竜の伝説』の絵本
『青の祭り』の初日のサーカスは午前と午後の二回だけ開催される。初日だけ午後の部はまだ明るい内の十五時半から始まり、明日からはそれが十八時の開演になるらしい。だから今日の午後は幼い子を連れた親達が優先されたのだという。
これに漏れず、アルトを連れたクリス一行もこの時間のチケットが取れた。
丘を下って行きながらも、街の華やかさと賑わいが感じられた。目に入る景色の中に鮮やかな青いリボンとオレンジ色のリボンが見えている。窓辺にもたくさんの青い花が咲き、ガラスの向こうには青い物がぶら下げられたり置かれたりしていた。
「お昼は屋台で食べよう。いろんな美味しいものが出ていると思うからね」
「はい!」
オルガは思わず声を張ってしまった。行動の隅々に嬉しいと言う気持ちがこもってしまう。
「ねぇ、博士。僕は屋台に出ているお菓子が食べたい」
アルトは街中の中央広場に向かいながら片方の手をクリスと繋ぎ、もう片方の手をオルガと繋ぎ、真ん中で満足そうに笑った。それを見てクリスは苦笑する。
「まだお腹は空かないだろう? もう少し歩き回らなければ空かないよ」
「お腹が空いたんじゃないよ。お菓子が欲しいの!」
「どうせレイチェルのクッキー狙いなんだろう?」
「うん! 美味しいからね、レイチェルのクッキーは!」
自分が作った訳でもないのに、アルトは嬉しそうにそう言うと、自慢げな顔をした。そう、母の作るクッキーは美味しいのだ。アルトはよく分かっているじゃないか。そんな気持ちでオルガは軽く同意した。
「確かに美味しいよね」
だがその言葉にクリスはオルガを不思議そうに見下ろす。
「オルガはレイチェルの作るクッキーを食べた事があったっけ?」
「あ……えっと……」
途端にオルガはつられて言ってしまったことを後悔した。そうだ、ここではまだ食べた事がない。それを忘れていた。
オルガが何か言おうとすると、先にアルトが口を開いた。
「レイチェルが作るものは全部美味しいから、食べなくてもわかるよ。ね、オルガ」
アルトはニコニコとオルガに笑顔を見せる。
多分、アルトは狙って言った訳ではないだろう。でも、オルガは自分の犯したミスをフォローしてくれたようで、ちょっとだけ救われた気がした。
「うん、絶対にそうだよね」
露骨にホッとしたのを見せないように、オルガはぎこちなく笑った。クリスに視線を向けるとニヤリと笑っている。どうやら見栄を張ったと思われたようだ。変に勘繰られるよりは余程良い。
オルガはそのまま「ははは」とわざとらしく笑った。
中央広場に向けて歩く内、広場が近くなるに連れて人が多くなって来た。通り過ぎる人々は少しだけお洒落をしていて誰もが笑顔だ。まだ午前中だというのに浮かれている人が多いのだろう。そう思うもののオルガ達一行も同じようなものなのだ。
街の中の街灯には青いリボンが結ばれ、隣の街灯とそのリボンで繋がっている。途中途中にオレンジのリボンも見えて繋がる部分にはガラスの綺麗な飾りで止められていた。
十数年後にはあのガラスの飾りを父親であるエリックが受け持つ事になる。そのガラスの飾りを眺めていると隣で眺めていたクリスが口を開いた。
「あのガラスの飾りをよく見てご覧。竜の形をしているだろう?」
「……はい」
オルガはリボンとリボンを止めている物が竜の形をしているのを見つめた。翼のある竜と翼のない竜がいる。
——ソラとフィールだ……。
父が行っていた『青の祭り』の飾り付けは、この竜達をぶら下げていたのだ。そういえば熱心に研究もしていた。脳裏にはファイルに閉じていた竜のスケッチが思い浮かんだ。父はまだこの時はガラス職人ではない。今ぶら下がっているのは別な人の作品だ。でも何だか気持ちが揺れた。
見上げた先の竜はキラキラと輝いている。その時クリスがまた声をかけてきた。
「オルガはこの街の『竜の伝説』を知っているかな?」
「あ……えぇっと、少しだけ……」
「そう? 詳しくは知らないの?」
「……はい」
「そうか……修道院では教えないのかな……」
オルガは嘘をついた。本当は大好きで何度も読んでいたあの絵本の事を、今はクリスに話さない方が良い気がする。何処で聞いたのかを尋ねられて、訳ありだと知っていても自分がどこから来たのかが分かってしまうかもしれない。
「じゃあ、少しだけ『青の祭り』の事を話してあげよう」
中央広場に着くまでの間、クリスは『青の祭り』の事を話し始めた。
昔この街には二匹の竜が住んでいた事。その竜達が死んでしまい、鎮魂のために祭りが行われている事。簡単にではあるがアルトにもわかるように話してくれた。
「ねぇ博士、竜って空を飛んだの?」
「うん、翼のある竜と翼のない竜が居たんだ」
「ほら、ぶら下がっている飾りの竜には翼があるよ」
アルトの指差す方向には、リボンの間にソラを模したガラス飾りの竜がある。
「あぁ、よく気が付いたね。その次にぶら下がっているのは翼のない竜だよ。この国には二匹の竜がいたんだよ。だから二匹の竜を偲んで交互に飾るんだ」
オルガはその竜達がどんなに人々に愛されていたのかを知っている。
ミランダとジークを背に乗せて空を飛んだ事を知っている。
フィールがミランダを手の中に入れて城の外へ出るために手伝ってくれた事も、竜達が人との交流を喜んでいた事も知っている。
オルガは下唇を内側に引き込んだ。少しだけ目頭が熱くなる気がした。でも、こんな所で泣く訳にはいかない。噛む力をちょっと強くしてその衝動に耐えると、ゆっくりと周りを見た。
今日はとても情緒が不安定だ。『青の祭り』の夜の出来事でここへきてしまったのだから仕方がないとはいえ、やはりここへ来たきっかけのあの夜の事を考えてしまう。今日、何もなければ良いけれど……。
オルガの心配をよそに、クリスとアルトは竜の話をしていた。そして不意にクリスが思いついたように言った。
「そうだ。今日は二人に一冊づつ絵本を買ってあげるよ。『竜の伝説』はこの街にとっての歴史の一部だと言ってもいいお伽話なんだ。持っていて損はないだろうしね」
「……あ、でも、良いんですか? アルトだけに買ってあげた方が……」
「どうして? 君も好きな時に読める方が嬉しいだろう?」
クリスは柔らかく笑った。いつもこの笑顔に騙される気がする。でも、自分のためにあの大好きな絵本を買ってくれるというクリスの気持ちも嬉しい。
「……はい、嬉しいです」
「じゃあ決まりだね。まずは本屋さんへ行こう」
中央広場へ行く前に、三人は繁華街にある小さな本屋さんへ行った。そこはオルガもよく知る本屋さんだった。本を買う時には両親とよくこの本屋を利用していたのだ。オルガがよく使っていた頃はレジには優しいお姉さんが居たが、今は優しそうなお爺さんが居る。
クリスは奥にある子供の本を揃えている場所へ行くと、その中から『竜の伝説』を二冊取りレジへ向かった。
「プレゼントなので、別々の袋に入れてもらえますか?」
「あぁ、『竜の伝説』だね。この子たちにあげるのかい?」
「はい、まだ知らないというので」
「そうかい、じゃあおまけに紙の竜の飾りも入れてあげよう。結構人気があるんだよ。栞の代わりに使うといい」
お爺さんは紙で切り抜かれた翼のある竜とない竜を一枚づつ袋に入れると、それぞれオルガとアルトに手渡した。
「ありがとうございます」
一番好きなお話をクリスにも買って貰えたのがなんとも嬉しい。オルガが何度も読んだ絵本は小さい頃から持っていたものだが、今のこの本はクリスが買ってくれたのだ。
——大事にしよう。
ギュッと胸に抱きしめて横を見下ろすと、アルトも嬉しそうにオルガを見上げていた。
「お揃いの絵本だね」
アルトはお揃いである事が嬉しいのだ。でもクリスに買ってもらった事を喜んでいるオルガも、理由からすると同じようなものかもしれない。
本屋を出た三人は中央広場に向かった。
「今度はレイチェルのお店でクッキーを買ってね」
アルトはもう次のおねだりをしている。クリスは「はいはい」と言いながらアルトの手を握った。もう片方の手をオルガに差し出すがそこには絵本の袋が握られている。アルトは困ったように顔をしかめた。
「僕、オルガとも手を繋ぎたいんだけど……」
オルガは笑いだした。アルトの困った顔がなんとも可愛いのだ。
「アルトの本は私が持っていてあげるよ。そうすれば手をつなげるでしょう?」
素直に本を渡すアルトの手を握り広場へと入っていくと、いつもと同じようにサーカスのテントが真ん中にあり、それを取り囲むように屋台が並んでいた。そして隅の方にはテーブルと椅子が置かれ屋台で購入したものを食べる事ができるスペースがある。
——あぁ、ここは何も変わらない。
このサーカスのテントも屋台も喧騒も『青の祭り』そのものだ。
「向こうに『ジョナサンのパン』の出している屋台があると思うんだ。クッキーを買いに行こう」
クリスの指差す方にたくさんの屋台が並んで見えている。三人は確認しながらレイチェルの姿を探した。人混みも多く、なかなかに進むのが大変そうだ。
立ち並ぶ屋台を見る人達と先に進みたい人達の間には流れのようなものができていて、屋台に近いところでは動かない人の群れがあり、サーカステントの近くでは左右二重に動く人の群れがあった。流石に初日は人が多い。その中をもみくちゃにされながら進む。
「あ、ほら、あそこだ。あそこにレイチェルがいるよ」
そのクリスの声を聞いた時、オルガはここから抜けられるとホッとした。やはり背の高いクリスが先に屋台を見つけたようだ。オルガの視線からは人しか見えない。
「いいかい? この人の流れから抜けるからアルトは僕が抱っこをするよ」
少し大きな声でそういうとクリスはアルトを抱き上げた。そして片方の手をオルガと繋ぎ、人の流れから抜けて行く。あの細い体の何処からこんな力強い力が出るのか不思議に思うほど、クリスはアルトを抱き上げオルガを先導して歩いて行く。
オルガは今買ってもらったばかりの絵本を抱きしめて人混みの中を進んだ。
ここからまたゆっくりと話が進み始めます。




