
エリアは思った。
ここで一旦止めないと、誰か死ぬ。過労死する、と。





