上に立つ者
しばらく長い階段を上がると少し広い部分に出た。建物自体は物置のようで幾つかのドアが並んでいる。その回り込んだ所に更に階段が続いている。上には植物が植えられているらしく、ここからも樹木が見えた。
「上の方が気持ち良さそうですね」
更に上階への階段を行くとそこには小さな庭園が広がっていた。そんなに大きくない樹木が三本あり花壇とベンチがある。花壇には花だけでなく野菜も作られているようだ。石造りの建物の屋上に土を盛って作った庭園らしい。奥の方には別の建物に繋がる道がある。
「……素敵ですね」
「あぁ、二階が倉庫になっている事から考えると、裕福な商家のものだろうな」
「入ってしまって良いのでしょうか?」
不安になって尋ねた王女にジークリフトは笑った。
「構わんだろう。向こうと繋がっているんだ、ここは通り道になっているようだしな」
二人はベンチに座った。肉饅頭の包みを開くといい匂いが漂う。ジークリフトはそこから自分の分をヒョイと取ると、包んだ布ごと王女へ渡した。
「少し行儀は良くないが、このまま齧り付くしかないな」
「ありがとうございます」
揚げられた肉饅頭は実に食欲を唆る色合いだ。食べ始めたジークリフトの真似をして、王女は直接口を付け肉饅頭に齧り付いた。
「……あらまぁ、本当に美味しいです」
具材を包む生地の部分は日頃食べるパンより香ばしくて柔らかく感じ、一口分を飲み込んで、王女は自分の齧り付いた歯型がまあるく千切れている肉饅頭を見た。初めて食べた肉饅頭の中の具材は肉と野菜を炒めた物で、程良い肉汁が甘く感じる。何とも香ばしく良い塩加減だ。
「確かに美味いな。私の側近の中に食べ物に煩い奴が居て、あの店を教えてくれたのだが……正解だったな」
「庶民もこのような美味しいものを食べているのですね」
「あぁ……彼らなりの工夫を凝らして毎日の糧を得ている。素朴な味だが私は好きだ」
「えぇ、わたしもとても美味しいと思います」
ジークリフトも満足そうだ。王女も味わいながら肉饅頭を平らげた。包んでいた布を綺麗に畳み直しジークリフトに返すと、彼はその布で手を拭いて革の入れ物に戻す。お腹が満たされ満足すると王女は自分がお金を払っていない事を思い出した。
「ジークリフト様、ご馳走様でした。わたし、今お金を持ち合わせていないので、いつかこのお礼をさせてくださいませ」
王女がお礼を言うとジークリフトは首を振った。
「お礼などいい、私も食べてみたかったのだ。面白い体験も出来たし……と、君と話すと普段の口調に戻ってしまうな」
「いいではありませんか。今、ここでは誰も聞いていませんもの」
王女は街の人の口調を真似るのが面倒になってきていた。普通に話せるならその方が気が楽だ。
風が海から心地よく吹いて来る。王女は立ち上がると壁まで行き街を見下ろした。天気は申し分なく良い、見下ろせば街の様子がわかり、遠くを見れば青い海が見えている。
「ここからは海が見えますよ。城から見える風景とは随分と違うのですね」
ジークリフトがゆっくりと隣に並んだ。街の喧騒が小さく聞こえてくる。そのままジッと海を見つめていたジークリフトが口を開いた。
「……ソラは元気か?」
その横顔は眩しそうに海を見ている。
王女の中で、あの出来事は何事にも代え難い大切な出来事だった。ジークリフトも海を見てあの時の感情を思い出したのだろうか。あの経験はジークリフトと王女二人だけの物だ。そう思うと気恥ずかしくも嬉しくなる。
「えぇ! とても元気ですわ。もう一度ちゃんと公式に会いに来てくださいませ。仕事以外に一日くだされば、ソラだけではなくお約束通りフィールにも会わせて差し上げますから」
王女はジークリフトを見上げ喜びを隠す事なく笑った。ジークリフトはチラッと王女を見下ろした後、もう一度海を見た。
「そうだな……」
ジークリフトは大きく息を吸った。
「あの時……大層怒られはしたが、私は君と飛んだ事を後悔してはいない」
その言葉に王女は嬉しくて仕方がなくなった。王女自身も同じ気持ちだったのだ。
たとえ二度とソラの背に乗せて貰えずとも、あの日ジークリフトと共に飛んだ事に意味がある気がしていた。
「ソラに乗って大空を飛んだ経験があるから、私は学ぶ事に貪欲になったんだ。あの時、ソラのお陰で気付いた。自分の目で見なければわからない事は数多くある。勉強しても体感しなければ心は動かない……想像と経験は違うんだ。それは少なくとも上に立つ者にとって必要な事だと思っている」
遠くを見つめるジークリフトの瞳に決意の様なものが見えている。そこに彼の強い心が見えた気がして、王女の鼓動が跳ねた。
「君もそれだから城を抜け出したのではないか?」
遠くの海から王女に視線を移したジークリフトの瞳を眩しく感じ、王女は目を逸らした。
自分はそんな高尚な意味合いで城を抜け出していない。確かに街の人達の事を知るのは必要だと思う。でも今日はカイル兄様の事が心配で、自分に何か出来ないかと、何かしてあげたいと思ったからだ。せせこましい範囲の小さな自分を情けなく感じる。
「ジークリフト様は……もっとずっと上を見ているのですね」
「君は違うのか?」
今日城を抜け出した切っ掛けになった兄の事は言うべきでは無い。今日の自分の衝動のみを掻い摘んで話してみる。感じた事を素直に話せば彼は何と答えるのだろう。
「違うと言うか……違わないと言うか……わたしは今日、人のために何かをしたいと思ったのです。自分に出来る何かがあるのではないかと……でも、城を抜け出して先ず自分に起きたのは馬ごと川へ落ちる事でした」
ジークリフトがクッと笑った。
「笑わないで下さいませ、これでも真剣なのですから……」
王女は恨めしくジークリフトを見た後、城を抜け出して感じた事を素直に口にした。今更自分を装っても何にもならない。
「そこで出会った方々に助けられて……今こうしてここに居て感じるのは、わたしは一人では何も出来ないと言う事でした。川から助け出された時も、服を交換する事も、馬具を治してくださる事も……肉饅頭だってそうです。貴方と出会っていなければ、わたしはあの味を堪能する事は出来ませんでしたもの」
王女の言葉をジークリフトは黙って聞いていた。同じ境遇というのは余計な細かい説明をしなくてもそれだけで気持ちが解る。もう少し話したくなった王女は言葉を続けた。
「わたし、今回出会った方が居るのです。彼女は事故で立ち上がる事が出来なくなって居ました。立てないという事は、これからの生活も全て人の手を借りるという事ですよね。一人では生きて行けない……それなのに、笑う彼女の笑顔は……それは素敵だったのです」
王女は自分の心の奥にある物を言葉にするのが難しくて、もどかしい気持ちになった。
「わたしがこの国の王女として生まれて何か成さねばならないのなら、自分で王女として居る意味を見つけなければいけません」
そのもどかしい気持ちは自分に対してのものだ。小さく溜息をついた時、ジークリフトが静かに口を開いた。
「『事を成すなら、まず己の足元を見よ』……遠い国の哲学者であるニケアテレスの言葉だ」
ジークリフトの言葉はスッと王女の心に落ちた。今必要なのは自分の足元を固める事。
「君が事を成そうと思えば、成す事が出来る。君はこの国の王女だ。学び、考え、行動をする。それをするのは君だ。この街の人々を見てみろ、街の人々の暮らしは上に立つ私達が如何様にでも出来るんだ。幸せに恙無く平和に生きていけるように国を導く。それは私達にしか出来ない……足の悪いその女性がこの国でこれからも笑って生きていけるように、何をすれば良いのか考えろ……今、君の感じたそれは自覚だ」
王女がジークリフトを見上げると彼は優しく微笑んだ。王女はジークリフトの瞳の奥に光を見た。そういえばジークリフトがソラの背に乗って飛んだ年齢は今の自分の歳だった。あの時からすると自分も成長しているのだろうか? そう思った瞬間、ジークリフトがニヤリと笑った。
「……でもまぁ、私には馬ごと川に落ちるような真似は出来ないがな」
「言わないで下さいませ!」
ジークリフトは声を立てて笑った。王女は少し頰を上気させながらジークリフトを拗ねたように睨んだ。
「相変わらず意地悪です」
「聞き捨てならんな。君の中では私はどのような奴なのだ?」
「……初めは……そうですね、何を考えているのか分かりませんでした。表情が読めないと言うか……」
ジークリフトを初めて見かけた時の事はそう覚えてはいないが何を考えているのか分からないと感じた事だけはしっかりと覚えていた。
それを聞いてジークリフトは「あぁ……」と納得の顔をした。
「そうだろうな……母に仮面をつける方法を教わっていたから、公の場では常にそうしていた。幼い頃の私は感情が直ぐに出るタイプだったから、母が心配したんだ」
「そうなのですか?」
「まぁね……城には様々な人が出入りするだろう? 感情が解りやすいと付け入られる。私には必要な事だった」
王女の脳裏に葬儀の時のブルーナ王妃の横たわる姿が浮かんだ。あの美しい人がジークリフトに教えた事を知りたい。
「……女神の様に綺麗な方でしたね……」
呟いた王女をジークリフトが見る。
思えば、そうそう会う事は無いのに王女の中でジークリフトに関わる思い出は鮮明だ。不思議な感じがする。
幼いジークリフトが感情的だったと今初めて知ったのに、王女の強烈な思い出の中にジークリフトは常に冷静な姿で居るのだ。王女はジークリフトを真っ直ぐに見た。
「仮面をつける方法を、わたしにも教えて下さいませんか? わたし、ブルーナ様の事がとても好きだったのです」
ジークリフトは怪訝な表情になった。
「……君は私の母と話した事は無いだろう?」
「覚えていない程小さい頃にお会いしたようです。でも、物心ついてからはわたしの母からよく聞いていました。初めての出会いから仲良くなって沢山のやり取りをした事、そこに意味を見出し掛け替えのない関係になった事、話してくれる母の思いは本物でした……わたしが好感を持つのには、それだけで十分ではありませんか?」
ジークリフトは黙ったまま王女の瞳を見つめた。それからツイッと視線を逸らし、深く考えるように遠くの海を見つめる。
「……母の話を他人にした事はない……あぁ……でも一度、君にはしているな」
直ぐに、ルガリアードの城内の温室の出来事が頭を擡げた。あの泣いていたジークリフトの後ろ姿を思い出して、王女も海へ視線を向ける。
「温室で会ったあの時、わたしは……貴方は強い方なのだと思いました」
「逆だろう……私の姿を……その……見たではないか」
「それでも、公の場では涙一つ見せてはいませんでした。ブルーナ様の教えに従い、仮面を上手に被っていらしたから」
暫くの沈黙の後、気まずそうにジークリフトは目を伏せた。
「……参ったな……教えれば君の気が済むのか?」
「そうですね……気が済むと言うより、ブルーナ様の事を知りたいと言うのが本心です」
「知ってどうするのだ、もう会う事は叶わぬ」
「会わずとも目標にする事は出来るでしょう? 母から聞くブルーナ様はとても素敵なのです。書庫の本を片っ端から読んでいたとか、相談事には間違いのない答えをくれたとか、知識の量が並外れていたとか、侍女や家臣達に愛されていたとか……数え切れない程の武勇伝を聞かされています。わたしにとってのブルーナ様は話した事はなくても、憧れであり目標であり女神なのです。知りたいと思って当然ではないですか」
頭を上げたジークリフトは複雑な顔で王女を見た。
「母を知る人が母との思い出話をする事はあっても、知らぬのに話せと言われるとはね…… 」
半分呆れた様な、諦めた様な表情でジークリフトは王女を見下ろしている。
「今回は仮面をつける方法を教えて下さるだけでいいです。今日、一度に全て聞こうとは思いませんから」
王女の素直な気持ちだった。あの葬儀の荘厳な鐘の音が聞こえるように思う。出来るなら直接会いたかった。話をして同じ時間を過ごしてみたかった。友達である母から見るブルーナ王妃と息子であるジークリフトから見るブルーナ王妃は少し違う筈だ。それを聞きたい。
少しの間黙って話すのを渋っていたジークリフトは深い溜息をついた。
「……こんな事になるとは」
だがジークリフトは話し始めた。
彼には兄弟がいなかった為、幼い頃は大人としか接した事がなかった。
彼が四歳の頃、同じ年頃の者達とも接した方が良いと、貴族の子供達を城に呼び共に勉強をしたり遊んだりする時間が設けられる事になる。
突然沢山の子供達と接する事になり、ジークリフトは彼等にどう接して良いのか分からず、彼は戸惑うばかりだったと言う。
彼らに対する態度は何が正解なのか分からず、距離も縮まらず、面倒に思えて来た頃、ジークリフトに母であるブルーナ王妃がカードゲームを教えてあげようと言い出した。
「その頃すでに数字は憶えていたが、カードゲームはやった事がなかった。私は母との時間が嬉しくて喜んで承知したのだ」
体が弱かったブルーナ王妃は城の奥の方にある自室と温室と書庫にしか足を運ばない。ブルーナ王妃と過ごす時間はジークリフトにとって何より大切に思えただろう。
カードゲームを教えて貰いルールを把握してから、ジークリフトは何度やってもブルーナ王妃に勝つ事は出来なかった。それからも幾度となく勝負したが勝てない。彼が業を煮やし始めた頃、ブルーナ王妃は素知らぬ顔でジークリフトに問いかけた。
『貴方の顔を見ていると貴方の手持ちのカードが透けて見えるのですよ。なぜだか解る?』と。
カードは自分に見えるように持っているのだから相手に見える筈がない。彼は自分の母が何を言っているのか理解が出来なかった。そして言われたのだ
『自分にとって良い札が来たら顔が綻び、悪い札が来たら不安な表情になる。これでは自分の駒を見せているのと同じでしょう?』
その時ジークリフトは他者から見た自分を初めて知った。それから出来るだけ表情に出さない様に気を付けると、三回に一度は勝てる様になった。
『漸く掴めたようね』
笑う母にジークリフトは完全に勝ってみたいと思う様になった。負けずに幾度となく挑戦をする息子をブルーナ王妃は嬉しく思った様で「良い事を教えてあげましょう」と仮面を被る方法を教えてくれたのだ。
「気持ちが高ぶると動悸が早くなるだろう? それは体の隅々に影響するんだ。そして判断力を奪う。その影響を最小限度に抑えるために自分の力で制御する。ゆっくりと大きく息を吸い同じようにゆっくりと息を吐く、これを繰り返す事で徐々に冷静になれる。その後は表情を読まれにくい状態で維持する……つまり常に冷静でいられる状態を作るんだ」
まずは冷静になる為に落ち着く事。王女は納得した。心の揺れを表に出さない事こそが仮面を被る行為そのものになるのだ。ジークリフトはその後、城へやって来る同じ年頃の貴族の子息達とも上手くやれるようになったと言う。
「不思議な事に一度上手く行き出すと転がる用に全てが好転していった。母の場合は心臓の鼓動を素早く抑える為に日頃から知らぬ間にしていたらしい……その事がこの様な影響を及ぼすとは、本人も驚いたと聞いている」
穏やかな表情で話すジークリフトにブルーナ王妃の面影が揺れる。
「ブルーナ様の思いに溢れたお話ですね。家族や心を許した人に対しては仮面を被るのは難しいですが……わたしにも出来そうです」
王女はジークリフトに笑顔を向けた。ジークリフトが少し真面目な顔で王女を見る。
「母も不思議な人だったが……君も十分に不思議な人だな……」
「わたしが不思議ですか?……そうでしょうか? わたしは至って平凡ですよ」
王女は首を傾げた。
「あ……でも、以前ブルーナ様の温室で貴方は似たような事を言いました」
「……そうだったかな?」
「えぇ、確かあの時は変だと言われました」
「ふむ……幼い私も君には同じ感情を抱いたんだな」
二人は顔を見合わせ笑い出した。
「……いや、君に母の話をする事になるとは思わなかった」
「わたしはとても嬉しいですけれど」
ジークリフトは目線を海へ向けた。
そして彼が口にした言葉に王女は驚愕した。
「私の母は、生まれ変わってくるかもしれないと思っているんだ」
言った後、ジークリフトは王女の反応を確認するように瞳を見た。だが余りにも驚いて返事が出来ない。それは表情にも表れていた。
「そんな顔をするな……異端の考え方かも知れないが、前に母が言っていた事がある。東方の遠い国では輪廻転生という考え方があると言う。何度も生まれ変わり、その都度自身の魂を高めていくのだそうだ」
「言ってはなりません!……それは、司祭に知られてはならない考え方なのでは?」
大胆な考え方を王女は恐れるようにジークリフトを見た。
「君が話さない限り司祭に知られる事はないだろう? だが、私はこの考え方が好きだ。何度も生まれ変わり、人を助け、自身を磨き正しい事を行う。間違ったことを行った場合は、正しい事をするまで繰り返し同じ境遇に追いやられる。そこで学び、そして何度も出会うのだ。自身の親兄弟姉妹そして伴侶となる者と……」
ジークリフトの考え方を否定したいのに、最後の言葉に王女は衝撃を受けた。
「……何度も出会う?」
「そう、何度もな」
ジークリフトは王女に穏やかな笑顔を向けた。王女はその笑顔を綺麗だと思う。だが、ジークリフトの考え方にはただ驚いた。
「きっと私はいつか母とまた出会う……そう思っている」
王女は返事が出来なかった。異端の考え方を肯定は出来ない。だが、何と優しくて幻想的な考え方なのだろう。何度も大切な人と出会う。本当だとしたら……。
気が付くと王女の口から深い溜息が出ていた。
「危ない奴だと思うなら、司祭に言えば良い。私は何も悪い事はしてはいない」
王女は首を振った。
「もし本当にそうなら良いと思っただけです。人の行く道が天国か地獄かだけではなく、何度でも自分をやり直して正しく在ろうと努力し、人生を生きると言う事でしょう?」
「……わかるか?」
「わたしには解りません。でも……そうであるなら、救われます」
「……そうだな」
ジークリフトは今度は爽やかな笑顔を向けた。王女の中に恐れはある。だがその笑顔を見ていると気持ちが落ち着くようにも思う。王女は自分の気持ちを伝えたくて口を開こうとした時、ジークリフトがサッと王女を庇いながら後ろを見た。そして直ぐに緊張を解くのが解った。
「其方か、リーナス」
後ろにはジークリフトよりもう少し年が上と見られる男性が立っていた。黒髪に茶色の瞳、ジークリフトと同じ様に下町の若者の格好をしているが騎士の風情で背筋がピシッと伸びている。
「心配せずとも良い、彼は私の側近だ」
身構えるより先にジークリフトが王女に教えてくれた。
「お話の邪魔をするつもりは無かったのですが……そろそろアダム・オルティエの工房へ戻った方が良いと思います」
リーナスと呼ばれた彼は少し畏まりながらも無表情に言った。
「あぁ……」
思い出したようにそう言うと、ジークリフトは王女を振り向いた。
「君の馬具の作業が終わったのだと思う……行くか?」
「えぇ……」
そう言いつつも、王女はもう少しジークリフトと話して居たかったと少々残念な気持ちに駆られた。その微妙な空気を読んだようにリーナスは口を開いた。
「直ぐに移動された方が良いと思われますよ。本日はディオニシス王と第二王子のイルヴック様が視察に下町を巡回なされて居ます。本日は商業施設のみとの事なので鍛冶屋街へは赴かないと思われますが、ここからは速やかに移動した方が無難でしょう」
どこで情報を仕入れたのか知らないが、リーナスはかなり確かな情報を持っていた。ジークリフトは王女を見た。
「確かか?」
「はい……今日は視察だと伺っています」
「ならば急ごう」
ジークリフトは王女の手を取ると直ぐに動き始めた。
「君が見つかると困るだろう? アダムから馬具と馬を受け取ったら直ぐに城へ帰れ」
三人は急いで階段を降り足早に通りへ出た。
「肉饅頭屋の前は避けた方が宜しいかと……」
ここへ来るまでの道のりを逆に行こうとした所でリーナスが声を掛けた。ジークリフトは怪訝そうな顔をしたが直ぐに思い当たった様で小さく「あぁ……」と呟いた。
「リロイといったか……彼奴に見つかっては大声で君の事を言い出しかねんな……わかった避けよう」
少し離れてリーナスがついて来るのを確認し、ジークリフトはそっと王女に言った。
「私と居た事も見られては不味い。君の顔を知っている者はディオニシス王や君の兄上の護衛の中には間違いなく居るだろうからな」
「そうですね……その者達は貴方の顔も知っているかも知れないですし……」
「あらぬ疑いを掛けられるのは避けたい……私はここに居る人物では無いから……」
王女はあらぬ疑いとは何だろう? と疑問に思ったが口にはしなかった。出来るだけ急いでアダムの鍛冶屋に戻ることが先だ。
少し遠回りにはなったが、リロイの立つ屋台の前を避け、二人はアダムの鍛冶屋へ戻った。到着して後ろを見ると、いつの間にかリーナスは居なくなっていた。
遠い異国の哲学者のニケアテレスは実在の人物ではありません。
彼の言ったという言葉共々、作った人物です。悪しからず……
元々、この「ガラスの植物園」は三部構成の作品として構想を練りました。
今は一部目の途中。
先はまだまだ長いです・・・。




