第六話 透明な呪縛 中編2
第六話 「透明な呪縛」 擬態大蜘蛛テクスチュラ登場 中編2
全身を白く染められた不可視の怪物は、二人の前にその全貌を曝け出した。捩れた丸太のように太く剛毛の生えた8本の脚。荒れ果てた岩場を思わせる硬く刺々しい装甲に覆われた胴体。不気味なほど整然と並んだ8つの丸い眼。天井を這うようにして二人に迫るのは、全長5m近い体躯を持つ大蜘蛛であった。とうとう怪物を視認させられた辰真は、金縛りにあったかのように体を動かせなくなる。事前に正体を聞かされていたとはいえ、覚悟していた予想と実際目にした姿とには生々しさと迫力において圧倒的な乖離があった。虫類に少しは耐性がある辰真でさえこうなら、月美はどうなるのか?辰真は視線だけどうにか動かして真横を窺う。月美も同様に立ち尽くしていたが、辰真とは違い完全に硬直してしまい呼吸もできない様子だ。しかも顔色はひどく青ざめ、表情は怯えを通り越して無感情に近く、発狂5秒前といった様相である。こりゃダメだ、一人でどうにかするしかない。そう思った瞬間、辰真の金縛りが解除される。
それからの数秒間、辰真の頭の回転は自分でも驚くほどに早かった。自由になった右腕を自分のカバンに伸ばし、一瞬でライターを取り出す。そのままゆっくり数歩後ろに下がり、震える手でライターを着火して彼らを拘束している糸に押し当てる。間もなく糸が発火し始め、ほつれてきたところで月美の背中を軽くトンと押した。彼女がよろめく勢いで糸がぷつりと切れる。
「走れ!」
辰真はそう叫ぶと斜め上方にライターを放り投げて走り出した。……しかし、一緒に走り出した月美は少し進むと崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。両手で体を持ち上げようとしているが、明らかに立ち上がれないほど足が震えている。仕方がない。辰真は彼女のリュックを掴み、引きずるようにして走り出した。
二人はL字廊下を駆け抜け、巨大蜘蛛が巣食っていない側に逃げ込んだ。辰真が角から向こうの様子を覗き見る。体に着いた消火剤を振り落とし再び透明になり始めている大蜘蛛は、巣の修復に躍起になっているようで、こちらを追ってくる気配はない。振り返って相方の様子を見る。未だ青ざめた顔をした月美は、廊下の隅で体育座りをしていた。
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます……私は大丈夫ですから……」
声の時点で既に大丈夫とは思えない上、見ている方が気の毒になるレベルで全身が震えている。ショックが大きすぎて虚勢を張る元気もないようだ。
「あー、もう歩けるか?」
「はい……」
月美は何度か立ち上がろうと試みるが、下半身が麻痺したかのように全く動かず、自力での移動は困難なようだった。辰真は密かに溜息をつく。この状態では調査の続行など不可能だろう。幸いここは病院だし稲川の身内もいる。一旦引き上げて稲川を誰かに引き渡し、先生に連絡して増援を待った方がいい。
「よし、一階まで行くぞ。無理そうなら誰か呼んでくる」
「誰かって……誰を呼ぶんですか?」
「そりゃ病院の人だよ。稲川兄貴でも誰でもいいけど」
辰真としては、そこは月美も当然理解しているという前提で話を進めようとしたのだが、彼女の反応は辰真の想定とはまるで違っていた。
「だ、駄目です……やめてください!」
「え?」
「だから、病院の人を呼ぶのはダメって言ってるんです!」
大グモが近づいてきた時にも劣らぬ必死さで月美が叫ぶ。
「だって、その状態じゃ動けないだろ?助けを呼んだ方が」
「わたしは大丈夫ですから、呼ばないでください!」
「いやでも」
「とにかくダメ!」
その場にしゃがみ込んで動けないまま、月美は断固として救助を拒否する。別に見知らぬ相手でもないのに、どうして拒むのか?いや待てよ、大グモに直面したことで思考が混乱しているのかもしれない。それなら、無理矢理にでも連れて行くべきか。
「ほら行くぞ、ここにいたらまた奴が来るだろ」
辰真は強い口調で言うと月美に手を差し伸べるが、月美は膝を抱えた腕の間に顔を埋めてしまった。
「戻るくらいなら……ここにいる方がましです」
「どうしてだよ」
「だって……」
月美は下を向いたまま何事か呟く。
「……じゃないですか……」
「何だって?」
「ろくに調査もできずに助けを求めるなんて、あまりにも情けないじゃないですか!」
「……」
月美は再び声を落とし、ぽつぽつと語り始める。
「わたし、小さい頃から、自分に自信がなかったんです。家族はみんな凄く優秀なのに、わたしには何の取り柄もなくて。みんなはそれでも優しくしてくれましたけど、いつ見限られるんだろうってずっとビクビクしてました。だから、今回の事件がここで起こったって知った時、事件を鮮やかに解決してみんなから見直してもらえるチャンスだって思いました。それなのに、こんな体たらくじゃ、恥ずかしくて死にたくなります」
「……」
「わたし、怖いんです。クモよりも何よりも怖い。みんなから失望されるのが怖い!」
「……」
月美が口をつぐみ、その場に沈黙が訪れる。辰真は何か声をかけようとしたが、言うべき言葉が見つからなかった。そして、その沈黙を破ったのは2人のどちらでもなく、真上から突然ドサリと降ってきた一握りの白い粉だった。辰真と月美はゆっくりと顔を上げる。2人が話している間に、それは天井に張った糸を伝って音もなく接近してきていたらしい。体の粉を半分ほど振り落とし、白と透明の奇妙な斑模様となった大蜘蛛は、今や頭部を2人の頭上1m辺りにまで降下させ、8つの白濁した眼で彼らを凝視していた。更にその至近距離で、2人を威嚇するように圧縮空気のような唸り声を発した。
「あ……ああ……」
顔色が病的に白くなった月美は、呼吸の仕方を忘れたかのように口をパクパクさせると、突然両目を閉じて床に崩折れた。
「おい、大丈夫か?」
辰真が頭上のクモのことも忘れて月美に駆け寄る。辰真に揺り動かされ、助け起こされても月美は反応を返さなかった。彼女は気絶していた。
「じゃあ本当に透明な怪物がいたわけか。君達のアベラント事件引当率は大したもんだ。何かに取り憑かれてるんじゃないか?」
「やめてくださいよ。それより、あいつは一体何なんです?」
「透明化能力を持つ異次元生物はその特性上目撃情報が少ないから、研究もあまり進んでいない。だが、巨大な蜘蛛というのが正しければテクスチュラでほぼ間違いないだろう」
「テクスチュラ?」
「そうだ。体表に持つ特殊な色素細胞と光反射細胞を巧みに調節し、周囲の景色にほぼ完璧に溶け込む。その擬態精度は恐ろしく高く、出会った人間は衝突するまで自分の正面に巨大な蜘蛛がいることに気付かないという。看護師さんの話とも一致しているだろ?」
「……確かに」
「もう一つの証拠として、テクスチュラは半透明な糸で巣を作るんだ。気付かずに巣に絡まってしまえば、人間と言えど脱出は不可能だろう。蜘蛛の糸は同じ太さの鉄の4倍の強度を持つと言われているからね。君達が捕まらなかったのは幸運だった」
「まったくです。それで、テクスチュラはどうやって撃退すればいいんですか?」
「おお、今日は珍しくやる気だね。僕も直接対面したことはないから、一般的な透明生物とクモ対策くらいしか答えられないんだが、そうだな………異次元生物の持つ透明化能力は、大きく二つに分けられる。一つは周囲の光を屈折させ、相手の視界から完全に消え去るという方法。もう一つは体色を周囲と完全に一致させるという方法だ。前者に近い能力を持つ生物は地球上にはまだいないが、後者はカメレオンやタコなんかが使っている擬態能力の発展系だね。そしてテクスチュラの透明化能力は後者なのは明らかだ。光を屈折させていたら影なんてできるわけがない。となると、変色できないように色を付けてしまうというのは有効な対策だよ。君達が消火器を使ったのはいい線いってたということさ」
「あれは稲川の案ですよ」
「そうかい、どちらでもいいけど。それから、いくら透明と言っても体温はあるわけだから、暗視スコープのようなものがあれば一発で見えるようになる。ま、そうそう都合よく持っているものではないけどね。後はそうだな、蜘蛛は一般に視力は低く、音や振動で獲物を探知する。その代わり嗅覚は非常に優れているそうだ。あ、看護師さんの話を聞く限りだと、幸いテクスチュラは腕に噛み付いただけでそれ以上襲ってきたりはしなかったようだね。蜘蛛ってのは肉食性だから最悪の場合も考えていたんだが、その可能性は低そうだ。といっても非常に危険なのは間違いない。取材はまた今度にしてそちらに合流しようか?」
「いや、二人で対応できます。あまり大事にしたくないって稲川も言ってます」
「そうは言ってもだね……ザザザザザ……あれ、そろそろ電波が……ザザザ……」
「ここもそろそろダメみたいです。ありがとうございました、失礼します」
辰真は城崎先生との通話を打ち切った。手にした携帯電話の画面に表示されているアンテナは0本。通話を始めた時は辛うじて1本だったので、この場所までアベラントエリアが拡大しているのだろう。
辰真が立っているのは第4病棟の一階、入口付近にある小部屋だった。予備の病室兼倉庫として使われているらしく、部屋の半分は医療道具や入院患者用の品物が雑多に置かれた棚になっており、残りの半分には小さめのベッドが置いてあった。彼は携帯を懐にしまうと室内を振り返る。ベッドには月美が寝かされていた。未だ目覚めないが、脈拍や呼吸は正常のようだ。先ほどの大蜘蛛襲来で彼女が失神した後、辰真は無我夢中で逃走を図り、気付けば彼女を背負って一階まで逃げ延びていた。いくら月美が小柄な体格をしているとはいえ、人間一人を背負って逃げおおせられるとは辰真本人にも予想外だった。火事場の馬鹿力としか思えない。
辰真は小さく溜め息を吐いた。今の電話であの怪物改めテクスチュラの情報を色々と得ることはできた。それを含めて検討しても、現在の状況が彼らにとってかなり厄介なことに変わりはない。普通に考えれば最善手は、第4病棟を出て月美を関係者に預け、先生の到着を待つことだ。行動不能の仲間を守りつつ1人で透明蜘蛛に立ち向かうより遥かにいい。それ位のことは辰真にも分かっている。だが月美のことを考えると、どうしても実行に移す気にはなれなかった。仮に今から本棟の方に稲川を連れていったらどうなるか。何しろ院長の娘、立派なお嬢様だ。倒れたとなったらかなりの騒ぎになってもおかしくない。そうなると間違いなく身内にまで情報が行き、家族にコンプレックスを持つ稲川の精神に重大な悪影響が出る可能性が高い。事情を知っていて匿ってくれそうな京子さんも今は療養中だし、残念ながら頼りになりそうな人が他に思いつかない。先生を呼んでも同じことだ。先生が来れば稲川会兄は丁重に扱うだろうから、1人でここまで来ることはまずないだろう。だから電話で予め断わっておいた。更に言えば、先生がこっちに向かっているとしても、到着する前に稲川兄が巡回員を送り込む時間が来てしまう。巡回員が来た時点で稲川が発見されるのは確実。時間的余裕はあまりない。要するに、結局「行動不能の仲間を守りつつ1人で透明蜘蛛に立ち向かう」しかないということだ。その上周囲の助けは期待できず、時間制限まである。
「……しんどいな」
もっと楽な手段を取ることはできる。別に月美を病院側に引き渡したところで、辰真が後ろめたい思いをすることは全くないのだ。当然の義務を果たしたまでなのだから。それに、プロである先生の助力を仰いだ方が最終的には良い結果が出る可能性が高い。
だが、どれだけいい案が出たところで今や遅過ぎる。彼は既に決意していた。辰真は部屋の隅に放置された月美のリュックサックから使えそうな物を取り出しながら思案し始めた。更に部屋の棚を物色し、そこである物を見つけて動きを止める。使えそうだが、他にも必要な物がある。病室に行けばあるだろうか。辰真の影は小部屋から離れ、第4病棟の奥へと静かに消えていった。




