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第六話 透明な呪縛 後編

 第六話 「透明な呪縛」 擬態大蜘蛛テクスチュラ登場 後編


 再び地下1階。透明な怪物の巣へと通じるL字廊下の入り口に辰真はいた。目の前には霧の粒子と埃が舞い散る薄暗い空間が奥へと伸びている。この先、角を曲がった反対側に奴はいる。いや、見えないだけで既に廊下のこちら側にまで進出している可能性がある。むしろすぐ近くに潜んでいるのかもしれない。この先一人で進まざるを得ないという不安感と相まって辰真の心は揺さぶられ、ネガティブな思考が募っていくが、今更引き返すわけにはいかない。

彼は大きく深呼吸すると、鞄から懐中電灯を取り出して廊下に向けた。光の筋が薄闇を突き刺すように伸びていき、奥の壁までを照らし出した。そのまま光を上下左右に動かす。見たところ、廊下のこちら側には糸は張られていないようだ。巨大な影が壁に浮かび上がったりもしないし、不気味な物音も響いてはこない。念のために自分の頭上や背後まで確認するが、大蜘蛛が潜んでいる気配はゼロだった。よし、問題ない。辰真は先に進む前に、自分の鞄から掌に乗るくらいの大きさの物体を取り出した。その丸っこく、カラフルで、表面に花の模様がプリントされている物体は、どう見ても芳香剤である。病室用に倉庫に大量に保管されていたのを辰真が鞄に詰め込んできたのだ。彼はゆっくりと廊下を進みつつ、数m置きに床に芳香剤を置いていく。間もなく廊下全体が芳しい香りで満たされる。先生の話では蜘蛛は嗅覚が鋭いらしい。これだけ強い匂いが発生していれば確実に嗅ぎつけてこちらに来るだろうが、同時に嗅ぎつけられるかもしれない辰真の匂いを打ち消してくれるはずだ。廊下を3/4ほど進んだ所で、L字の反対側から明らかに不自然な物音が聞こえた。天井を巨大な何かがガサガサと移動しているような音だ。辰真は慌てて廊下の隅に駆け寄り、柱の影に隠れて様子を窺う。少し待つと、その音は角を曲がってこちら側の天井へと移動してきた。上方に視線を向けても当然のように姿は見えない。移動音は辰真の真上を通過し、反対方向へと遠ざかっていく。恐らく芳香剤の香りを探知して来たのだろうが、真下に潜む辰真には気付いていないようだ。音を立てないように先に進み、角を曲がって廊下の反対側に転がり込む。


 一息ついた後、辰真は再び鞄に手を伸ばし、小型のビデオカメラを取り出した。起動させると側面の一つが真横に開き、カメラが見ている風景がモニターに映し出される。奇妙なことに、白い壁を映しているにもかかわらずモニターに表示される世界は濃い紺色一色である。辰真が自分の左手をカメラの前に持ってくると、今度は赤と黄色に染まった左手が表示された。問題はない。これは赤外線を可視化して熱分布を見ることができる、通称サーモカメラだ。先生が言っていた暗視スコープと原理は全く同じである。病院では一部の身体検査でサーモカメラを使用することがあると辰真には聞き覚えがあったのだが、それを思い出して倉庫を探した結果幸運にも置いてあったのだ。サーモカメラを起動させたまま、辰真は廊下の反対側を壁の裏からこっそり確認する。上方にカメラを向けると、モニターには天井に掴まる巨大な黄色い影が浮かび上がった。影は8本の脚をざわめかせながら進み、天井から灰色の糸を垂らして床へと降下し始めている。その姿をカメラに収めた後辰真は顔を引っ込め、改めて廊下の進行方向に向き直った。廊下の奥には相変わらず霧が立ち込めていて、その更に奥に異次元への黒い裂け目が僅かに見える。今のうちに端まで進んでしまいたいが、こちら側には透明な巣が張られている。注意しなければ。

辰真は再びサーモカメラを構えた。そして、思わずカメラを取り落としそうになった。モニターに映し出された通路には、廊下の端にいるはずの辰真のすぐ傍に至るまで灰色の糸が縦横無尽に張り巡らされていた。どうしたものか。観察したところ、幸い糸と糸の間にはある程度の空間的余裕があり、うまく間を抜ければ奥まで進むのも不可能ではなさそうだ。しかし、一度でも引っかかったら非常にまずい。動けなくなるかもしれないだけでなく、振動が巣の主に伝わる可能性がある。とはいえ、主が廊下の反対側に行っている今なら少しくらい揺れても気付かれないだろう。辰真は意を決して進軍を開始した。


 糸と糸の隙間を進む。匍匐前進のような姿勢だが、右手は常にサーモカメラを構えて周囲の糸を確認し、左手には鞄を抱える。こんな体勢のせいで移動速度は非常に遅い。秘密金庫に忍び込み、大量の赤外線センサーをくぐり抜けて進む怪盗になったような気分だ。トカゲのように床を這いつつ廊下の中間あたりまで進んだ所で、周囲の糸が妙に揺れているのに気付いた。

「……っ!」

 辰真は体を壁際に寄せ静止する。ただしカメラは目の前に構えたままだ。そのまま少し待っていると糸の振動はますます激しくなる。どうやらテクスチュラが芳香剤の観察を終え、巣に帰還してきたらしい。耳を済ますと糸の上を歩く微かな移動音が聞こえる。音は少しずつ大きくなり、辰真の目の前に張られた糸が深く沈み込んだ。姿こそ見えないが、テクスチュラが接近してきているのは間違いない。そして間もなく、辰真の視界(正確にはサーモカメラのモニター)の端に黄色い物体が映り込んだ。言うまでもなくテクスチュラだ。黄色い8本の脚を持った怪物が目の前を横切っていく。早く通り過ぎてくれという一心で待ち続けていた辰真だったが、その願いは儚く消え去ることになった。大蜘蛛が途中で動きを止め、こちらに顔を向けたのである。1mくらいの至近距離から、赤みがかったオレンジ色の8つの丸い眼がモニター越しに辰真を見つめていた。それでも辰真は石像のように動かなかった。いや、動けなかった。先生の話を思い出す。「蜘蛛は一般に視力は低く、音や振動で獲物を探知する」。下手に動くと、獲物と認識されて襲われる可能性がある。……芳香剤の匂い消しがまだ効いているならの話だが。しばらくの間、辰真にとっては永遠とも思えるほどの時間、テクスチュラは辰真の方を見やっていたが、やがて顔を背けると来た道を引き返して行った。移動音が完全に聞こえなくなったのを確認すると、辰真はようやく全身の緊張を解いて壁にもたれかかる。どうやらテクスチュラは、辰真の微かな匂いに反応したものの相手が動かなかったためスルーの判断を下したらしい。

 ひとまず危機は脱した、先に行こう。辰真は再び糸の間を進む。敵基地に忍び込んだ潜入工作員のようにゆっくりと匍匐を続け、とうとう廊下の反対側の端へと到着した。最後まで糸に用心しながら立ち上がり、先ほどは辿り着けなかった廊下の突き当たり、壁に空いた黒い空間を眺める。異次元との境界面にこれほど近付いたのは(幽霊屋敷の時を除けば)始めてだ。境界の断面は黒と虹色が混じった不思議な色合いだ。辰真は断面をずっと眺めているうち、電灯に引き寄せられる蛾の仲間のようにふらふらと境界面に近付いている自分に気付き、慌てて数歩後ろに下がった。それが間違いだった。偶然そこに転がっていた、先ほど使用した消火器を踏みつけてしまい、辰真はバランスを崩して床に倒れた。廊下に鈍い振動音が響き渡る。更にその衝撃でサーモカメラが手から離れ、床の上を滑っていく。咄嗟に手を伸ばすが、カメラは糸が張り巡らされた蜘蛛の巣の内側へと入り込んでしまった。

「……っ!」

 辰真は左脚を押さえる。倒れた時に左脚で床を突いたために軽く捻ってしまったらしい。立ち上がれないほどではないが、大きな移動は難しそうだ。なお悪いことに、廊下の反対側から移動音がこちらへと急速に近付いてくる。テクスチュラが異常を察知したのだ。まずい。生命線のカメラを失ってしまった。移動も制限されているしそもそも廊下のこちら側は袋小路だ。どうする?辰真はそろそろと立ち上がりながら周囲を見回し、この事態の元凶である消火器に目を留めた。

サーモカメラを手放した辰真にはもはやテクスチュラを視認することはできなかったが、先ほどギリギリまで接近されていたこともあり、大蜘蛛がどの程度まで近付いてきているのか何となく分かるようになっていた。消化器を握り、巣の正面で待ち構える。やがて目の前の半透明の糸が沈み始めたのを見た瞬間、辰真は消火器を再噴射した。そのまま、残り全ての消火剤を使い切る勢いで巣の全面に撒き散らす。空中に散開した白い粉は、やがて一部が固定され、巨大な蜘蛛の輪郭を形作った。またしても白く染められたテクスチュラは、気にせずこちらへの前進を続けてくる。大蜘蛛が辰真の眼前に到達したと同時に、消火剤が切れて粉が出なくなった。テクスチュラは再び重高音の唸り声を上げた。至近距離からの威嚇に全身が竦みあがり、消火器が辰真の手から落ちる。

まずい、また金縛りになりそうだ。必死に抗おうとするが体は自由に動かず、空いた両手を引っ込めるくらいしかできなかった。だがその時、懐に入った右手が内ポケットの何かに触れた。これは……先ほど拝借した、月美愛用のデジカメだ。そうだ、あいつのためにも、ここで固まるわけにはいけない。カメラに触れた瞬間に右手に、次いで全身に自由が戻ってくる。辰真は敢然とデジカメを引っ張り出すと、テクスチュラの眼前で思いきりフラッシュを焚いた。薄暗い通路内に閃光が何度も迸り、大蜘蛛の6個の眼を直撃する。視力の弱いテクスチュラが突然の襲撃に戸惑っている隙に辰真はデジカメをしまい、左脚を引きずりながら匍匐して大蜘蛛の脚の間を抜け、反対側へと逃れる。

うまくテクスチュラの背後に回り込んだものの、それより後ろは糸が密集していて簡単には下がれない。そして目眩から回復したテクスチュラは、すぐに辰真の方向に向き直って睨みつける。廊下の端に逃げ場がないとはいえ、更に逃げにくい巣の内側にどうして入ったのか?もちろん、考えなしの行動ではない。稲川からはもう一つ拝借した物がある。辰真の右手にはスプレー缶が握られていた。缶の表面には、触角の長い黒光りする昆虫が天に召されている様が描かれている。辰真はテクスチュラの鼻先(と思われる場所)に殺虫スプレーを突きつけ噴射した。強烈な刺激臭が大蜘蛛の鋭敏な嗅覚を襲い、テクスチュラは激しく頭を振って悶絶した。辰真は手を緩めず二度、三度とスプレーを押す。大蜘蛛が少しずつ後ずさり始める。噴霧しながら思い切って前へ一歩を踏み出す。蜘蛛は後ろへ下がる。辰真は前進しながら毒の霧を噴射し続け、テクスチュラはその度に後退していく。やがて大蜘蛛の後脚は廊下の壁に開いた異次元の境界面に接触し、そのまま境界の内部へと消えていく。テクスチュラの全身が境界面に押し込まれ姿を消すまで、辰真は噴霧と前進を続けた。大蜘蛛が完全に廊下から消え去っても辰真は壁に向かってスプレーを構え続ける。やがて黒い境界面が徐々に消失し、霧も晴れた段階になって始めて彼の全身から力が抜け、壁へと倒れかかった。


「う……ん……」

 何やら混沌とした夢から月美は覚醒した。記憶が混濁し、自分がどこで何をしているのか判然としなかったが、目を開けると自分がどこか見覚えのある部屋で横になっているのを発見した。ここは……総合病院?

「起きたか?」

 窓際には誰かが立っていて、目を覚ました月美の元に歩み寄ってきた。ゼミの同期の森島辰真だ。なぜ彼がこんな所に?

「……あ」

 次の瞬間、飛散していた記憶が一斉に再生を始めた。病院にいる理由、辰真がいる理由、そして自分が気絶した理由。

「森島くん、これは……えーとですね……」

 困惑、焦燥、恐怖など、脳内で様々な感情が渦巻いてうまく言葉を紡ぐことができない。だが、月美が何か発するより先に辰真が口を開いた。

「心配するな。あいつはもう追い払った」

「え?」

「だから大丈夫だ。あいつはもう地下から逃げたからこっちに来る心配はないし、まだ病院の人は呼んでない。時間的にもうすぐ来るけどな。で、立てるか?」

 珍しく早口でまくし立てる辰真を眺めるうち、月美は彼の衣服のあちこちが埃や煤のようなもので汚れているのに気付いた。更に首からは見覚えのあるデジカメを提げている。というかあれは自分のだ。

「ええと、つまり……」

 月美にも段々と事情が分かりかけてきた。

「……もういないってことですか?」

「ああ。一応写真には撮ってある。勝手に借りたのは悪かった」

「いや、それはいいんですけど、まさか一人で行ったんですか?そんなの危険すぎますよ!」

「ま、今回は何とか無事だったな。それに、記録上は二人で行ったことにしておく。レポートも合作ってことにしとけば大丈夫だろ。今回だけだぞ」

 辰真はそう言い残すと後ろを向き、やや脚を引きずりながらベッドから離れていってしまった。月美はその場に残されたが、心は暖かかった。

「森島くん……ありがとう」


 結局、テクスチュラ事件は二人が協力して解決したという内容で報告された。その噂が広まり、揺木総合病院内での城崎研究室及び月美の評価は少し上がったらしい。第4病棟は全面改装が決定し、梅原看護師を始めスタッフや患者達も喜んでいるとの話である。そして事件後数日間、辰真は脚の治療のため総合病院に通うことになったのだが、何故か病院で待機している月美が異様に優しく、毎回高価な見舞い品を持ってくるのには少々閉口した。


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