第四話 百畳湖の怪物 前編
第四話 「百畳湖の怪物」~揺木水獣ヒャクゾウ登場~ 前編
揺木中央公園内、百畳湖の岸辺。既に太陽は西の空に沈みかけ、茜色から灰色へ変化しつつある空が地表全てに薄い影を落としている。日中は市民で賑やかだった園内も今は人影がほぼ消え去り、年配の清掃員が一人残って掃除をしているだけだった。湖畔は静寂に包まれ、聞こえてくるのは彼が落ち葉を掃く音と、湖面から時折聞こえてくる風と波の音のみ。清掃員は掃き掃除を止め、腕時計を見る。清掃業務のシフトは18時までだが、10分ほど定時を過ぎていた。孫にお土産を買って帰る時間がなくなるかもしれない。今日は終わりにしよう。彼は引き上げる準備を始めた。
その時、湖の方から一際大きな波音がした。何かが水中で跳ねたようだ。確かに夕方になると魚が水面で跳ねることはよくあるが、こんなに大きな音はしないはずだ。ということは、何か巨大な生物がいるのか?老人は湖面に目を向ける。湖の中央付近がぼやけてよく見えない。霧が発生しているのだろうか。百畳湖に霧、そして巨大な生物……彼は昔の噂を思い出していた。確かあれは40年くらい前、まだ自分が20代だった頃。百畳湖に巨大な怪物が棲んでいるという噂があったっけ。当時は日本各地の湖で同様の風説が飛び交っていたので、彼自身は噂を信じてはいなかったが、揺木市内ではそれなりに話題になっていたような記憶がある。あの怪物は何という名前だったか。確か、ヒャ、ヒャク……その時、先程より更に大きな音がした。何か巨大な物が水を跳ね上げているような音だ。清掃員は岸に近づき、懐中電灯で湖面を照らした。黄色い光の輪が水面に映し出され、奥へと滑っていく。光は湖の中心へと近づき、霧の中に突入した。しばらくの間、浮かび上がるのは白い霧がかった湖面だけだった。やはり気のせいだったか。彼が諦めて光を消そうとした時、もう一度水の音が鳴り響いた。そして光は照らしだした。湖上に姿を現した巨大な影を__
揺木大学北部、城崎研究室(臨時)の室内。城崎研究室所属の森島辰真は、例によってレポートと苦闘していた。といっても、ここ数日でアベラント事件が発生したわけではない。彼を今苦しめているのは、研究室所属ならば必修である城崎教授の講義「異次元社会学」で課されるレポートだった。現在日本で唯一、揺木大学のみに設置されている「異次元社会学」は、教授の独自の視点から世界各地の神話や伝承、怪奇事件などを異次元現象と結び付けて説明する斬新な内容だったが、毎週課されるレポートの量の多さから、人気に反して受講している学生の半分はモグリという状態だった。実際にアベラント事件を調査した際に提出するレポートに比べれば軽いとはいえ、両方のレポートを消化しければならない研究生にとっては負担であることに変わりはない。辰真がノートPCの画面を睨み付けていると、同期の稲川月美が二限を終えて部屋に戻ってきた。
「今日も外はいい天気で……って、まだレポート終わってなかったんですか?」
「そうだよ、悪かったな」
辰真よりも研究熱心な月美は既にレポートを提出済みで、今後発生するかもしれないアベラント事件に備えて待機中である。
「今回のレポートって、揺木市の怪奇現象の言い伝えを一つ選んで調べろってやつですよね?私たちがいつもやってる事に比べれば簡単じゃないですか?揺木の伝承なんていくらでもありますし」
月美の言う通り、揺木市における怪奇伝承は他の地域に比べても格段に多い。城崎先生に言わせれば、これが揺木で古くからアベラント事件が発生していたことの証左になるそうだ。
「そりゃそうだが、量が多いと逆にどれを選ぶべきか悩むんだよ。研究室生は採点が厳しいだろうだから、生半可なやつは選ばない方がいいだろ?」
「おお、森島くんもその辺のことはちゃんと考えてるんですね!」
月美は嬉しそうな様子でやや失礼なことを口走ると、こう続けた。
「じゃ、気分転換にYRKの方に行ってみません?」
揺木大学の東部、第二校舎付近に建つ文連会館。その名の通り、揺木大学の文化系サークルの部室が多数存在し、キャンパス中央からも近いため学生達の溜まり場として常に賑わっている場所だ。ここの二階の廊下の突き当たりに揺木大学歴史研究会(略してYRK)の部室はあった。YRKは揺木の歴史をあらゆる面から研究することを目的に結成された、三十年近くの歴史を持つ老舗サークルである。月美は一年の頃から在籍しており、辰真もこの春、研究室入室と同時に勧誘を受けた。断ることもできたのだが、他のサークルに参加していなかった辰真には断る理由が特になかったためにそのまま入部している。
ドアを開けると、三方を壁に据え付けられた棚に囲まれた狭い空間が二人を出迎えた。黒く変色した木製の棚には、歴史書や鉄瓶、こけしなどといった古くさい物品がずらりと並び、室内の空気を重々しいものにしている。綺麗に整頓されているとはいえ、その雑多さは城崎研究室にも引けをとらない。部屋の中央の丸テーブルでは一人の女子学生が座って何かの作業をしていた。
「レーイ!お元気ですかー?」
「どうも」
「あら、月美と森島君?久しぶりね」
名前を呼ばれた女子学生が顔を上げる。彼女は白麦玲、月美たちと同学年にしてYRKの現代表を務めている。栗色のややウェーブがかった髪と水晶のように透明で怜悧な眼差しが特徴的な玲は、熱心にテーブル上の黒い物体を磨いていた。
「すみません、最近事件が多くて立て込んでまして。ところで何してるんです?」
「これは、あの大実業家・鐘山繭衛門が天保の頃に購入したとされる秘蔵の壺。絹村の古物市で見つけたの。本物なら、揺木博物館に陳列されてもおかしくない一品よ。本物ならだけど……」
玲がこの手の物を拾ってくるのは珍しいことではないが、残念ながら本物に当たったことはほとんど無かった。この壺も、高確率で壁の陳列物の仲間入りをすることだろう。
「最近はどうです?新入生は来ました?」
「全然ダメ。説明会は何度か開いたけど全滅だったわ。今年の新入部員は森島君だけみたい。ねえ、誰か下級生の知り合いとかいないの?」
「いや。自分でも驚くほど人脈が無いな」
「ああ、存続の危機ね。毎年のことだけど……」
玲は大げさに嘆いてみせる。実際YRKは、長い歴史を持つ割には部員数が伝統的に少ない。現行メンバーでも、部室によく顔を見せるのは月美たちを除けば玲ともう一人くらいしかいなかった。代表ならではの悩みを抱える玲を横目に辰真はPCを広げ、レポートの構想を練り始めた。
「ところで、鐘山繭衛門ってどんな人でしたっけ?」
「繭衛門は元々質屋だったんだけど非常に先見性がある人でね、揺木で初めて養蚕業を……」
月美と玲が他愛無い会話を続ける。階下からは音楽系サークルが奏でる管楽器の音色が微かに響く。窓の外からは体育会系サークルの掛け声が聞こえてくる。研究室とは違い喧騒に包まれた部屋ではあったが、辰真からすれば却ってレポート執筆に集中できるような気がした。
「……そういえば、百畳湖で怪物が現れたって噂聞いてる?」
「え!?知りませんでした!森島くんは知ってましたか?」
「怪物?百畳湖に?知らないな」
「前から定期的にある話なんだけどね。確か名前は」
「ヒャクゾウだよっ!!」
ドアの前で待ち構えていたかのような絶妙なタイミングで、案山子のような細長い体型とボサボサの髪、フクロウを連想させるぎょろりとした眼を持つ男が部室に乱入してきた。
「三日前の午後18時過ぎ、百畳湖の湖畔で清掃員の一人が湖上に霧が発生しているのを発見した。そして、霧の中に巨大な生物を見たのだ!この時点では警備員達も本気にしなかったが、その翌日にも複数の人物が影を目撃、更に昨日、今日と百畳湖で怪物の目撃情報が続々と入ってきている!本当にヒャクゾウならば、最後に目撃された記録が残っている1978年から実に約40年ぶり、百畳湖の怪物伝説の復活だ!」
部屋に飛び込んで来るなり以上のような長台詞を一息に言ってのけたこの男は別に不審人物ではなく、れっきとしたYRKの一員だ。名前は米澤法二郎、YRK前代表で現在は四年生だが、相変わらず部室に入り浸っている。揺木の歴史では特にオカルト方面に造詣が深く、一度語りだすと誰にも止められない。今の彼の両眼には、アベラント事件を調査している時の月美や城崎教授にも似た狂熱的な光が宿っていた。
「あ、米さんこんにちは!」
「久し振りです」
「やあ諸君。丁度いいタイミングで集まってくれたな」
「百畳湖の怪物伝説って、前に読んだことあります!昔一大ムーブメントになったんですよね?」
「うむ、「百畳湖の怪物」と言えば、「角見神社の霊鳥」「朧山の魔境」に並ぶ揺木伝説の代表格だからな。我々YRKが総力を挙げて研究するのに相応しい!」
「あの、俺はそのヒャクゾウってのをよく知らないんですけど」
「そうか、それでは、ここでヒャクゾウについて一旦復習しておこう。そもそも百畳湖に怪物が棲んでいるという伝説は、かなり昔から存在した。角見神社に奉納されている古文書に既に湖を守護する怪物についての記述が見られる。しかし、怪物が一気に有名になり「ヒャクゾウ」という名称が与えられたのは1970年代だ。この頃に怪物の目撃報告が突然増え始めたのだ。ヒャクゾウを目撃したとされる人物は多数存在するが、その報告にはいくつかの共通点があった。まず、出現の際は必ず湖面に霧が発生する。そして、その霧の向こうから数mの巨大な影が姿を現す。どうかね、今回の目撃報告と一致しているだろう?しかし、何故か怪物をはっきりと視認できた者は現れなかった。そこでヒャクゾウの正体について様々な仮説が立てられた。典型的なのは恐竜の生き残り説や巨大ウナギ説、他には巨大ウミウシ説や大蛇説、宇宙人の生物兵器説、それから_」
「誰かの悪戯説、じゃないんですか?」
今まで黙って話を聞いていた玲が口をはさむ。証拠を何より重視する正統派の学者肌の玲は、この手の話に常に懐疑的だ。その冷やかな態度が、今回の騒動に対する彼女のスタンスをはっきりと示していた。
「そもそもその頃って全国的にネッシーがブームになっていたんですよね?池田湖やら屈斜路湖やら全国の湖で怪物が目撃されてたらしいじゃないですか。それに便乗して百畳湖でも怪物をでっちあげた、ってのが一番シンプルな考えだと思いますけど。今回だって、最初の目撃者は魚か何かを見間違えて、後はそれに便乗した悪ふざけってところじゃないですか?」
手厳しいながらも実に真っ当な意見をぶつけてくる玲。だが米澤は飄々とそれを受け止める。
「確かにその可能性は否定できない。だがさっきも言った通り、百畳湖の怪物の言い伝えはブームが来る前よりも遥かに昔からある。角見神社の建立は中世、または古代にまで遡ると言われているが、例の古文書はそれと同時期に作成されたものだ。紀元6世紀から伝承があるとされるネッシーはともかく、他の大抵のUMAには負けない歴史を持っているんだよヒャクゾウは!」
「そうだとしても状況は同じです。ヒャクゾウが実在するっていう証拠がない限り、いつから言い伝えがあるかなんて関係ありません」
「なるほど、証拠を見れば納得するというのだね?では森島君、ちょっとそれを貸してくれたまえ」
そう言うと米澤は辰真のノートPCをインターネットに繋ぎ、1つのウェブサイトを呼び出した。トップページには、黒地に白い文字で「揺木怪奇事件情報局」と書かれている。ここは揺木市内の怪奇事件情報を取り扱った地域最大級のサイトで、オカルト好きな市民たちからの情報が日々集まって来る。辰真たちもアベラント事件調査の一環としてよく利用している。ちなみに管理運営をしているのは米澤だ。トップページから掲示板に飛ぶとトピック毎に目撃情報が纏められていて、その一番上に「ヒャクゾウ情報まとめ」が表示された。その中には数々の目撃証言と、数点の写真が掲載されている。どの写真にも何か黒い物体が写り込んでいるが、全体が薄暗いためによく見えない。
「……これが証拠だって言うんですか?」
玲が大げさに頭を振り、呆れた仕草をとる。
「どう見たってインチキ写真じゃないですか。この辺なんて特に酷い。検証する価値もありません」
彼女が指さした2、3枚の写真は、画像編集ソフトで背景に黒い影を合成したのが丸わかりの出来だった。今の技術なら素人でも5分でできそうな代物だ。
「こんな証拠しかないんなら、やっぱりヒャクゾウの実在も怪しいものですね」
「まあ待ちたまえ、確かにこの写真のうち数点は捏造であることは認めよう。しかしだね、仮にこの全てが捏造だったとしても、ヒャクゾウの存在を完全に否定することはできない。火の無い所に煙は立たぬと言うだろう?更に言えば、」
米澤は部室内の棚にある陳列品を指さしながら続けた。
「君だって今まで散々偽物を掴まされてきたのに、未だに古資料の記述を頼りに骨董品を収集し続けているではないか。我々がやっている事とどう違うのかね?」
「それは……」
玲は一瞬言葉に詰まったが、すぐに言い返す。
「同じ記述でも骨董品とUMAじゃ信憑性が違います。恐竜の生き残りが現代まで人類に発見されずに生き延びてきたなんて話、米さんだって不自然だと思いますよね?」
議論の余地はない、とばかりに言い放つ玲だったが、米澤は余裕の表情を崩さない。
「今までなら、そう言われればこちらとしては譲歩を見せるしかなかった。だが今は違う!つい最近、彼らの師であるところの城崎教授が画期的な新説を披露したことは知っているかね?そう、異次元生物説だよ!」
「あ……!」
辰真達も思い出した。以前、異次元社会学の授業で教授が、「世界各地のUMAは異次元生物だったのかもしれない」と冗談交じりに語っていた。
「ヒャクゾウだけではない。今まで目撃された全てのUMAがこちらの世界を一時的に訪れた異次元生物だったとしたら?全ての疑問は解消するではないか!どうかね?」
「……っ!」
段々と玲の形勢が不利になってきたが、彼女はなおも食い下がる。
「そ、それだって可能性の話です!異次元生物でも何でも、この目で証拠を見るまで私は信じません!」
「なるほど、いい心構えだ。もっとも実際に証拠を見るには現場に足を運ぶ必要があるが。僕はこれからヒャクゾウの調査に向かうが、どうするね?」
「行くに決まってます!」
言い争いながらも合意が形成されつつある二人を見ながら、月美が辰真に囁く。
「森島くん、わたし達も調査に行きましょう」
「え?何でだよ」
「レポート出してないんですよね?絶好の素材じゃないですか」
「……ああ、そうだったっけ」
「というわけで、米さーん、わたし達も行きますっ!」
「宜しい。今ここに、YRK有志による百畳湖調査隊の結成を宣言する!」




