リナレス城の森
王女が目を覚ますと、空が白じんでいた。昨夜はいつ寝たのかは覚えてないが、ぐっすりとは眠れなかった。頭が重い。
早い時間だったが、もう一度眠る事は出来ず、王女はベッドから起き上がった。そのまま、上履きを履くと窓の側へ立ち大きく窓を開ける。まだ冷たい空気が一気に部屋へ入って来た。
昨夜は散々泣いたせいで、瞼が重い。部屋の隅に置かれた洗面台に壺の水を入れ、王女は顔を洗った。普段ならシリルに声をかける所だが、その気になれない。自分で身支度を済ませ、外を見ると朝日が昇るところだった。
一日の始まりを知らせる朝日が、部屋の奥まで差し込んで来た。王女はもう一度窓の側へ立ち、窓の桟に手をかける。窓の外には森が広がっていて、よく見ると森の境目の辺りに小さな野の花が咲いているのが見えた。
(もう、二度とここへは来ないかもしれない……皆が活動する前にブルーナ様の墓碑に最後の挨拶をしよう……)
王女はそう思い、靴を履き替えストールを羽織ると朝食前の時間を利用してそっと外へ出た。
外に出ると足元の草花の朝露が日の光を反射し、キラキラと輝きながら地面を覆っている。その中からいくつかのすっくと立つ花を手折り、王女は先に進んだ。
森の側まで行くと、森の中を散策出来るように小道があるのを見つけた。その淵にも花が咲いている。空を見上げ、まだ朝食までの時間があるのを思い、王女は少しの時間散歩をする事にした。ブルーナ王妃のために摘む花を選びながらも、気がつくとジークリフトの事を考えてしまう自分がいる。この散歩とブルーナ王妃のお墓参りは、ジークリフトを諦めるための儀式の様に感じていた。
(最後なのだから……素敵な花束にしなくてはならないわね……)
自分の中で諦める努力をしようと決意しながらも、次の瞬間、ジークリフトの顔が頭の片隅から出て来る。その途端キュッと胸が痛くなった。
気を取り直し知らない振りをして花を摘むが、目の前の植物が涙で霞んでくる。王女は溜息をついた。
「思い出しては駄目……」
思わず声が漏れた。辛くなるだけなのにジークリフトの横顔が、笑う顔が、次から次へと頭に浮かぶ。
ジークリフトにはもう慕う方がいるのかも知れない……ふとそう思う。きっとそうだ、だから他の女性と話をする所を思う人に見られたくなかったのだろう。
そうなると……その心を寄せる人はあの舞踏会の会場に居たのだろうか?
王女はまた大きな溜息をついた。初めからこの恋は終わっていたのだ。何もかも自分の思い過ごしで、思い出の何もかもが違っていたのだろう。自分本意だった。
そう思いながら、王女は森の中を歩いた。花束を作る作業があるだけ、気が紛れるのも事実だ。小さな花束は可憐な花で一杯になっていた。
また涙が出てきた。こんな状態では城へ戻れない。シリルが何事かと騒ぎ出すかも知れない。
時折手元の花束を見つめ、時折溜息をつき、涙が乾くまで王女はそぞろ歩いた。
どれくらい歩き回ったのか、気がつくと足元に花の姿はなくなっていた。それどころか、王女の歩く先に散策する小道もなくなっている。慌てて後ろを見ると、樹木に阻まれ自分がどの方向から歩いて来たのか、わからなくなってしまった。王女は自分が道に迷ったことを悟った。
木々の間に建物の影はなく、先程まで見えていた城の塔も見えない。城の敷地内であるのは間違いないが、右も左も前も後ろも樹木しかない。王女のいる場所は、完全に森の中だった。
森の中は、虫の声や鳥の鳴き声がするだけで、概ね静かだった。見上げると、背の高い木々の枝が空をふさいで心持ち薄暗い。森の静寂に、王女は身震いした。ブルーナ王妃のために摘んだ花を握りしめ、王女は今辿って来たであろう道を戻り始めた。朝食の前に部屋を抜け出してしまったため、侍女達に何も言わずに来た事を後悔した。が、もう遅い。このまま気付かれなかったら、どうなるのだろう。
(いいえ、きっと誰かが探す筈だわ)
朝食を済ませていないのだから、戻れなければ探してくれる筈だ。慌てなくてもいい。だが裏腹に不安は不安を呼び、王女は次第に足早になって行った。
(きっと大丈夫……こんな所で、窮地に陥る事なんてありえない……だってリナレス城の敷地内なのよ)
そう思いつつ、歩いても歩いても周りは同じような風景で、深い森の中に変化はない。真っ直ぐに戻っているなら、そろそろ出口らしきものが見えてもいい筈だ。王女は立ち止まり、辺りを窺った。一瞬、今きた道を戻ろうか……とも思ったが、歩いた距離を思えばそれも出来ない。王女は唇を噛むとまた歩き始めた。恐怖の思いを抑えつつ、とにかく歩いていれば何処かに出るだろう。そういう思いもあった。
暫く延々と歩き、王女は木々を仰ぎ見た。一体どのくらいの時間が経っているのだろう。王女が居ない事に気づいた侍従達が探してくれていたらいいのだが、王女にはそれを知るすべはない。
突然、近くで何かが蠕き、草の葉の擦れる音がした。王女は息を詰めて音の方向を見たが、きっと何かの小動物が逃げて行ったのだろう、葉の摺れる音は遠くなりそこからは何も出てこなかった。
自分の心臓の音が聞こえる程に、動悸が早くなる。せめて、空が見えれば少しは気が晴れるのに……頭上に広がる樹木の枝を見上げた。
(このまま夜になってしまったら……)
新たな不安が王女を襲ってくる。それまで考えずにいた最悪の結末が頭を過ぎった。このまま夜になってしまったら、きっと森に住む動物達に王女は襲われるだろう。この中でどこに逃げればいいのか、王女が森の動物達に敵うはずがない。
どうすれば良いのだろう。今自分がすべきは何だろう。そう思いながら一歩踏み出した王女は突然足を取られた。
「きゃあ!!」
そのまま少し滑って尻餅を付く。少し斜めになり段差になっていた地面が草で覆われ、わからなかったのだ。着ていたドレスは泥が付いてしまった。
でもそれ以上に体勢が崩れた事を立て直せなかった自分の不甲斐なさが情けなくなる。木でも草でも咄嗟に掴めばよかったのだ。
立ち上がり滑った段を上ろうとしてみたが、王女の履いている靴ではツルツルと滑って上がる事が出来なかった。涙が出そうになったが、ここで泣くのはいけない気がする。
道無き道を歩き出しながら手の中に握っている花束が、唯一リナレス城との繋がりの様に思えて王女は決して花束を離そうとはしなかった。気がつくとドレスの裾が破けている。溜息が付いて出たが、今はそんな事に感けている状態ではない。
何処かでギャーギャーとあまり美しくない鳥の鳴き声がした。ビクッと体を震わせ、その鳴き声の方向を見た王女は、突然、この森にとって自分は招かれざる客なのだという事に気付いた。
得体の知れない何かが今に目の前に現れるかも知れない。体の芯が重く冷たく落ちていく感覚に、王女は思わず腕をギュッと握った。
「……誰か助けて……」
王女は初めて声を出した。自分の力では、もうどうしようも無い。さっきまでの(きっと何とかなる)と思っていた気持ちは、今はどこにもなかった。もう動けない。もう歩けない。
「誰か! 助けて!」
王女は思い切り叫んだ。しかし、その声は深い森の中に消えて行く。泣きそうになる自分を王女はどうにか抑えていた。
(心を落ち着かせなければ……)
その時、王女の脳裏にジークリフトの言葉が浮かんだ。
『気持ちを落ち着かせるには、目を閉じて大きく息を吸ってゆっくりと吐くんだ』
幼いジークリフトにブルーナ王妃が教えてくれたと言う呼吸法だ……此の期に及んで、またジークリフトの事が思い出されるのには笑いたくなったが、今はあの時の言葉に従おう。
王女はその場で目を閉じた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。何度も繰り返すうちに、不思議と鼓動が収まっていた。
冷静に考えよう。今のこの状況を冷静に受け止めて、先ずは何をしなくてはならないか……。
太陽の位置はどこ? 王女は樹木の葉で見えない空を仰いだ。観察すると木々の間に空が見える。光は差していないか? 木漏れ日はないか? 目を見開いて太陽を捜す。一方方向の空に煌めきがあるのが見える。
(そうだ……あれが太陽)
陽は思うより高く上がっているようだ。時間の感覚を呼び戻し、王女は耳を澄ませた。呼吸はゆっくりと深く、何か音が聞こえないか耳を澄ませる。何か聞こえないか?
完全に気持ちは落ち着いてきた。王女は目を閉じた。
息を深く吸いそしてゆっくりと吐く。もう一度大きく吸おうとしたその時、王女はかすかな馬の嘶きが聞こえたような気がした。
王女は目を閉じたまま耳を澄ます。全ての五感を使って聞きたい音だけに集中する。すると、今度はハッキリと方向がわかるほど馬の嘶きが聞こえた。
王女は目を開き、慌てて方向を変えるとその聞こえてきた方へと歩き出した。草木が邪魔をしても、小枝に足を取られても構わない。次第に走り出しながら、王女は馬の姿を探した。野生の馬が城の敷地内に居る筈はないのだ。
(きっと傍に人が居るはず!)
王女は枝に顔を叩かれても、転んでドレスが多少破れても、走り続けた。
(お願い! そこに居て! 待っていて!)
しばらく行くと小川のせせらぎの音が聞こえてきた。心持ち木々の覆いが薄れたようにも思う。日の光が木漏れ日となって、王女の目にもキラキラと見えて来る。
(森を抜ける!)
小川のせせらぎの音は、王女の目の前にある繁みの向こう側から聞こえている。王女は躊躇わず、その繁みに飛び込んだ。
「誰だ!」
王女が繁みを抜けた時、一喝するような鋭い声が王女に浴びせられた。王女は肩で息をしながら、立ち竦むと、そこにジークリフト王子が剣を手に立って居た。
「……君は……」
ジークリフトは繁みから現れた人物が、リングレントの王女である事に気付くと驚いて目を見開いた。
「なぜここに? 君は……」
何かを言いかけて、王女の様子に気付いたようでジークリフトは言葉を止める。王女は、まだ肩で息をしていた。髪は振り乱れ、着ているドレスは泥が付き所々破けている。靴も泥だらけで、顔や手足に切り傷がある。
そして、右手に握られたままの野の花の花束は、無惨にも萎れてしまっていた。そこに立つ王女は、昨日の舞踏会でのエレガントな美しさを持つ王女とはまるで別人だった。
剣を鞘に収めると静かにジークリフトは王女に尋ねた。
「城からここまで、君はどのようにして来た?」
深い森の中での恐怖を悟られまいと、王女はジークリフトを見つめたまま、気丈に微笑んだ。
「歩いてですわ……」
王子は、困ったような顔をして、苦笑し聞いてきた。
「……また、迷ってしまったのではないか?」
『また』という言葉に、王女は真っ赤になった。王女には思い当たる事がある。
「違います! 散歩です!……ただ、ちょっと……いつもより、長くなってしまっただけです……」
王女の言葉にジークリフトは尚も困った顔をした。
「本当です!」
そして、王女は自分の右手を差し出し、萎れてしまった花束を見せた。
「ほら、ブルーナ様に花だって摘みましたもの!」
ムキになる王女に、ジークリフトは近づいた。王女は動悸が早くなる。そして今日のジークリフトは、昨日の彼とは明らかに違うと感じる。
「この森の中を歩いてここまで来ると、途轍もなく時間がかかるんだ……それに、私の母の眠る場所はもっとずっと城に近い」
そして、王女の瞳を覗き込む。その目は優しく笑っている。
「ですから……散歩が少しだけ長くなってしまったのです……」
王女は、目を逸らして下唇を噛んだ。
(……以前のように素直になれない)
昨夜の出来事が王女を意固地にさせていた。ジークリフトは王女の言葉には答えず、そっと手を伸ばすと王女の乱れた髪にくっついている葉っぱやクモの巣を取った。葉っぱは六枚もついていたし、クモの巣と小枝はなかなか取れなかった。そして、荒れた髪を少しだけ整えてやる。その手が優しくて王女は眉を顰めた。
(好きな気持ちを呼び戻しては駄目……)
王女はジークリフトが根気よくクモの巣や小枝を取ってくれている間、俯き加減にジッとしていた。いくら自分が恋していた相手でも、まともに顔を見れるような状況ではないし、拒絶された相手に弱みを見せたくないと王女は強く思ったのだ。
でも、今日のジークリフトは以前のように気さくな雰囲気だ。いや、寧ろ以前より優しくすら感じる。昨夜とは全く違うジークリフトの眼差しが余りにも優しく、王女はどう受け止めて良いのかわからなくなってしまった。諦めようと決めた決意が、たったこれだけの事でグラつきそうになる。
ジークリフトは王女の髪を整え終えると、手から花束を取り、その手を取って「こちらへ……」と小川に連れて行った。
「ここの小川の水は、雪解け水だから美味しいんだ。少しで良いから飲んでごらん」
そう言いながら、ジークリフトは水を掬い上げ飲んで見せた。王女も真似て飲んでみる。冷たい水が唇に触れた時、王女は始めて喉がカラカラである事に気付いた。ジークリフトの前で、はしたないと思ったが、何度も水を掬い上げ満足するまで水を飲むと、顔をあげてホウッと息を吐いた。
そして改めて自分の姿を見下ろし、王女は泣きたくなった。こんなボロボロの状態でジークリフトの前に現れるなんて、みっともないにも程がある。虚勢を張ってもこれでは意味がないように思う。
部屋を出る時に肩に掛けた筈のショールも何処かで無くしてしまっていたし、隠しようのない自分の姿に侘しい気持ちになった。
彼はきっともう遭難した事は分かっているのだ。この状態を見れば誰だってそう思うだろう。
王女は自分の姿はボロボロだけど、それでもせめて手足の傷だけでも洗っておこうと靴を脱ぎ、傍にある岩に腰掛た。傷口からは血が滲んでいる。そっと水に足を浸すと冷たい水に王女は肩を竦めたが、その水が足の感覚を奪う前に急いで傷の部分を洗った。
そして、そのまましばらく乾くまでの間足を浮かせておく。
ふと見ると、手をついた岩の上に摘んだ筈の萎れた花束が置いてあった。振り向くと、ジークリフトは少し離れた場所に繋いだ馬の傍にいる。気付かないうちにジークリフトが花を持って来てくれたのだろう。王女は花束を手に取ると、腕を伸ばして冷たい水に浸けてあげた。暫くこうして水に浸けておくと花は生き返る筈だ。
目の前には自分が迷った深い森がある。先ほどまで薄暗く恐ろしげに見えていた森が、今、目の前で太陽の光を受け輝いて見えている。
「綺麗……」
思わず言葉に出してしまって、王女は先程までその森の中を彷徨っていたのだと溜息をついた。可笑しな物だ。迷っている最中にはただ怖かった思いが、安心した今はその迷った森さえ綺麗に見えるのだから。
「綺麗な森でも、気をつけないとオオカミや熊が出る」
不意に後ろから声がして振り向くと、ジークリフトが馬の手綱を引いて微笑みながら王女を見ていた。王女は心臓を鷲掴みにされたような気がした。身体が熱くなる。
「そろそろ、戻った方がいいと思うぞ」
そして、少しだけニヤリと笑った。
「私は馬で行くが……君は歩くか?」
王女は真っ赤になって立ち上がった。
「貴方は意地悪です!……そうよ貴方の仰る通り! わたしはこの森で、あの温室の時のように迷子になってしまったの!」
そして、王女はジークリフトを見上げると、少し膨れっ面のままの顔で言った。
「ですから……わたしを貴方と一緒に連れて帰って下さい」
ジークリフトは完全に王女をからかっている。
(この人の前ではかっこうがつかない)
ひどい姿を見られているのだ、格好も何もあったものではない。ジークリフトは笑った後
「冗談だ、絶対にちゃんと私が連れて帰る。君を置いては行かない。安心しろ」
そう言うと徐に王女の腰に手を添え抱え上げ、器用に王女の座っていた岩を踏み台に軽々と馬の上に横向きに乗せた。
「あっ靴が……」
ジークリフトは王女の汚れた靴を拾い王女に履かせてやる。そして王女を見上げ、今度は安心させるように笑った。
「では帰ろう」
それから、自分も王女の後ろに跨ると馬の手綱を取った。自然と王女はスッポリとジークリフトの腕の中に包まれる形になる。慌てて馬の進行方向を向き、花束を持っていない手で馬の鬣を掴んだ。
暫くそのままゆっくりと小道を進み広い場所へ出ると彼は王女に声をかけた。
「失礼……」
急にジークリフトは王女の右腕を取って引っ張り、自分の腰に回させた。一瞬緊張した王女の耳に、ジークリフトの落ち着いた声が聞こえた。
「ちゃんと掴まって。ここからは、少し急ぐ」
「……はい」
馬が速度を上げると、馬上の安定が無くなり王女は思わずジークリフトの胸に頰を付けた。
「あっ……ごめんなさい」
慌てて少し間を取るものの、動く馬上ではその維持が難しい。何度もくっついたり離れたりを繰り返しているうちにジークリフトの手が王女の肩を引き寄せた。
「無理をするな。安定するのならこうしていれば良い」
王女の頰はジークリフトの胸にピタリとくっ付いている。その状態だとジークリフトの体温と鼓動が王女に伝わってくる。王女は緊張しながらも安堵していた。
ジークリフトの腕の中にいる安心感と羞恥心、それから、もしかしたら死んでしまうかもしれないと思ったあの森の長い時間が、王女の中で複雑に絡み合っていた。大きな動物に遭遇する事もなく、思えば命に関わるような怪我も負ってはいない。
(でも怖かった……)
王女はジークリフトの腰に回した腕に力が入った。でもこの状況は不味いのではないだろうか。彼には慕う方が居る筈なのだ。
馬上の二人は言葉を交わさず走っていた。花束を持つ手で髪を押さえ、王女がジークリフトに身を委ねるのを躊躇いながら緊張しているうちに、ジークリフトが馬の歩みを少し緩め始めた。
「……城が見えてきた」
ジークリフトの声に王女は顔をあげると、遠方から見えるリナレス城の姿に感嘆の声をあげた。
「まぁ……なんて綺麗な……知りませんでしたわ、ルガリアードのこの城がこのように美しいとは……」
王女の瞳に映るリナレス城は華美ではないが、遠くからも分かる洗礼された塔を中心に、左右に翼の様に広がる宮殿の建物は、飛び立つ鳥の様にも見える。王女の賞賛の言葉にジークリフトは素直に笑った。
「私はここからの眺めが一番好きなのだ」
ジークリフトの瞳が王女に優しく笑いかけ、再びリナレス城へ視線を向けた。その横顔を確認し、王女も視線をもう一度城へ向ける。二人はそのまま暫く馬を止め城を眺めていた。
王女は目の前に広がる風景を、しっかりと目に焼き付けようと思った。ジークリフトとこんな風に同じ方向を見て歩いていけたら、どんなに幸せだっただろう。ふとそんな事を思い小さく笑った。
今、こんなにジークリフトが優しいのは自分が城の敷地内で遭難しかかったからだ。彼の本意ではないだろう。昨夜の舞踏会での出来事が本来の彼の気持ちの筈だ。目の前の美しいリナレス城を目に焼き付け、自分のジークリフトに対する気持ち全てを終わらせようと王女は思っていた。助けてくれた……もうそれだけで十分だ。
ジークリフトの体温を腕に感じながら、王女はゆっくりと瞼を閉じ息を吸うとゆっくりと瞼を開いた。
「ジークリフト様……」
王女はジークリフトを振り仰いだ。精一杯の笑顔を向けた王女をジークリフトが見下す。その瞳を見た王女は素直な気持ちになっていた。
「助けてくださって、ありがとうございます。本当は……本当はとても怖かったのです。馬の声が聞こえた事もジークリフト様があの場所に居てくださった事も奇跡だと感じております。わたし、今日の事は一生忘れません」
少し目が潤むのを感じたが涙は溢れなかった。ジークリフトの表情が真剣になっている。その顔にもう一度ニコッと笑いかけると王女は視線を前へ戻した。
その時、王女の肩をジークリフトが背後からそっと抱きしめた。心臓が跳ね上がり、王女は身を固くしたがジークリフトは更に腕に力を込めた。しっかりと抱き締められ、心臓の音が聞こえてくる。その速さは自分の物なのかジークリフトの物なのか判断がつかない。
「昨日の君は、堪らなく美しかったが……私は今日の君も、堪らなく好きだ」
「……」
動揺した王女の手から花束にしていた花が幾つか風に舞い落ちていった。落ちていく花を見ながら、王女は夢なのかも知れないと思う。
「私の妻にならないか?」
耳元のジークリフトの声を聞きながら、王女は首を振った。
「駄目です……だって貴方は他に慕う方がいらっしゃるのでしょう?」
王女の言葉にジークリフトは思いも寄らなかったと王女の肩を掴み顔を覗き込んできた。
「何を言う!」
「昨日の貴方はわたしを拒絶していましたもの……わたしは、もう貴方の前には現れないつもりで……今日は早々に帰ろうと思って……」
その言葉にジークリフトは固く目を閉じた。そして、すぐに目を開けると真っ直ぐに王女を見た。
「正直に言う。昨夜は……君の姿に驚いたのだ……その……私の想像を超えて、余りに美しくなっていたので……自分の動揺を抑えるのに必死だった……心の準備が間に合っていなかったのだ……君の事を思いやる余裕がなく、その……すまなかった……」
素直なジークリフトの言葉に驚いた王女は大粒の涙を落とした。昨日の態度では嫌われたのだと確信の様な物があった。でも、違ったの? 慕う人は居なかったの?
「頼む……泣かないでくれ……」
ジークリフトはどうして良いのかわからずに、王女の頬を流れる涙を指で何度か拭う。ジークリフトの慌てた姿を見て王女は少しだけ微笑んだ。
思い出の中の王女の知るジークリフトは素直に心を見せてくれていたように思う。
困り果てたジークリフトの表情を見詰め、王女はもう一度尋ねた。
「……本当なのですか? わたしの事を嫌っている訳ではなく、他にお慕いする方もいらっしゃらないのですか?」
ジークリフトは居心地悪そうにしていたが王女の瞳を正面から受けた。
「嘘は言わぬ……私が慕うのは君だ」
その瞳に嘘はなかった。ジークリフトの告白に微笑みたいのに表情が歪む。泣きたいわけでは無いのに自分を抑えられず、震えた。王女はジークリフトの頬にそっと触れた。涙がまた流れ出した。でも頑張って笑う。
「……幼い頃より……わたしが貴方に恋をしていた事を、貴方は知っていましたか?」
ジークリフトの目が見開かれる。そして、瞳に熱を帯びたジークリフトがゆっくりと王女の唇に彼の唇を重ねた。風が二人の横を流れて行く。唇を離したジークリフトは優しく王女を見下ろした。
「……もう、無茶な事はしないでくれ。寿命が縮む」
ジークリフトの言葉に王女は小さく頷いた。ジークリフトの腕が王女を包み込み、王女もジークリフトの背に腕を回した。王女は突然訪れた幸福に身を委ね、ジークリフトの胸に顔を埋める。その王女をギュッと抱きしめ、ジークリフトは暫く動かなかった。
「私は君を愛し始めている……君を私の妻に欲しいと思う」
王女の心が震えた。何という幸福感だろう。今、このまま心臓が止まってしまったとしても後悔はしないだろう。ジークリフトに包まれている満ちた感覚は身体だけではなく心にも及んでいて、全てのものが自分に味方しているように思う。王女は幸福感を噛み締めた。
「思えば……君には驚かされてばかりだな」
ジークリフトの声が心地よく響く。
「初めての出会いでは……カーテンの陰に小さな子が居るのに気付き見ていたら、その子が急に仰け反ったのだ。あれは驚いた……今でも思い出しては笑えるのが、母の温室での迷子事件だ。追い払ったはずの君が、園路脇で寝息を立てていたのだからな。あれは強烈だった」
心地よく響いていたのは束の間だった。思わず笑ってしまったジークリフトに反論しようと王女は顔を上げた。
「ですからあれは……あ……」
その唇をまたジークリフトが奪う。
「竜の背に乗った時もアダムの工房でも……大切だと思う私の思い出の中には君が居る。驚かされてばかりだが……君が愛おしい……」
ジークリフトが真剣な表情になった。王女は目を見開いた。彼の言った事は王女との思い出がジークリフトにとっても大切だという事だ。
「これから先、君と生きていけるよう、正式にディオニシス王に君との結婚の申し入れをする。いいか?」
「はい」
ジークリフトは王女を思い切り抱きしめ、王女はジークリフトの首に腕を回した。
「貴方の事が……とても……とてもとても……どう仕様もない程に好きです。わたしを貴方の花嫁にして下さいませ」
強くジークリフトが抱きしめる。そして二人はお互いになくてはならない存在になった。
二人が城に戻ると、城内は大騒ぎになっていた。城の門番が慌てて馬上の二人に駆け寄って来る。
「殿下! 直ちにラディウス王の元へ行かれて下さい! リングレント国の王女が……あぁ!」
そう言いつつ、ジークリフトの前に座る泥だらけの女性がその王女である事に気付き、門番はそれ以上の言葉を発せ無くなった。ジークリフトは笑いながら馬を降りる。
「心配せずとも連れて戻って来た……」
そのまま王女を馬から降ろすと、門番に声をかけた。
「王女の侍女を呼んでくれ、それと暖かい食事と着替えを用意するよう伝えてくれ」
「はい!」
門番は慌てて城に駆け込んで行った。その様子を見て二人は顔を見合わせた。
「君が消えたんだ、騒ぎになるのは仕方ないな……」
ジークリフトは笑ったが、王女は笑えなかった。
「どうした?」
ジークリフトの問いに、王女は眉間に皺を寄せる。
「……きっとわたしは……また父にきつく叱られるのです……また暫くは部屋から出してももらえないのだわ……」
それを聞いたジークリフトは、思い出したように尋ねた。
「あの竜の背に乗った時のようにか?」
王女は深く頷いた。何故いつもこうなってしまうのだろう。やろうと思って心配をかけている訳ではないのに。父はきっと魔王のように怒るに違いない。
考えているとジークリフトの視線を感じた。彼も考え込むように王女を見ている。
「……何か?」
王女は首を傾けジークリフトに問いかけた。その王女にジークリフトは笑いかける。
「……確かに君は……少々お灸を据えてもらった方がいい」
その一言で王女はジークリフトを睨んだ。
「酷いです! 先程まで貴方はあんなに優しかったのに!」
怒り出す王女をジークリフトは涼しい顔で見ている。
「私は今だって優しいよ」
ジークリフトはクスッと笑ったが、突然真顔になった。
「君を見つけたのが私で良かったと、心からそう思っている」
そして優しい顔になると王女の頰をそっと撫でた。
「今回は叱られておいで、次回からは私が何とかしよう」
それだけで充分だった。王女の中にジークリフトに包まれている感覚が蘇る。
「姫様!!!」
城の中から血相を変えたシリルが、駆け寄って来るのが見えた。ジークリフトはそっと王女の背中を押した。王女が振り向くと、ジークリフトは微笑んで頷いた。王女の心に屈しない勇気が起こって来る。今ならどんな叱られ方をしても大丈夫だ。
王女は微笑んでジークリフトに応えてから、シリルに向き直った。
泣きながら小言を言うシリルに腕を取られながらも、王女は幸せを噛みしめていた。
実はジークリフトが舞踏会が始まって直ぐに大広間から居なくなったのは、動揺を抑えるためだったりします。
「参ったな……」を連発しながら、王女を見ると心が乱れるので心を落ち着けるのに必死でした。




