私は檻から出られない
本作は、やや好みの分かれる内容となっております。
「勧善懲悪」や「一途な純愛」を期待される方は、ご注意ください。
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夫が、私の愛人を見ていた。
その瞳には、いつになく焦燥感があった。
最初は、私の愛人に向けられた不快感だと思った。
けれどその視線には、熱がこもりすぎていた。
そして、私は一つの可能性を見出した。
もしそうならば――。
***
その夜も社交界は、無責任な噂で満ちていた。
煌びやかな空間で、淑女たちは笑い合う。
微笑み、見定め、蔑む。
表情や態度から意図を読み取り、最適解を返す。
それが、貴族女性に求められる社交だった。
――こんな毎日が、いつまで続くのかしら。
幼いころから、私はどこか冷めた娘だと言われてきた。
感情よりも理屈を優先し、期待されればその役を演じる。
それは貴族の娘として、正しい在り方だった。
嫁ぎ先は、この国でも指折りの名門、バリウス侯爵家。
婚約は早くに整えられた。
婚約者は優しく、結婚後の地位は盤石。
そう考えれば、悪い選択ではないはずだった。
だが計算外だったのは、婚約者の女遊びが度を越していたこと。
社交界に出てすぐ、それを知る。
婚約者として共に夜会へ向かう馬車の中で、婚約者のヴィンセントは私の手を取り、いつものように優しく微笑み、甘い声をかけた。
「今日のセリーヌも、溜め息が出るほど綺麗だねェ」
たれ目の端にある泣きぼくろが、夜の灯りに妖しく沈む。
彼は私の指先に、羽毛のような軽い口づけを落とした。
「夜会は多くの貴族と情報交換をする場だから別行動になるけど、寂しくなったらいつでも僕を呼んでいいからねェ?」
彼はそう言ったが、いざ声をかけようとしても、彼は私を見なかった。
そんな夜会の片隅で、見知らぬ未亡人が私に囁いた。
「あなたの婚約者様は、私の部屋にもよくいらしてくださるのよ」
振り返れば、彼は別の夫人たちに囲まれ、誰にでも同じ微笑みを向けていた。
あぁ――そういうことだったのだ。
私に向けられていた優しさは、特別ではなかった。
誰にでも同じ顔をする人。
ほんの少し、良い夫婦になれるかもしれないと期待した自分が、ひどく滑稽に思えた。
その日を境に、私の胸からは何かがすっと消えた。
良い夫婦になるという幻想は捨て、夫へ視線を向けることもなくなった。
結婚後、私は侯爵家の妻としての役割を粛々と果たした。
幸いにもすぐに長男を授かり、跡継ぎを確保するという第一の義務は果たした。
夫は女遊びを隠さない。
でも、私はそれを咎めない。
侯爵家の看板を守るという点において、彼はそれなりに有能だったからだ。
夜会では、夫の愛人たちから嫌味を言われることもあった。
だが、腹を立てるほどの感情も湧かなかった。
それでも、ふと頭をよぎる。
(……私って、何のために生きているのかしら)
たまに、そんな風に憂いてしまう夜もあった。
冷静な自分と、どうしようもなく無気力になる自分。
そんな波が襲ってくるたびに、頭の中で打ち消した。
予定を詰め込み、忙しさで思考を塗りつぶす。
そうやって、私は自分を保っていた。
夜会から戻り、侍女にドレスを脱がせる。
一枚一枚、まるで薄いベールをはがすように、丁寧な手つきだった。
家のために動くこと。
それだけを、幼いころから教え込まれてきた。
価値ある「所有物」として、完璧であるようにと。
夜会のために着飾った豪奢な宝石が外されていく。
侯爵家の名に恥じない、価値ある装飾品。
貴族にとって家以上に大切なものなどないはずだ。
だから、私は間違っていない。
侍女が退室したあと、鏡に映る自分を見つめる。
私は正しい。
私は出来ている。
目の前には、からっぽの女が一人立っていた。
教えられたとおりに生きてきただけなのに、
私の中には何も残らなかった。
***
空虚を抱えたまま、私は毎日をやり過ごしていた。
そんなとき、あるきっかけで、交流が始まった公爵家の夫人がいた。
ウィンターガルド公爵令息の妻、ナタリー様だ。
彼女は天真爛漫で、夫であるウィンターガルド公爵令息の愛を一身に受けていた。
公爵家の夫人としては驚くほど率直で、時に子どもじみた一面を見せる女性だった。
そんな彼女を、愛しそうに見つめる公爵令息。それに応える彼女。
愛人がいて当たり前の社交界で、このような夫婦がいるのだと驚いた。
ある日、雑談の流れで、彼女が好んで読む恋愛小説の話になった。
「よかったら、読んでみてね。私のお気に入りの話なの」
勧められた中には、ピンクローズ・スウィートという作家の本があった。
ふざけた筆名だと思った。
けれど上位の貴族夫人から勧められた以上、無視する選択肢はなかった。
私は義務として、そのふざけた作者の本を手に取った。
恋愛小説を読むのは、初めてではない。
話題作りのために目を通したことはあるが、心を動かされた覚えはなかった。
架空の夢物語にしか思えなかったからだ。
だから今回も、同じだろうと思っていた。
描かれていたのは、ただただ甘い男女の恋物語だった。
(社交界でこんな行い、通用するはずがないわ)
一途な王族が、身分の低い女を想い続けて想いを交わす。
(こんな身分も教養もない娘が、王族に嫁げるわけがないじゃない)
冷ややかに切り捨てながら、それでもページをめくる。
めくる手は止まらなかった。
読み進めるうちに、ふと脳裏をよぎった。
――ウィンターガルド公爵令息夫妻の姿。
数年前、公爵令息と男爵令嬢が結婚した。
社交界ではひとしきり噂になった二人。
夜会で並び立つあの二人を、なぜか思い出した。
それはまるで、恋愛小説の一場面のようだった。
この物語はあの二人に似ているのだ。
特に、ヒロインの姿がナタリー様と重なった。
夢物語だと切り捨てていたはずなのに、実際にそれを成し遂げた二人の姿が浮かび、気づけばページを繰る速度が早くなっていた。
読み終えたあと、私は無言で本を閉じた。
そしてそのまま、侍女に命じていた。
ピンクローズ・スウィートの書籍を、すべて揃えるように、と。
***
昼下がり。
貴族夫人たちの上品な笑い声が、柔らかな陽光とともに部屋に満ちていた。
「皆さま、ピンクローズ先生の新刊はご覧になりまして?」
「ええ、もちろんですわ」
「今回も、ヒーローが一途で……本当に素敵でしたわね」
興奮した声が、次々と重なる。
私はその様子を、静かに眺めていた。
今日は、ピンクローズ先生の読書会だ。
私は、この頃にはすっかり先生の熱心な読者になっていた。
著書はもちろんすべて読んだ。
それぞれ読む用、飾る用、予備用の三冊を常備している。
気づけば、この集まりを楽しみにしている自分がいた。
社交界でもピンクローズ先生のファンは多く、最近では読書会や感想会が開かれるようになり、交流の輪が広がっていた。
次期侯爵夫人として、こうした場に顔を出すことは悪くない。
そして何より、私にとってこの時間は有意義だった。
「そういえば、先日の講演会。ピンクローズ先生がいらっしゃると触れ込まれていましたけれど……」
「結局、姿を見せなかったそうですわね」
「ええ。直前になって、急病だとか何とか」
「また、ですの?」
小さな失笑が漏れる。
「最近、多いですわよね。先生が来る、来ると宣伝しておいて」
「結局、主催者だけが潤う仕組みですわ」
「先生ご本人は、表に出てこない方ですもの。名前を使われていること自体、ご存じかどうか……」
誰かが、溜め息混じりに言った。
「一度でいいから、お姿を拝見してみたいものですわ」
「でも……今度の小説コンテストの審査員を務められるそうですわ」
その言葉に、場の空気がわずかに変わった。
「まあ、本当ですの?」
「出版社の正式な告知だと聞きましたわ」
「それなら、確かな話ですわね」
「ただ、やはり表には出ずに、純粋に審査のみをするそうですわ」
私は紅茶を置き、何気ないふりをして尋ねた。
「どのようなコンテストなのですか?」
「新人向けのものと聞きましたわ」
「一次審査から、すべて審査員が目を通すとか」
――すべて。
それはつまり、形式的な選別はなく、審査員自身の目で読まれるということだ。
では、選考を通過しなくても先生の目に触れられる。
作家にはファンレターというものを送るのが一般的だと聞いたことがある。
けれど、貴族女性がそんなものを送るのははしたない。
知り合いでもない間柄で突然、手紙を送ることは非礼だとされている。
私の名で手紙を送ることはできず、偽名ならとも考えたが、まだ行動に移せないでいた。
読書会が終わり、屋敷へ戻る馬車の中で、私は静かに結論を出していた。
――小説を書こう。
認知してほしい。
私という存在を。
そのために、これほど合理的で、これほど正当な手段はない。
ちょうど最近、二人目の子を身籠ったことが判明した。
妊娠中は外出が控えめになるため、執筆の時間もとりやすい。
私は実家に連絡し、連絡用の郵便物を受け取るためだけの住所と偽名を用意した。
それから、机に向かった。
小説を書き始めたのだ。
存在を知ってもらうためだけの小説は、驚くほど手が止まらなかった。
重くなっていく腹を抱えながら、私は自分の中から溢れ出す毒を、紙の上にぶちまけていった。
幼いころから抑圧された少女が、大人たちにやり返す話だ。
書いている間だけは、私は自由だった。
所有物として管理されることもなく、役割を果たす必要もなく、紙の上では私がすべてを決めることができた。
誰が絶望し、誰がどのような罰を受けるか。
登場人物の運命を完璧に管理できる万能感は、現実で味わう無力感を忘れさせてくれた。
(現実でも、自由になれたらいいのに)
私が書いた物語にヒーローはおらず、少し暗い話になったかもしれない。
ピンクローズ先生の物語とは全く違うものになったため、読んでもらえるか、酷評されないか心配だったが、どうせ偽名なのだしと思い、原稿を送付した。
筆名は、ピンクローズ先生を意識した。
私にピンクローズ先生のような話は書けなかった。
私が書いたのは、人間の醜い部分。
甘く幸福な物語の対極にあるもの。
そして、作家とは仮の姿にすぎない。
そのような意味を込めて、私は「ブラックリリー・ヴェイル」と名乗ることにした。
拍子抜けするほどに易々と選考を通過し、結果として優秀賞を受賞してしまった。
ピンクローズ先生に読まれるどころか、講評では、先生が大絶賛してくれた。
すぐに編集担当者がついたが、私の身元は明かせない。
代理の者を通したやり取りになることを了承してもらい、デビューの話は滞りなく進んだ。
小説は、ピンクローズ先生に認識してほしくて書いた。
その目的は達成した。
今は、もし許されるなら、個人的に手紙のやり取りをしてみたいと思っていた。
先生がどのような方なのか、興味もあった。
先生が初めて審査員をする小説コンテストに、先生に由来した筆名。
私が先生のファンであることは、先生には伝わったはずだ。
それを察した先生から、何らかの連絡が来るのではないかと落ち着かない気持ちで過ごしたが、結局、何の音沙汰もなかった。
小説の作風が違いすぎて、連絡しづらかったのかもしれない。
だから、二作目には恋愛要素を入れた。
先生が得意とする分野なら、親しみを持ってもらえるかもしれないと思ったのだ。
もっとも、恋愛はしたことがない。
そのため添え物程度に留め、少しだけ推理要素を取り入れた。
その本は、爆発的に売れた。
そのため担当者からは次回作を早く書くように頻繁に催促されるようになった。
けれど小説は、あくまで副業だ。
先生に認識してもらうためだけの、仮の姿にすぎない。
本業は、次期侯爵夫人としての務めである。
特に社交シーズンは忙しく、執筆ペースは年に一作がやっとだった。
バリウス侯爵家に隠れて小説の仕事をしているため、時間をどう捻出するかが、常に課題だ。
女遊びの激しい義父と夫。
いつも機嫌の悪い義母。
そんな人たちに、副業のことを説明しても理解してもらえるはずがない。
知られたら禁止されるリスクしかない。
秘密にしたまま、彼らと交渉できる材料を、私は探していた。
***
次男が無事に一歳を迎え、二人の男児を産み終えたことで、私はようやく夫婦の営みの義務から完全に解放された。
夫からいつ性病を移されるかと怯える日々も、これで終わりだ。
そして私は、次男が一歳を迎えるタイミングで侯爵家に相談し、愛人を持つことにした。
愛人といっても名ばかりで、執筆時間を確保するための口実だった。
愛人役に選んだのは、実家の伯爵家から結婚のときに共についてきた騎士だ。
無口で、余計なことを言わない男だった。
彼ならば黙って愛人のふりをしてくれるだろう。
侯爵家に報告されては困るため、実家の騎士というのも都合が良かった。
華やかな顔立ちではないが、騎士として鍛えられた身体はがっしりとしており、立っているだけで存在感があった。
夫は、一言「あいつか」と言っただけだった。
それ以上、何も聞こうとはしなかった。
侯爵家の敷地内の小さな別邸を与えられ、私はそこで、限られた時間を過ごすことを許された。
それは、自由と呼ぶにはあまりに慎ましいものだったが、机に向かう時間は確かに増えた。
愛人作戦は、成功だった。
愛人役の男に「愛人はしなくていい。別邸の中であれば自由にしていい」と告げれば、喜ぶと思っていた。
だが、彼は戸惑っていた。
残念そうにすら見えた。
そんな些細なことは気にしていられない。
私は別邸にこもっては執筆に勤しんだ。
三作目を書くにあたって、恋愛要素をもっと増やそうと考えたが、全くシチュエーションが浮かばなかった。
ただ不幸な少女が虐げられる話になった。
親に、婚約者に、世間に。
最後には、少女が与えられた苦痛を上回る罰を、できるだけ残酷に、気持ちの赴くままに加害者達に与える。
その結末を目指して書いた。
書き上げたころには、私の気持ちは高揚していた。
まとまった時間ができたためか、想定よりも早く三作目は書きあがった。
けれど、恋愛要素が足りなかった。
あるとき、アイデアが浮かばず手持無沙汰にしていると、男が話しかけてきた。
無口な男だったはずだったのに、その頻度は日に日に増えていった。
そしてついには、愛の告白めいたものを受けた。
男曰く、私を慕っていたから侯爵家までついてきたのだという。
だから、愛人に選ばれた時は浮足立ったのだと。
彼は不器用な言葉を紡いでいた。
それが本音なのか、私には分からない。
もしかすると、何か別の思惑があるのかもしれない。
だが、私はきっと恋愛に溺れることはないだろう。
主導権はこちらが握ればいい。
分不相応な要求をされた時点で、この関係を断てばいいだけの話だ。
それよりも恋愛要素を小説に取り入れたかった。
そのために、この男は使えるかもしれない。
即座にメリットとデメリットを考え、私は答えを出した。
「私の願いを叶えてくれるなら、愛人にしてもいいわよ」
「願い……とは?」
「まずは、分不相応なことは要求しないで。愛人は、それ以上でもそれ以下でもないわ」
「……はい」
「あとは、私がその都度命じたことは行動して」
「……例えば、どんなことでしょう?」
「小間使いのような仕事かしら」
「身の回りの世話をしろと?」
「この邸には侍女を呼べないから不便だったんだけど、嫌ならいいわ。この話もなかったことに――」
「そのくらいのことなら喜んで。他には?」
男は、跪いて私のドレスの裾に口づけを落とした。
忠誠を誓う仕草だ。
本心はわからない。
だが、この振る舞いを選ぶ程度には、この男は自分の立場を理解している。
「今は思い浮かばないから、その都度言うわ」
「承知しました。俺からも一つだけよろしいですか?」
「……何?」
さっそく、立場をわきまえない要求をするのかと身構えた。
「俺の名を――ブラムと、呼んでください」
今までにはなかったまなざしで、そう乞われたのだった。
その時から、男はブラムになった。
ブラムは存外に尽くす男だった。
別邸にいるときは、私の身の回りのことをすべて手伝うようになった。
お茶を淹れ、肌寒いときにはブランケットを用意し、私の手が空くのを大人しく傍に控えて待っていた。
(まるで、忠犬ね)
私が執筆の休憩でお茶を飲むとき、心なしかブラムの表情がほころんでいるように見えた。
見慣れると些細な変化が分かるようになるものだ。
許された別邸で、名実ともに愛人と二人っきり。
関係を結ぶのもすぐだった。
(……こんなものなのね)
ブラムの腕枕に頭を乗せ、天井を見上げていた。
頭の中で、夫との違いを羅列していく。
ブラムは、私が疑うほどの裏を持っていないのかもしれない。
私が企てる立場なら、もっと手練れを選ぶだろう。
けれどブラムは満足しているらしかった。
彼は今まで見たこともないくらい、嬉しそうに微笑んだ。
この日から、さらに忠犬度が増していった。
その様子を小説に取り入れることにした。
不幸な少女を救うのは、たくましい騎士。
この騎士は、想いを交わすと甘くなる。
書いていた小説に、忠犬騎士を登場させて書き直した。
数日後、本邸内で夫と顔を合わせたときのことだ。
夫は、私ではなく隣に控えるブラムに視線を向けた。
ほんの一瞬だったが、その視線が気になった。
値踏みするような、奇妙に熱を帯びた目だった。
「……何か?」
「別に」
(まさか、嫉妬? いいえ、そんなはずはないわ。私たちの関係にそんな感情は一切生まれなかった)
興味なのか、苛立ちなのか。
そのどちらでもない気配が、逆に不気味だった。
その正体が分からないまま、私は深く考えるのをやめた。
だがそれからも、時折、夫の奇妙な視線を感じることは続いた。
それから編集部に原稿を送り、しばらく経ったころ、ピンクローズ先生の新作を手にした。
侯爵家夫人の特権で、発売から最短で読めるようにしている。
この大切な時間は誰にも邪魔されたくなくて、別邸に一人で籠り読み始めた。
もちろん今回も、先生の作品は素晴らしかった。
感情が乱れたのは、あとがきを読んだときだった。
「これは……なんですの!? こんなこと、許されるの!?」
たった一人のファンへ宛てたメッセージが載っていたのだ。
こんなファンサービスは、今までなかった。
(たかが手紙を送っただけの者に、こんな特別扱いをするなんて!)
わざわざ小説を書いてまで先生に近づこうとしていたのに、ただ手紙を書いた者が、あまりに優遇されているようで腹立たしかった。
深呼吸をして自分を落ち着かせた。
感情的になっても、良いことはないはずだ。
『お手紙をくださった、親愛なるファンのJさんへ』から始まる文章を、荒ぶる気持ちを抑えながら読んだ。
どうやら、何か大事な胸の内を打ち明けたファンがいたらしい。そしてそのファンのために、先生が『こっそり筆をとった』と書いてあった。
「次回作で題材にする……という意味かしら?」
でもそうなると、『こっそり』と書くのはおかしい。
嫉妬に駆られながら何度も読んで気付いた。
「これは……」
思わず、息をのんだ。
そのあとがきでは、私の小説で使用した、手紙の頭文字を切り取って文にするという手法が取られていた。
これは、不遇のヒロインが外部の者に向けて助けを求めた時に使った手段だった。
先生が私の作品を読んでくれているという喜びを胸に、私はメッセージを解読した。
『王都の慈善市で待つ』
もうすぐ開催される慈善市というバザーがある。
――そこに、ピンクローズ先生が、来る……?
そして、このファンを題材にした小説を販売するのだろうか。
わざわざ分かりにくい形で書いているのだから、公にはしたくないことなのだろう。
そこで、何が行われるのか。
私は、必ず足を運ぼうと決めた。
そして一か月後。
慈善市からの帰路で、私は考え事をしていた。
慈善市では、桃色のバラで装飾された店があり、そこでピンクローズ先生の数量限定本が販売されていた。
私は無事にそれを手に入れた。
だが、店に先生はいなかった。
代わりにいたのは――レアリィーナ・マルセリア。
元伯爵令嬢で、学園時代は同じクラスだった。
学園在学中に伯爵家が取り潰しになり、彼女は学園から去った。
その後は、ウィンターガルド公爵領で平民として過ごしていると噂で聞いた。
「……マルセリア伯爵令嬢?」
「あら、久しぶりにその名で呼ばれましたわ。ご無沙汰しております。今は、バリウス侯爵令息夫人でしたわね」
「まさか……貴女が、ピンクローズ先生なの?」
「残念ながら、違いますわ。わたくしは、ただの代理でございます」
当たり障りのない世間話を交わしたあと、本を購入した。
そこまでを、帰りの馬車の中で思い返していた。
いろいろありすぎて、考えがまとまらない。
まず、なぜレアリィーナ・マルセリアが店番をしていたのか。
どういう繋がりかを尋ねても口を割らなかった。
彼女は、確実に先生と関わりがあるはずだ。
ウィンターガルド公爵領に保護された彼女が、ピンクローズ先生と接点がある。
どうもそこが引っかかる。
……私にピンクローズ先生を紹介してくれたのも、ウィンターガルド公爵令息の妻――ナタリー様。
だがこの二人は、学園ではクラスが別で、接点はなかったはず。
――偶然?
――でも結婚後に、公爵令息を通して、二人が知り合ったとしたら?
――二人とは……誰と、誰?
初めてピンクローズ先生の小説を読んだ時に浮かんだ、ウィンターガルド公爵令息夫妻の姿を思い出した。
マルセリア嬢が出会ったピンクローズ先生は――ナタリー夫人……?
いや、考えすぎだ。飛躍しすぎだ。
そう分かっているのに、思考が勝手に先へ進む。
合理的な結論ではない。
それでも、切り捨てるには引っかかりが多すぎた。
なぜか、ナタリー夫人の顔が頭から離れなかった。
屋敷に戻ると、私は誰にも会わず、部屋に籠もった。
心を落ち着けるために、慈善市で購入したピンクローズ先生の本を手に取った。
購入するときにマルセリア嬢から注意喚起があった。
「これは、男女の恋物語ではありませんが、それでもよろしいですか?」と。
どうやら、男性同士の恋物語らしい。
小説を書くようになった今でも、恋愛物語自体には、さほど興味はなかった。
私が好きなのは、ピンクローズ先生が描くカップルであり、ヒロインの生き生きとした性格だった。
性別が変わるということは、いつもの作風も変わるのだろうか。
一瞬、躊躇したが、二十冊限定の手作り本だと聞いて、引き返す理由はなかった。
その本を開いた瞬間、周囲の音が遠のいた。
読み飛ばした覚えはない。
なのに、ページ数だけが不自然な速さで減っていく。
胸の奥がざわついている。
理由を考える暇もなく、文字がそれを上書きしていく。
最後の行に辿り着いたとき、私はようやく本を閉じた。
しばらく、そのまま動けなかった。
物語は終わっているのに、頭の中では、まだ話が続いていた。
「……なんて、素敵な話なの」
放心したままそう呟いた。
ページを閉じたあと、ふと脳裏をよぎったのは、
私ではなく、ブラムを見る夫の視線だった。
それは、一度だけではなかった。
屋敷の中ですれ違うたびに感じたあの違和感。
きっと、あれは――。
それから数日後、私は貴族御用達の高級娼館へ足を運んだ。
ここは貴族女性のために男娼を扱う娼館だった。
「愛人を探すの」
そう告げた瞬間、ブラムの顔から血の気が引いた。
「……俺では、力不足ですか」
「ええ」
即答すると、彼は目に見えて傷ついた表情をした。
私は、新しい愛人が必要な理由を告げる。
「――こういう相手が必要なの。あなたには、難しいでしょう?」
沈黙のあと、彼は低く息を吐いた。
「……俺がやります」
「あら、無理しなくていいのよ。ここには、たくさん候補がいるんだから」
「伯爵家にいた頃から、ずっとあなたを想っていました。あなたは、俺の初恋で、唯一無二の女性です。俺に、やらせてください。だから……愛人は俺だけにしてください。お願いします」
縋るような必死さだった。
その姿を見て、私は思った。
――この男は、どんなことがあっても、私から離れない。
そう確信してからほどなくして、ピンクローズ先生のあの本は、ファンの間で大きな話題となった。
黒バラ本と呼ばれ、同性同士の禁断の恋に、多くの読者が魅了された。
すぐに写本が出回り、それすら高値で取引された。
黒バラ本は半年ごとに販売され、二作目、三作目と、回を重ねるごとに過激な内容になっていった。
三作目では、ついに愛し合う場面まで描かれた。
――そんなとき、事件が起きた。
義弟であるジュリアンが、自室で男と睦み合っていたのだ。
過度に。
その傍らには、黒バラ本の三作目が置かれていた。
いつもは飄々としている夫がその現場に居合わせ、見たこともないほど怒り狂った。
私には、そこまで怒る理由が分からなかった。
最近は黒バラ本を読んでいることもあり、私自身は抵抗が薄れていた。
だが、夫にとっては違ったらしい。
浴びせられたのは、思いつく限りの罵詈雑言。
義弟の人格を否定する言葉。
そして、相手の男への暴力。
その後、義弟は学園へも行かせてもらえず、事実上の監禁状態となった。
義母は「男を好きになるなんて、みっともない! 女に向かえない男は、出来損ないよ!」と夫と共に大声で非難した。
侯爵家当主である義父は、それを止めることもなく、静観している。
相手の男は、あれから毎日、門兵に殴られながらも、それでも門の前に現れていた。
私は思った。
(これでは、まるで黒バラ本の世界の話みたいじゃないの)
まるで、三作目の続編を目の前で見せられているかのようだった。
しかも義弟は、なぜか黒バラ本を持っていた。
あれは、二十冊限定の希少本だったはずだ。
なぜ義弟が持っていたのか。そう考えたとき、思い出した。
ピンクローズ先生のあとがきを。
――『お手紙をくださった、親愛なるファンのJさんへ』
――義弟の名は、『ジュリアン』
繋がった。
あの『Jさん』は、義弟のことだったのだ。
だが、このままでは二人の結末はバッドエンドだ。
(まあ、助ける方法がないわけじゃないのよね)
重要なのは、そこまでするメリットがこちらにあるかどうかだ。
助けた場合のコストと、得られるものを天秤にかける。
ジュリアンを助けて得られるものは、ピンクローズ先生の情報くらい。
それも、ただの熱心なファンだと言われれば、それまでだ。
(でも、この物語を悲恋で終わらせるのは、あまりにも後味が悪いわ)
できる限りバリウス侯爵家の情報をジュリアンから引き出すことで、手打ちにすることにした。
それからの行動は早かった。
ブラムにジュリアンの恋人と接触させた。
逃亡のきっかけを作るからその後は引き取るように伝えると、恋人は了承した。
学園を辞め、二人で恋人の親の領地へ身を寄せるつもりらしい。
そして、決行日。
ジュリアンの部屋の見張りの騎士は、ブラムに交代させた。
私はジュリアンの部屋に入り、静かに声をかけた。
「一度しか言わないわ。あなたを逃がしてあげる。だから、何があったのか、知っていることをすべて話しなさい」
信じられないものを見るように私を見つめ、ジュリアンは震えたまま黙り込んだ。
「ピンクローズ先生とは、どうやって知り合ったの? 会ったことはあるの?」
問いを重ねても、義弟は泣くだけで口を開かなかった。
危機において、思考を止める人間はあまりにも危うい。
だが、その脆さは、物語のヒロインにはよく似合う。
「……あなたの恋人が、毎日会いに来ているわ。門兵に殴られて、それでも来ているの。彼……このままでは、いずれ大怪我をするわ。早く彼の元へ行ってあげた方がいいのではなくて?」
「ウィリアムが!? 何でもします! お願いです! お願いっ……!」
そこから先は、私の問いすべてに答えた。
ピンクローズ先生には、数年前からファンレターを送っていたようだ。
ある時に性的指向を相談すると、先生が黒バラ本を書いてくれたのだと。
ピンクローズ先生には会ったことがないという。
「ファンレターを送れば良かったのね……」
小説まで書かなくても、良かったのかもしれない。
けれど、私が送ったところでそんな大それた相談はできなかっただろう。
ジュリアンは、途切れ途切れに語った。
夫があれほど怒ったのは二度目であること。
そして前回の相手は、もう一人の義弟だったこと。
彼は、夫の弟であり、ジュリアンの兄――バリウス侯爵家の次男だ。
さらに、義母は昔から「同性愛は汚らわしいものだ」と教えていたという。
――なぜ夫は、あそこまで怒った?
なぜ義父は、それを止めない?
私の中で、答えは一つしかなかった。
そして、ジュリアンを逃がした。
きっともう二度と、彼と会うことはないだろう。
私には確かめなければならないことができた。
私はその足で、もう一人の義弟のもとへ向かった。
彼は侯爵家を出て、王宮の文官として働いている。
本来なら、独身なのだから家から通えばいい。
それなのに、わざわざ侯爵家から離れて暮らしている。
――その違和感が、今になって意味を持った。
仕事の合間に義弟に会い、私は確かめた。
その後、侯爵家へ戻り、今度は義母から話を引き出した。
点と点が、繋がった。
私はようやく――
バリウス侯爵家の秘密を掴んだのだった。
***
その夜。
夫は凄まじい剣幕で、私の別邸の扉を開け放った。
「どういうつもりだ! ジュリアンをどこへやった」
「あら、突然どうされましたの? ご挨拶もなしに」
「とぼけるな!」
「別に、いいではありませんか。――我が家に不要な人間だった。それだけでしょう」
「……っ」
「何をそんなにお怒りですの?」
「あいつには罰を与えなければならないんだ。居場所を言え」
「本当に存じませんわ。興味もありませんし」
「なんだと?」
「それよりも、今日はあなたにちょっとした贈り物がございますのよ」
「贈り物? そんなものはいら――」
「きっと、喜んでもらえますわ」
そう言いながら、私はしなやかに歩きブラムの肩に手を置いた。
ブラムは姿勢を崩さず、まっすぐに夫を見つめている。
「今夜、ブラムをあなたに貸して差し上げますわ」
「……は? なんの冗談だ?」
「ご心配なく。ブラムも了承済みです。あなたの好きなようになさっていいのです。誰にも漏れませんわ。ここでのことは、私たちだけの秘密です」
「ふざけるな! 何を考えている!」
いつも冷静で、にこやかな夫が顔を真っ赤にして怒鳴っていた。
それでも、私がブラムに触れている手から、目を逸らすことはできていない。
「私、ずっと違和感がありましたの。あなたは、社交界でも有名な女好き。けれど、その実、特定の女性に入れあげたことは一度もない……それどころか、来る者拒まず、去る者追わず。異常なほどに女性と関係を持ち続けてきた」
「なんだ、苦情か?」
「うふふ、まさか。あるとき、私は気付いてしまいましたの。ブラムを見るときの、あなたの視線に。どの女性を見るときも冷ややかだったあなたの瞳が、熱を持ち始めたことに」
「……違う」
「ジュリアンに聞きましたよ。あなた、今回と同じように激しく怒ったことが、過去にもあったんですってね。そのときの相手も……あなたの弟だったと。彼も――ジュリアンと同じように、男性が好きなんですってね」
「違う!!」
「あなたは、彼の性的指向を知って今回と同じように激しく非難した。そして、彼は侯爵家から出て行った」
「く……っ」
「お義母様が昔から、同性愛について否定的に育てていたことも聞きました。昔から――ということに引っかかりまして、直接確認いたしましたの」
「……やめろ……」
「ふふ……どうやら、お義父様も――そうなんですってね?」
「もう、やめてくれ!!」
たまらないといった様子で、夫は叫んだ。
その声には、いつもの甘ったるい響きも、余裕を気取った尾を引く語尾もなかった。
「あら……。いつもの素敵な口調はどこへ行ってしまいましたの? 余裕がない時のあなたは、そんな声を出すのですね」
私は、彼の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
引きつった夫の頬を見つめながら、私は交渉の手を緩めない。
「お義母様は、嫉妬から同性愛を否定していただけですわ。私は、そういう形があっても良いと思いますの」
夫が義弟たちを激しく叱責したのは、同族嫌悪だ。
バリウス侯爵家の男は、同性を好む傾向があるのだろう。
それを知った義母は、嫌悪感を持った。
そして、自分の息子たちには「それは汚らわしいことだ」と教え込んだ。
呪いのように。
そうやって出来上がったのが、夫だ。
だが、自分の性的指向は変えられず苦しんだ。
本当の自分を誰にも知られないように、必要以上に女好きを演出したのだろう。
だから、私は夫に手を差し伸べる。
彼が一番欲しいものをあげる。
「……なんだと……」
「あなたは、何も悪くありません。人を愛することに罪はないわ」
「なにを……」
「私は、あなたを受け入れます。そして、応援します。だから――」
一拍、置いた。
「あなたにブラムを貸してあげますわ」
夫の喉がひくりと動いた。
「だってあなた、ブラムが好きでしょう?」
「……っ……!」
怒りにも怯えにも見える瞳の奥で、張り詰めていた糸がふつりと切れる音が聞こえた気がした。
それは、長年彼を縛り付けていた呪いが解けた瞬間だった。
「でもブラムは私の愛人ですので、貸せるかどうかはその都度、要相談ということでいかがかしら? 私ね、あなたに自由を差し上げたいの。心の自由を」
「……その対価は、なんだ? お前は、何を求める?」
私はゆっくりと微笑んだ。
「私にも、自由をいただきますわ。行動の自由を」
夫はおそるおそる、震える指先をブラムへと伸ばした。
触れるのをためらうような、渇いた者が水を求めるような、切実な手だった。
夫の瞳には、あのときと同じ焦燥感が宿っていた。
ブラムはその手を取り、二人は寝室へ消えていった。
彼らが寝室に入ってから、私はピンクローズ先生の本を手に取り、読み始めた。
何度読んでもそれは、極上の物語だった。
その夜を境に、取引は繰り返されることになる。
夫に愛人を差し出した夜はいつも、私は彼を寝台へ招き、その冷えた身体を優しく抱きしめる。
「……今日もよく頑張ったわね、ブラム」
私は彼の濡れた頬を、壊れ物を扱うような手つきで撫でた。
「貴方は私の、一番の味方よ。……これからも、私のためにその役割を全うしてちょうだい。それが、私たちが共に生きていく唯一の方法なのですから――愛しているわ」
「……あ……」
ブラムが、縋るように私の服を掴んだ。
彼は気づいたのかもしれない。
この生活を続けないと、私からの愛は得られないことに。
そんな愛など、存在しないことに。
彼は絶望に顔を歪めながらも、私の体温から離れることができない。
その首輪に、自ら喉を差し出した。
***
「やはり、そうだったのね」
ピンクローズ先生の新刊を読み終えて、私は一人呟いた。
ナタリー夫人に伝えた、外国の逸話。
その話が、そのまま本に載っていたのだ。
――ただし、一点だけ。
私は敢えて、誤った内容を伝えていた。
そしてその誤りは、同じ形のまま、なぜかピンクローズ先生の小説で語られていた。
ピンクローズ先生の正体は、ナタリー夫人だ。
彼女は本当に、ただただ幸せだから、あんな光り輝く物語を書けているのだ。
彼女が描くのは、陽の下で咲く桃色の薔薇のような物語。
私には一生、ピンクローズ先生のような物語は書けないだろう。
でも、それでいい。
私にしか書けないものを書けばいい。
私が綴るのは、彼女の知らない、泥の中に咲く黒い百合。
だから私は、今日もペンをとる。
そして自由に世界を描く。
おかしい。
私は、自由を勝ち取ったはずなのに、さらに歪んだ檻の中にいるような気がする。
……そんなはずはないわ。
だって、私はいつだって、正しいのですもの。




