第23話 揺木霊園の影 1/4
揺木霊園…揺木市北西部にある市内最大の霊園。100年以上の歴史を持ち、広大な敷地内には数々の揺木の名士が眠る。市と角見神社の共同管理。
(出典:YRK作成「揺木の名所百選」20)
夜9時、揺木市緑羽地区。市内でもかなり奥まった所にあるため人口の少ないこの地域では、この時間になると道路沿いの往来もほぼ無く、街灯の朧げな光が等間隔に浮かぶだけの薄暗い光景が広がっている。そんな景色の中を、一人の中年男性が悠々と歩いていた。その傍らには大型犬。仕事帰りのこの時間に愛犬と近所を散歩するのが彼の日課だった。
この辺りは本当に静かでいい。単に住人が少ないというのもあるが、これほどまでに静謐な雰囲気が漂っているのは、すぐ近くにある揺木霊園の影響が大きい。明道あたりの繁華街や倉池のような治安の悪い地域ではとても真似できないだろう。犬に引かれるままそんな事を考えていた男の脳を、僅かな違和感が掠める。
「?」
男は思わず歩みを止め、そして気付いた。彼を取り巻く空気が、ビリビリと震えている。周囲を見回すと、電灯や街路樹さえも一緒に震えているように見えた。直後、冷気に包まれたような感覚が全身を駆け抜け、彼の本能が危険信号を鳴らす。一体これは……?
彼が思考を巡らすより早く、愛犬が唸り声を上げると一直線に駆け出した。
「おい、待てって……」
男は愛犬に引きずられるまま走り出す。車道を突っ切り、樹々の間を抜け、気付けば揺木霊園の中に入り込んでいた。敷地内に厳かに立ち並ぶ灰色の墓標が、月光に照らされて彼の視界に浮かび上がる。だが、男の視線は更に後方に引き寄せられていた。その辺りの区画はまだ平地のはずだが、白い霧が発生しているせいで先の様子が見えない。そして先ほどから感じている、身体を刺すような冷気。今なら分かるが、冷気はあの霧の向こうから漂ってきている。
「……」
男にまとわりつく冷気はやがて質量を増したかのように重くなり、彼の脚を金縛りのように竦ませる。だが、愛犬にはまだ冷気を跳ね除ける元気があった。遠吠えを上げ、まっすぐ前へと飛び出す。その勢いでリードが男の手を離れる。
「おい!」
白い霧の中へと駆け入っていく犬。男は慌てて追いかけるが、霧の直前で再び脚が固まってしまう。
霧の壁の向こう側から、音だけが聞こえてくる。愛犬の威嚇するような咆哮。何か巨大な物が地面をズルズルと引きずる音。そして突然、霧の反対側が明るくなった。一瞬のうちに出現した、火の玉のような赤い光の群れ。その明滅に照らされて、霧のスクリーンに禍々しい大樹のようなシルエットが映し出される。やがて大樹は太い枝を触手のように蠢かせ、愛犬の鳴き声は悲鳴のような甲高いものに変わり……
男は全身を恐怖に竦ませながら、その音をただ聞く他なかった。
揺木霊園に潜む怪物の噂は市内全体に拡散し、やがて城崎研究室にまで到達。森島辰真と稲川月美は調査のため、集めた情報の整理を開始した。
「事件が起こったのは揺木霊園の奥だ」
辰真が資料を読み上げる。
「この辺りは数日前から「ずっと霧が出ている」「奇妙な音がする」といった情報が警察に寄せられてたようだが、昨日の夜、とうとう実際に怪物に接触したという報告があった」
「…………」
「稲川?」
「…………」
月美は辰真の話を完全に聞き流し、天井を見上げていた。何かを考え込んでいるようにも見えるが、その眼には一切の輝きが無い。瞳の中に異次元空間が広がっているかのようだ。
ここ数日、月美は頻繁にこんな状態になる。間違いなく原因は魔石メギストロンだ。魔石そのものはあの夜に姿を消してしまったが、その存在は月美の心に今も影響を及ぼし続けているのだろうか。
「稲川、聞いてるか?」
「……はい」
ようやく月美が反応し、辰真に向き直る。
「すみません、何の話でしたっけ?」
「はあ、もう一回最初から言うぞ」
辰真が話を再開する。以前から妙な噂が流れていた揺木霊園で、昨夜怪物の出現報告があった。目撃者は飼い犬の散歩をしていた男性で、飼い犬が怪物に立ち向かい行方不明になったそうだ。男性は怪物を直接目撃はしなかったが、巨大な樹のようなシルエットを一瞬だけ見たようだ。既に霊園は閉鎖され、現在特災消防隊が出動準備をしている。
「情報としてはこんなところか」
「なるほど、把握しました」
「それで稲川、怪物について何か心当たりはないか?巨大な動く樹とか、そういうので」
「うーん」
考え込む月美。
「目撃した人の飼い犬って、結局どうなったんでしょう?」
「直接見た人はいないわけだから正確には分からないが、状況から推測すると、やっぱりその、食われてしまったんじゃないか?その人も相当落ち込んでたみたいだし」
「そうでしょうか」
月美は薄く笑みを浮かべる。輝きが復活した彼女の瞳に見つめられ、辰真は俄かに不安感を覚えた。辰真が眼を逸らすのも気にせず、月美はこんな事を話し出す。
「これは、かなり古い文献にしか載ってない話なんですが、太古の昔、南極で異次元生物が文明を築いていたって説があるんです。何十年も前に外国の調査隊が痕跡を発見したんですが、何故かそれを公表しないまま現在に至るとか。噂によると、調査隊は動物にも植物にも見える異次元生物の死骸を発見したんですが、解剖の途中でその生物が突然復活して、隊員の半分と調査犬全部が殺されたらしいんですよ。でも、犬と人間それぞれ一体ずつの死体だけが見つからなかった。理由は不明ですが、逆に彼らは異次元生物の調査対象として持ち去られたのだと言われています。興味深いですよね?」
「…………」
「どうしました?」
「その話で、一体何が言いたいんだ?」
「つまりですね、犬が行方不明になったのは捕食目的とは限らない。そして、怪物の外見が樹に似ていたとしても、植物とは限らないって事です。もう何件か被害が出ればはっきりするんですけど。ともかく、良さそうな資料を探してきますね」
月美は平然とそう言い放つと、研究室奥の倉庫部屋へ資料を探しに行ってしまった。
取り残された辰真は、暗い気持ちで今のやり取りを思い返す。今の月美は確かに理性を取り戻している。だが、その瞳の輝きは辰真の知っていた彼女の眼差しとは違うように思えた。その光は知性と好奇心によるものではなく、もっと異質で非人間的な物から生じているような気がしてならない。今なら分かるが、先ほど月美に見つめられた時、不安感と同時に意識が引き込まれるような誘引力が生じていた。心当たりは一つしかない。今でも脳内に朧げに残っている、暗闇を貫く赤紫色の光。辰真は月美の瞳の中に、あの光と同じものを見ていた。
月美は間もなく倉庫から戻ってきた。古書を何冊か抱えているが、いずれも辰真の見たことない物ばかりだ。
「それは?」
「これだけあれば特定には充分ですよ。ちゃんと持ってきてくださいね?じゃ、そろそろ出発しましょうか」
月美は手早く荷物をまとめると、さっさと研究室を出てしまった。仕方なく辰真も古書を鞄に詰め込み始めるが、憂鬱な気持ちは晴れることがない。瞳もそうだが、月美の態度は明らかに妙だった。辰真の知る月美は、アベラント事件フリークだったとしても良識はあった。犠牲になった犬を悼むこともなく、それどころか同様の事例が更に起きないかと期待するような物言いはしなかったはずだ。でも今の月美からは、そのような温かみは感じられない。
……あいつは本当に稲川月美なのか?胸の奥で密かに生じている疑念を押し殺し、辰真も調査に向かった。




