王女の未来
それから暫くの後、婚姻の準備も整いかけた頃、気が付けば世の中が不穏な状態になっていた。北方の国ルーディアが戦を起こし、次第に南下しながら巨大な勢力になって来たのだ。
ルーディア国がリングレントの北西にある切り立ったハボニア連山のその向こうの国バロスにまで迫ってきた時、ディオニシス王はルーディア排除の協力を申し出た。しかし、その返事を待たずしてバロス国はルーディアの手に落ちた。
それからひと月も経たぬうちに、ルーディアの王ゼファールから密使が来た。ルーディアは一月足らずでバロスを掌握したのだ。バロス国が陥落した事で次はリングレントだと誰もが思っていた。
ルーディアの使者が来た次の日の正午過ぎ、王女はディオニシス王の部屋に呼ばれた。父の執務室には母と兄達、そして主だった武官と文官が揃っていた。父の執務室はそんなに狭くはないのに、この時は嫌に狭く感じた。そして、皆一様に重い表情をしている。
「お呼びでしょうか?」
王女は真っ直ぐに父を見た。父の顔色は悪く、昨夜よく寝ていない事が見て取れた。同じ様に母の顔色も悪い。何かよく無い事が起こっているのだ。王女は、漂う張り詰めた空気に呑まれないよう、父の言葉を待った。
「……昨日、ルーディアからの使者が来た。その事は知っておるな」
「はい」
「昨夜、皆で密使の内容について検討した」
父ディオニシス王はそこで口を閉ざしジッと王女を見詰めた。
「其方はルーディア国のゼファール王の元へ輿入れしてもらいたい……」
王女はただ父を見つめ直した。そして二、三度瞬きをした後、ゆっくりと口を開いた。
「仰る意味が解りません……」
アリシア王妃はこれ以上娘の顔を見る事が出来ないのか、目線を下ろした。だが父王は王女の目を静かに見詰めている。
「……私は隣国ルガリアードのジークリフト王子の元へ嫁ぐ事が決まっております。あの方以外に嫁ぐつもりは御座いません」
王女は自分の意思を強く示し断固とした態度で断った。冗談ではない。ジークリフト以外の者に嫁ぐ気は無い。何を言っているのか。
王女は辺りを見回した。皆一様に辛い表情をしている。
「下がらせて頂きます」
王女はそのまま踵を返すと扉に向かって歩き出した。イリスが静かに着いてきた。
「待て、これは命令なのだ。お前に選択の余地は無い」
父王の言葉が被さって来た。扉に手をついた王女は振り向きその部屋にいる者達を睨み付けた。ここから逃げなければ……。
「それでもお断りいたします!」
そして部屋を出ると足早に歩き出した。猛烈な怒りがフツフツと湧いてくる。突然なんだと言うのだ。こんな事があって良いのか? 皆、ジークリフトとの婚姻をあれ程喜んでいたでは無いか。なぜ急に掌を返すように敵国の王の元へ嫁げなどといいだすのだ。
突然の命令……王女は奥歯を噛んだ。ルーディア側から言って来たのだ。それは間違いない。突っぱねられない条件を出されたのだろう。
その説明なしに命令するなんて……そう思って次の瞬間王女は首を振った。
(違うわ……)
説明を聞いてしまったら断れなくなる。だからあの部屋を一刻も早く出ようと思ったのだ。
あてもなく歩き出した王女は唐突に肩を掴まれた。振り向くと下の兄のカイル王子だった。その後ろにエリスロットが続いている。
「ソル……話を聞いてほしい。別室を用意した。このままいいか?」
カイルは感情の見えない顔をしていた。強張った顔のまま王女が頷くと、カイルは先に立ちイリスは王女の少し後ろをついて来た。
中庭の見える部屋に入った後、カイルは侍女にお茶の用意をさせ自分たち四人以外を部屋から出した。聴かれてはならない事なのだ。
「ソル……父上の言葉には驚いただろう……だがこれには訳がある。お前は知っておいた方が良いとの判断で伝える事にした。それを聞いた上で、自分で判断して欲しい」
カイルの言葉は王女の頑なな心に更に鎧を被せる様な気がした。王女の瞳を覗くカイルの眼は辛そうに見える。
「兄上は政略結婚相手との間でなかなか心の壁を取り除けず、私は町娘に恋をし結ばれることはなかった。お前だけは自分の想う人と結ばれて欲しいと思っていたのだ……それは分かって欲しい」
カイルはそう言って寂しそうに笑うと、そっと手を伸ばし王女の頭を優しく撫でた。
「カイル兄様……」
カイルは頷いた。
「ルーディアのゼファール王は、お前か竜のどちらかを渡すよう言って来た」
王女は眉間に皺を寄せた。
「お前は知らぬかもしれぬが……竜はここ以外では生きていけない。ディオニシス一世がハボニア山を切り崩しバロスへの街道を作った時、何十人分の働きをする竜達に手伝って貰おうとしたが、寒さで徐々に動けなくなったのだと聞く。少し寒さに強いソラでさえ数日で根を挙げたそうだ。つまりここより寒い地域には連れて行く事は出来ぬのだ……彼らが死んでしまう……」
王女はカイルの目を見つめた。
「私なら生きていけると?……」
カイルは悲痛な顔で頷いた。
「お前なら、生きていける……それは確かだ。生きて行けるのであれば、助け出す事も可能であろう。ルーディアの使者への返答は実質五日しかない。一度お前を輿入れさせると返答しておき、時間を稼ぎたいのだ」
王女は目を閉じた。自分と竜達のどちらかを選ばなくてはならなかったのだ。
「皆ずるいですわ……わたしとてジークリフト様無しでは生きて行けないのに……」
カイルは目を伏せた。これは選択肢を設けているように見せての強制だ。
王女の脳裏にフィールとソラ、両親と兄達、そしてジークリフトの顔が浮かんだ。ここを離れる時はジークリフトの妻になるためだと思っていた。街の人々の事を思った。親しくなったアナベルやべラティス、鍛冶屋のアダムに肉饅頭屋の男の子、そして兄が未だ忘れる事は出来ていないカイルの慕う女性。ソラの背に乗った時に見えた街の様子は平和そのものだった。
王女はゆっくりと顔を上げた。カイルを見つめ息を吸う。
「わたしがゼファール王の元へ輿入れすれば、この国の安全は守られるのですか?」
「実際にはわからぬ……友好的に交渉に入った国が無い」
カイルの表情は険しい。それが意味するものは分かっている。王女は一度目を伏せそれから口角を上げた。
「もう皆決まっている事なのですね……」
「……」
カイルは何も答えなかった。
「1日だけ足掻いても良いですか? 返事は明日いたします」
王女はカイルに背を向け下を向いた。
「わかった……皆にもそう言っておく」
立ち去りかけてカイルは王女を振り向いた。
「私は……本当にお前を心から祝福したいと思っていた。許してくれ……」
王女の心に虚しさが広がって行く。カイルが去った後、王女の表情が抜け落ちたように変化した。
「無理に笑う必要はなかったのですよ」
イリスの言葉が痛い。だが王女はまた笑って見せた。
「部屋へ戻ります」
力無い王女の声にイリスが従って扉を開けた。
「どこへ行こうと、私は貴女に着いて参ります。ご案じなさるな」
せめてもの慰めだと思われたが、エリスロットの言葉は嬉しかった。
幸せな夢と言うものはすぐに冷めてしまうものなのかも知れない。叶わないから夢なのだ。泣きそうになる自分を抑えようと王女は大きく息を吸った。
「これは定めなのでしょうね」
自分の未来は明るいと思っていた。実際それが違ったのだ。
両肩に重い石が乗ったように動きが鈍くなっていく。今からジークリフトに手紙を書かなければならない。事のあらましを伝えなければ、ジークリフトは結婚の取り止めを納得しないだろう。王女はのろのろと部屋を出ると遠回りをして自室へ戻った。
部屋にはシリルが気を揉みながら待っていた。
「姫様、ジークリフト様との婚約が取りやめになったと伺いました」
王女付きの侍女にも詳しい理由は伏せられているのだろうか? 王女は小さく笑った。
「違う方の所へ嫁ぐようお父様に命令されてしまいました」
王女は何でもない事のように受け流そうとした。だがシリルの顔が見る見る変化していくのがわかった。
「何故です? 姫様はジークリフト様と……何を馬鹿な事を……姫様はそれで良いのですか?」
王女は小さく溜息をついてシリルを見詰めた。
「良いも何も……命令ですから従わねばならぬでしょう」
シリルはやり切れない表情のまま目を伏せた。そのシリルに王女は少し砕けた物言いで笑った。
「わたし、手紙を書かねばならないの……少し一人にしてくれる?」
シリルを先頭にエリスロットもイリスも静かに出て行った。
王女は机に手をつくと震えそうになる肩を抑えた。今この瞬間ジークリフトに抱き締めてもらいたかった。
「……嘘なら良いのに」
思わず言葉が漏れた。ジークリフトが恋しい。やっとジークリフトと結ばれると思っていたのに……。
「……」
声にならない声が漏れたように思った。もっと沢山会いに行けば良かった。もっと沢山触れれば良かった。もっと沢山話をして、もっと沢山口づけをすれば良かった。
(叶わぬ夢になったのだわ……)
ジークリフトが笑う時に、握った右手を口元にやる仕草が好きだった。王女を見つめる物言いたげな目が好きだった。抱きしめる時の包み込む優しい腕も、彼の匂いも、王女を思い遣る落ち着いた声も、少し意地悪な悪戯な物言いも、彼の全てが大好きだった。
「あなたの妻になれると思っていたのに……こんなに……簡単に、貴方は手が届かない人になってしまうのですね……」
聞いてくれる相手は居ない。それよりも聞こえた自分の言葉に今更ながら愕然とする。
王女は必死に自分の感情に抵抗した。息を整え、大きく息を吸う。
どのくらい時間が経ったのだろう。気が付けば窓の外は暮れる直前の淡い空気を纏い、空の低い位置に半月が見えていた。
ジークリフトに手紙を書かなくては……そう思いつつ、何も無い机の上を見つめそのまま動けない。体が芯から冷えている様に思える。
(私は……)
ルーディアへ行くのは人質としてだ。必要ならば簡単に殺されてしまうだろう。死はいつでも間近にある事を覚悟しなければならない。
視線の先にジークリフトを想い、王女は椅子を引きゆっくりと座った。引き出しから紙を取り出し、インク壺にペンの先を付ける。でも、そのまままた動きを止めた。出だしは何と書けば良いのだろう……別れの手紙など今まで書いた事がない。ジークリフトにどう伝えればこの状況をわかってくれるのだろう。
王女は手紙を書くのが好きだった。その時間を相手を思いながらペンを走らせる。その時間がとても大切だと思っていた。
でも今は、どう書き始めるのが正解だろう。そう思いつつ目を閉じて心を落ち着けた後、ペンを握り直し、王女は想いの丈を全て込めてジークリフトへの手紙を書き始めた。
今、自室の窓から夕暮れの半月が見えている事を書く。同じ時間ジークリフトは何をしているのだろう。そう思いながら、王女自身がどれだけジークリフトの事が好きなのか、どれだけ愛しているのか、どれだけ一緒に居たいと思っているのか。そして、ジークリフトと過ごした日々の貴重な時間がいかに自分の支えであるのか。
この先も共に過ごしたかったその想い。そして今、自分はリングレントの王女として竜達と国の人々を守るためにルーディアの王ゼファールの元へ嫁がねばならない事。
どんなに嫌でも行かなくてはならない。国を背負う者ならば選ばなくてはならない答えをジークリフトは知っている。
『お前なら生きていける……』そう言ったカイルの言葉が恨めしく思える。しかし、そこに打開策もあるのではないだろうか。
(そう……何があろうと生きるわ、私は生き抜いてみせる。ジークリフト様にもう一度逢うまでは絶対に諦めない)
もう一度ジークリフトに会いたい。その気持ちを胸に、王女は思いやり深い言葉を添えながら書き連ねた。
そして手紙の最後はこう締めくくった。
『私は貴方にお約束いたします。
実際は人質としてこの国を離れますが
何が起ころうと私は決して生きる事を諦めません。
最後まで足掻くだけ足掻きます。
正しく生きていればきっと私の行いを神が見てくれているでしょう。
そうすれば、またいつか、きっと貴方に会わせ下さると信じています。
私が生きている限り、貴方は私の支えなのです。
またいつの日かお会い出来ますように……
心からの愛を込めて……』
想いを込めて王女は手紙を認めた。
本当は自分の事は忘れて誰か別な人と結ばれて欲しいと書こうと思っていた。でもそれは出来なかった。それを書いてしまえば自分は崩れてしまう。
ジークリフトの自分では無い未来の花嫁に申し訳ないと思う。彼の心に傷を付けてしまうこの行為をどうか許して欲しい。自分の事を忘れないでいて欲しい。それは単なる我儘なのかもしれない。でも王女は強くそう思った。
王女の書いた手紙はその夜のうちに、リングレントの密書と共にルガリアードへ運ばれて行った。
翌日、王女は自らディオニシス王の執務室へ赴いた。昨日の様に多くの人がそこに居た。気持ちはもう落ち着いている、王女は部屋の人々を見回した。
「昨日の要請を受け入れます」
王女はただ一言静かに言った。
「……承知してくれたか」
ディオニシス王もその一言だけを言うと周りにいた人々に気兼ねする事なく王女を抱きしめた。
「すまないソル……だが決してお前をそのままにはせぬ……」
父が家臣たちの前で王としての感情ではなく父としての愛情を見せたのは初めての事だった。そして父の無念がその言葉にあった。命令だと言いながら、父は自分の事を不憫に思ってくれている。父の愛情を感じながら、どうしようもない現実を想う。
「はい」
王女は静かに返事をした。
だがこれが当たり前なのだ。思う人と結ばれる王族の姫など殆どいない。王女の父と母、ルガリアードのラディウス王とブルーナ王妃、この二組の婚姻は大恋愛の末の婚姻だった。それが特別なだけだ。
巨大な敵にどうすれば対抗出来るのか。父や兄達はこれからあらゆる抗争を練らねばならない。これから直ぐにルーディアの使者へ返答し、輿入れの期間と時期を決めなくてはならない。
「これから準備がありますので、わたくしはこれで下がらせて頂きます」
王女が部屋を出るとアリシア王妃がすぐに追って来た。
「後でわたくしの部屋へ来なさい……良いですね。必ず来るのですよ」
「はい」
王女は返事をしたが頭では別の事を考えていた。あの手紙はもうジークリフトに届いただろうか。早馬でルガリアードのリナリス城までは二日かかる。とすればまだ彼の手には渡っていないだろう。
ジークリフトがまだこの事実を知らない中、自分は他国へ嫁ぐ準備をしなければならない。
廊下の窓から外を見た。手入れされた庭とその向こうに街並みが見えさらに奥に城壁が見える。ここを守らねばならない。自分はその定石なのだ。
部屋に戻るとリストを片手にシリルが待っていた。
「婚姻の準備はもう殆ど出来ていますから……選別いたしましょう。持って行くものは最小限に留めた方が良いと思うのです。山越えをする事を考えると家具類は持ち出す必要はないと思いますし……着る物と日々使う物、それから姫様がこれだけは手元に置きたいと思う物で差当りは問題無いでしょう」
シリルは優しく言った。
「準備していた着る物の中から、花嫁衣装関連の物は抜いておきます。あの五つのドレスは置いて行きましょう。良いでしょうか?」
喉の奥で何かがうごめいたような気がした。でも必死にそれを抑えると王女は笑った。
「そうね……新たに作り直すのは時間がないけれど、今までの中から代用出来る物を選んでください」
あの衣装はジークリフトとの婚姻用に準備したものだ。移動用と婚姻の儀式用、それから妻として彼と過ごす日常用の新しい五つのドレス。あれは彼の元へ行くために時間をかけて作ったのだ。彼のためのドレスをルーディアへ赴くのに着たくはない。シリルは王女の気持ちをよく理解していた。
「早ければ、明日にはルーディアの使者は出発するでしょう。姫様の出発はルーディア側の返答を聞いてからになると思われますので……その間に連れて行く侍女や側近の選別が必要になると思います」
シリルがこれからやる事を淡々と伝え始めた。王女は部屋に居るシリル、エリスロット、イリスの顔を順々に見た。
「わたしは……貴方達が居てくれたらそれで良いわ。持って行くものの選別は任せます」
何も要らない……そんな気持ちになっていた。欲しいと思うから掴んだものが指の間から零れ落ちていくのだ。それなら、何も要らない。
窓の外に青い空が見える。外は良い天気だ。
「今日はソラは居ないのかしら……」
王女はその空を見つめ独り言のように呟いた。
「……姫、ソラとフィールに会いに行きましょう」
不意にエリスロットが言った。王女がエリスロットを見ると微笑んでいる。
「でも準備が……」
「良いでは無いですか」
エリスロットは不敵に笑った。
「今、準備は任せると言ったばかりでしょう。シリルに任せておけば、すべて滞り無くやってくれるのは経験済みでは無いですか。姫がやる事は何もないのですから……邪魔になるだけです」
邪魔と言われて王女は少しムッとした。
「わたしの準備ですよ」
「ゴタゴタ言わずに行きますよ……それとも会いに行きたくないのですか?」
王女は床に目を落とした。
「……竜達には会いたいです」
「では、行きますよ。ほら立って!」
強引なエリスロットの言葉に促され、王女は立ち上がった。イリスが吹き出しそうになっている。気が付くとシリルが上着を準備していた。
「イリス、何ですか?」
「いいえ……流石だと感心しただけですよ」
歩き出すとイリスが小さく吹き出したのが聞こえた。膨れっ面のまま王女は部屋を出た。
部屋を出て歩き出すと憂鬱な気持ちが少し軽減したように感じた。そのまま廊下を進み庭に出る。陽の光が眩しいが王女はそのまま歩き出した。
「今日、竜達は城の現場に居るそうです。ソラはいつものように城の現場と石切り場を往復してると思いますが、フィールはずっと現場でしょう」
いつ情報を仕入れたのか、エリスロットが言った。
「会いに行くなら避難所建設の現場だという事ですね」
「そういう事です……ですから姫、厩舎はあちらですよ」
「……わかっています」
反対側に行きかけていた王女は慌てて向きを変えた。顰めた顔をエリスロットに向けた後、王女は正面を向いて少し笑った。
この日常はもう直ぐ終わる。それを知っているからこんな些細な事も楽しく感じる。ジークリフトも、この日常も、掛け替えのない王女の宝物だった。それを感じながら王女は自分の未来に立ち向かうべく真っ直ぐに前を見て歩いて行った。
突然の状況の変化。
ルーディアの事情も第二部で書きます。




