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第十三話 アベラント・ホリデー

 7月中旬、揺木大学。期末試験も終わり、授業から解放された学生達が次々と長期休暇に突入、構内から人の姿は日に日に少なくなっていく。社会学部城崎研究室所属の森島辰真と稲川月美は、前期最後のレポートを提出しにプレハブ小屋を訪れていた。レポートは無事に受理され、晴れて夏休み突入が確定したが、最後に城崎教授から気になる話が出た。

「研究室の再選択制度ですか?」

「ああ。今年から、前期の授業を終えたタイミングで一度だけ研究室を選び直すことができるようにルールが変わったらしいんだ。先生もついさっき知ったんだが。一応確認するけど、利用する気はあるかい?」

「わたしはもちろん変える気なんてありません!」

「だろうね。森島君は?」

「……使う、かもしれません」

「え?」

「そうか、まあ今すぐ決める必要はない。明後日までに連絡をくれ。それまで所属は一旦外しておくよ。そういうルールだからね」


 そんな会話から一日経ち、現在辰真は喫茶店スモーラーのテラス席にいる。空は霧一つない快晴。アベラント事件の対応に駆り出される心配はないし、勉強の必要も、大学に行く用事さえもない。完全にフリー状態だったが、特にやりたい事も思いつかなかったので、気付けばいつもの店で時間をつぶしている。何か生産的な行動はできないかと思い悩んだ挙句、今までの研究室生活を振り返りつつ再選択制度について考えることにした。


 そもそも辰真が城崎研究室に入ったのはアベラント事件に巻き込まれたのがきっかけだ。ドタバタしているうちに志望の研究室が軒並み募集を締め切ってしまい、単位の危機に陥っていたところ、事件を通して知り合った城崎教授に声をかけられた。城崎研究室側も学生が一人しかおらず、このままでは研究室の要件を満たせない非常事態だったため、半強制的に所属させられて今に至る。

 研究室入りしてからというもの、学生生活は良くも悪くも非常に充実し始めた。4月から現在まで、常にアベラント事件に駆り出されているかレポートを書いているかのどちらかだった気がする。

 よくよく考えると、自分が望んでいたのはもっと平穏で怠惰な学生生活だったはずだ。だいたい異次元社会学なんて名前からして胡散臭いし、研究対象は異次元生物や怪奇現象など物騒なものばかり。怪獣対策に駆り出されて命の危機にさらされたのも一度や二度じゃないし、事件が終わるとレポート地獄が待っている。授業の分と合わせて、レポートは既に常人の数倍書いてる気がする。他の所でどんな研究をしてるのか知らないが、今よりは確実に平和な生活を送れるに違いない。そういう意味で、今回の再選択制度は非常に喜ばしい。


 ……しかし。辰真が次に思い出したのは、昨日研究室から帰る時の出来事だった。いつもと同じように、唯一の同期である稲川月美と校門まで一緒に帰ったのだが、そこで月美にこんな事を言われた。

「その、無理に続けなくてもいいですよ?」

「え、何の話だ?」

「えっと、さっきの再選択の話です。森島くんは好きでここに入ったわけじゃないですから」

「いやでも」

「大丈夫ですよ。レイが名前だけなら所属してもいいって言ってくれてますからっ。わたしに気を使う必要はないです」

 月美はそう言うと、少し寂しそうな目をして微笑んだ。あの表情は一日経っても辰真の脳裏に焼きついている。


「……」

 辰真は手元のカップに視線を移す。コーヒーはすっかり冷めてしまった。黒い水面に映る自分の顔を眺めていると、不意に水面に波が立った。思わず周囲を見回す。相変わらず穏やかな気候だが、何故だろう、嫌な予感がする。僅かに震える空気。青空を覆うように広がり始めた薄雲。遠くで鳥の飛び立つ音。


 無論、思い過ごしと言ってしまえばそれまでなのだが、数々の事件経験のおかげで辰真の直感は鍛えられていた。それを裏付けるように、数分も経たないうちに遠くからサイレンの音が聞こえてきた。テラス席のすぐ横を通っている長大な揺木街道を、凄い速度で駆け抜けるオレンジ色の影。見間違えるはずもない、あれは特災消防隊専用車両クリッターだ。唸り声を上げるクリッターは一瞬で辰真の眼前を走り過ぎ、旭山の方向へと消えてしまった。さすが特災消防隊、迅速な出動だ。


 ともあれ、これでアベラント事件が起きたことは確定と言っていい。辰真は携帯電話を取り出し、試しに城崎教授に電話をかけてみた。やはり通じない。電波が届いていないようだ。それなら稲川に、と電話をかけようとして思い出した。そもそも今自分は研究室生ではないのだから、事件対応に行く必要はないのだ。携帯をポケットに戻して座り直す。

「……」

 なんだか妙に落ち着かない。


 少しすると、再び車の走行音が聞こえてきた。これまた見覚えのある小型バンが、クリッターの後を追うように揺木街道を走ってきてテラス席の前で停車する。

「あれ、アシスタント君?何やってるのこんなとこで」

 運転席から顔を出したのは揺木日報社会部記者の綾瀬川絵理だった。

「別に何も。やっぱりアベラント事件ですか?」

「そうそう!城崎先生から教えてもらったのよ。乗ってく?」

「いや、今はちょっと、お休み中なんです」

「ふーん。すっごく暇そうに見えるけどね。まっ、私はもう行くけど、後から来たら?」

 そう言い残すと綾瀬川記者は出発してしまった。退屈だから事件現場に向かう奴って、どれだけ酔狂なんだ。だが、暇だというのは彼女の見抜いたとおりだった。何故かは分からないが、先ほどからじっとしていられない気分になっている。どこかに出かけた方がいいかもしれない。……いや、現場に行くつもりはないが。


 辰真はスモーラーを出て商店街をぶらついた後、何の気なしに大学の方へと近付いていった。今さら大学に行っても仕方がないし、たまには百畳湖の方に行ってみるか。そう考えて揺木街道を横断しようとした辰真だったが、残念なことに街道は既に警察によって封鎖されていた。

「ん、城崎先生んとこの兄ちゃんか?なんで今頃こんな所うろうろしてんだ?」

 現場を仕切っていた味原警部補が辰真に声をかけてくる。またこの流れか。

「今日は休みなんですよ」

「休みぃ?ったく、学生ってのはいいご身分だよな。俺もたまには休ませてほしいよ。まあいいや、現場行かないならさっさと避難したほうがいいぜ!」

 そう言うと警部補は街道沿いに戻っていった。


「……」

 誰も彼も仕事熱心な人ばかりだ。とにかく、湖の方へ行けないなら戻るしかない。結局辰真は揺木大学へと入っていく。人気のない構内を歩きながら、選び直すとしたらどの研究室に行きたいか考えてみた。

 ……困ったことに、特に行きたい所が思いつかない。今年に入ってから色々な経験を積んだのに、どの研究室も経験を生かせそうにない。考えてみればそれも当然で、アベラント現象に遭った時の対処法が役立つ学問は異次元社会学くらいだろう。逆に、自分に足りていない経験や能力は何かないか?そうだな、レポートを迅速に提出する能力とか。……ダメだ、今の研究室に居ることを前提に考えてしまっている。


 思考を堂々巡りさせているうちに、気付けば敷地の一番奥まで来てしまっていた。お馴染みのプレハブ小屋が緑地の真ん中にぽつんと建っている。

「……はあ」

 結局ここに来てしまった。まあ、これ以上自分に嘘をついても仕方ない。事件が起きてしまった以上、ここに来ないと落ち着かないのは最初から分かっていた。別にやりたいわけではないが、そういう性分なのだ。それに、あいつを実質一人にしてしまうのはやはり後ろめたい。

 おそらく先生達は調査に出発済みで、小屋内は無人だろう。でも、ひょっとすると書き置きが残されてるかもしれない。無かったら味原警部補あたりに聞けばいいか。辰真はプレハブ小屋のドアに手をかけ、開けた。


「あっ」

「え?」

 部屋には、月美がいた。

 いつもと同じ椅子に座り、テーブルに地図を広げている。

 辰真の方を振り返って一瞬見せた驚きの表情は、すぐに満開の笑顔へと変わる。

「もー、遅いですよ森島くん!ずっと待ってたんですよ」

「待ってたって、俺をか?」

「当然じゃないですか!学生一人だけじゃ調査はできないんですから。アベラント事件が起きたら、森島くんなら絶対来てくれるって信じてました!」

「そうか」

 心底嬉しそうに語る月美の姿を見て、辰真も不思議と安心した気分になった。アベラント事件が好きになったわけでは断じてないが、これだけ喜んでくれるなら、もう少しこの研究室にいるのもいいだろう。他にやりたい事が見つかるまでは。

「はい、今回出てきた怪獣ペトロスの資料です」

「なになに、岩塊のような姿で頭頂部から雷撃を放つ……めっちゃ危険だなおい」

「でも出現したのは80年ぶりなんです。どんな子なのか楽しみですね!」

 いつものように軽口を叩きあいながら、二人は支度を始める。


「準備できました?」

「ああ。いつでもいいぞ」

「では、早速調査に向かいましょう。みんな現場で待ってますよ!」

 月美が研究室のドアを開け、辰真が後に続いて外に出る。

 外は霧がかった快晴。

 こうして今日も、調査が始まる。


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