第31話 揺木市防災訓練記録 〜SOS薄明山〜 1/5
都内某所。揺木大学異次元社会学部教授の城崎淳一は、白く光沢のある壁で両側を挟まれた無機質な廊下を歩いていた。床に敷きつめられた灰色のタイルに、彼の靴音が響き渡る。両側の壁には一定間隔で額縁が飾られているが、その中身は通路を挟むことで見事なまでに対照を成していた。つまり、右側の壁には世界中で報告された数々の異次元生物のスケッチ。そして左側の壁には、人類の叡智が詰め込まれた数々の異次元装置の設計図。時折すれ違う人々は、スーツに白衣、作業着と服こそバラバラだが、全く同じデザインの紋章が付いた名札を提げていた。彼らは全員、異次元に関する研究に携わることで共通している。
ここの名は「異次元中央研究所」、略して異中研。頻発する異次元事件に対応するため、日本政府が水面下で設立した研究機関である。日本全国で発生したアベラント事件の情報を収集・分析し、異次元生物の研究や異次元エネルギーを使用した装置の開発等に日々勤しんでいる。当然、所属しているのは日本最先端の知識・技術を持った異次元専門学者ばかりであり、城崎教授も揺木大学に赴任するまではここに籍を置いていた。やがて廊下の突き当たりに辿り着いた城崎教授は、行く手を遮る白いドアを数回ノックする。数秒後、ドアは音もなく真横へとスライドした。
ドアの向こう側の小部屋は壁を本棚に囲まれ、中央には巨大な応接テーブル、その奥には小さな作業机が置いてあったが、テーブルも机も雑多な資料や報告書、異次元装置の模型などで埋め尽くされていた。更に床には本棚に入りきらない書籍が積み上げられるなど、どことなく城崎研究室を思い出すような散らかり具合だ。そして作業机(の残されたスペース)では、白髪を綺麗に七三分けに整えた老年の男が報告書に目を通していた。そう、彼こそがこの部屋の主にして城崎教授の恩師、加えて異次元中央研究所の所長でもある角谷健三その人である。
「失礼します」
「おお、来たか淳一」
角谷所長は報告書から目を上げ、教え子に声をかける。
「顔を合わせるのは16日ぶりだな。揺木はどうだ」
「最近は目立った事件も無いし、平穏ですよ。と言っても、学生達は毎週のようにレポートを上げてきますが」
「相変わらず事件に巻き込まれやすい体質の教え子達だな、昔のお前程じゃないが。確かエーテル系の事件に巻き込まれてた筈だが、そっちの進展は?」
「本人達はすっかり回復してます。ただ、ここの分析班に回した例の書物の解読がまだ終わってないので、動くのはそちらが完了してからですね」
「それは良かった。……若い連中が羨ましいよ。こんな仕事より、地方で事件を調査してた頃の方がよっぽど楽しかったからな」
「まあ、そう仰らないで下さい。今度彼らを連れてきますから」
「レポートも忘れずに頼むぞ。数少ない楽しみなんだからな」
「了解です。ところで……今日の要件は?」
「そうだった、すっかり忘れてたよ。最近物忘れが激しくてな」
冗談めかして言っているが、所長の目は全く笑っていない。それを見て城崎教授は、今から出てくるのが面倒な案件である事を察知した。
「昨日、ARAから連絡があった。揺木の特災消防隊の活動を視察したいそうだ」
「ARAですか……」
その単語が出てきた瞬間、室内の空気が僅かに緊張した。Aberrant Research Administration、すなわち異次元調査管理局とは、アメリカの異中研に相当するとされる地下研究機関であり、異次元科学に関する研究では世界でも最先端の知識を有している。日本の異中研にも多大な資金的・技術的援助を行なっており、実質的に親組織に近い存在ではあるが、彼らの間に走った緊張の理由は単純な苦手意識のみではない。ARAは極端な秘密主義であり、その実情は異中研のトップにさえも明かされていない。その割に、異中研の研究成果は大部分がARAに筒抜けとなっている。はっきり言ってしまえば胡散臭い組織であり、異中研の職員にとっては畏敬よりも不信の感情の方が先に来る。ARAとはそんな存在だった。
「でも、なぜ特災消防隊の視察を?研究データなら毎月送っている筈です」
「揺木は日本どころか世界でも希少な、異次元行政の最前線だ。直接確認したいという要望が出ても不思議ではない」
「なるほど……具体的な日程の要望は?」
「来月、そっちで特災消防隊の防災訓練があったと思うが、それを見学したいという話だ」
「防災訓練ですか。まあ、その位なら問題はないと思いますが__」
ARAにしては控えめな要求ですね、と言いかけた城崎教授だが、所長の表情を見て言葉を飲み込む。所長がこの案件に何か大きな懸念を感じていることが、付き合いの長い教授には分かった。こちらに隠し事をしているというよりは、恐らくは直感によるものだろう。
「……それで、視察に来る方の詳細は?」
「ドクター・ソルニアス・トゥモローが護衛と共に来日する。異次元犯罪学の権威で、ARAの大物の1人だ。資料はこちらで集めておいた」
所長が手渡したファイルには、ドクターの顔写真や経歴が纏められている。決して充分な情報量ではないが、これだけでも異中研トップが権力を駆使してようやく集めた物なのは間違いない。
「ドクターは初日はここに滞在予定だ。君には、ここから揺木までの送迎を含む視察中のエスコートをお願いしたい」
「了解です。……それで、先生のお考えは?」
「ん?」
「直感でいいです。先生の勘はよく当たりますから。注意すべき点はありますか?」
そう聞かれると所長は、軽く溜め息をつく。
「あくまで個人の予感だからな、責任は取れんぞ……正直に言って、ARAの連中が防災訓練の見学程度で満足するとは思えない。ドクターの言動には十分気をつけてくれ。無論、最悪の事態を想定して、だ」
特災消防隊の防災訓練にARAが襲来するという情報は、ほぼ同時期に隊員達へと伝えられた。
「は?防災訓練にアメリカのお偉いさんが来るだと?」
素っ頓狂な声をあげる高見に答えたのは、異中研から出向している袋田だった。
「うん。僕も昨日向こうの上司から聞いたんだ。あっちもかなり混乱してるみたいだったけど」
「わざわざ俺たちの訓練の日付に合わせて来るって事か?そいつらよっぽど暇なんだな」
通常日本の企業や自治体では、「防災の日」に制定されている9/1以降年末までのいずれかの日程で防災訓練が行われる場合が多い。揺木市でもその例に漏れず、来たる11月初旬に市を挙げての総合防災訓練が予定されていた。揺木消防署でも、警察署と合同の防災訓練を実施した後は毎年恒例の市民向けの防災指導や消防設備の体験、消防車両の見学会などを行う予定である。ただし特災消防隊に関しては、設立間もないこともあり防災訓練は非公開で行い、訓練終了後にクリッターとムベンベの見学を児童限定で実施するのが本来の計画だった。
「まー別に誰が来たっていいけどよ、やるのは結局訓練ってのが面白くないよな」
「聞き捨てならないぞ高見。たとえ訓練であっても、全力でやり抜くのみだろう!」
話に割り込んできたのは、同じく隊員の時島だ。相変わらずの暑苦しい様子に、高見は辟易しながら返す。
「うっせーな、分かってるよそんな事は。俺が言いたいのは、折角アメリカから来るのに、俺達の本当の活躍を見せられないのは残念だって事だ。俺らほど怪物を撃退してるチームはアメリカにだって居ないに違いないぜ。だろ?」
「やや自信過剰な気はするが……その心構えは大事だな!」
「そんなこと言ってると、訓練の日に本当に異次元生物が出ちゃうかもよ?」
この時はまだジョークを言う余裕があった隊員達だが、防災訓練の日程が近付き、署長達上層部の動きが慌ただしくなるにつれ、段々と署内の空気にも緊張が走り始める。




