第30話 廻れよカメ 1/4
揺木大学の奥地にひっそりと建つ、社会学部異次元社会学研究室のプレハブ小屋。閑散とした室内で、研究室の主である城崎教授が一人佇み、物思いにふけっていた。
テーブルの上にあるのは、教え子の学生2人が先日どうにか生還してきた「調査」に関する資料。すなわち、稲川月美が記録していた手帳や、森島辰真が保護された時に口走った断片的な証言をまとめたレポート、そして彼らの荷物から見つかった「滅魏洲翔の書」の一部の写しなどである。
学生達の残した記録には曖昧な部分も多く、全容は未だに不明のままだったが、情報を総合的に判断すると、彼らの探索行は非常に危険なものだったと考えざるを得ない。異次元エネルギーの中でも特に危険とされるエーテル。エーテルが絡んだアベラント事件は、今まで数多くの探索者の行方を断ち、同じくらい多くの人々を精神病棟送りにしてきた。いかにアベラント事件が活発な揺木市と言えど、エーテル案件が発生するとまでは予想していなかった。指導者としての見通しの甘さについては、弁解の余地はない。今自分に言えるのは、彼らが無事に帰ってきて本当に良かったという事だけだ。僅かでも展開が違っていれば、彼らもエーテル事件の犠牲者の列に加わっていたのかもしれないのだから。
現在彼らは、他の学生達と一緒にサークルの合宿へと出かけている。しばらくの間は事件のことを忘れ、のんびりと過ごして欲しい。しかし、いずれ記憶を取り戻した時には、この事件と向き合わなければならない時が来るだろう。彼らにとっては辛いかもしれないが、避けては通れない道だ。というのも、教授の見立てでは、全ての元凶である溟海からの使者、すなわち異次元煌石メギストロンはまだ消滅したわけではない。記録上はいつの間にか学生達の前から姿を消していたが、かの魔石は、異次元への扉を開けるために必ず再び現れるだろう。その時までに、こちらの準備もできているといいのだが。
そして、気がかりはまだある。教授は例の書物の写しに目をやった。稲川月美が所持していた「滅魏洲翔の書」原本については、東京の異次元中央研究所に送付済だ。直接解読すると精神に異常をきたす恐れがある、いわゆる「危険書物」にあたると判断されたため、異中研の専用設備で慎重に解読される予定である。恐らくはメギストロンと、それに関連する上位存在についての情報が記されている筈であり、今回の事件を解き明かすのに重要な役割を果たすのは疑いようがない。一刻も早く安全に解読を終えてほしい所だ。
そしてもう一つ教授が心配していたのは、一連の事件に関する情報が漏洩しないかどうかであった。無論、異中研には極秘扱いで連絡しているが、「彼ら」は文字通り世界のあらゆる場所に情報網を張っている。もしも「彼ら」が今回の一連の事件の情報を嗅ぎつければ、間違いなく揺木へとやってくるだろう。仮にそうなったとすれば__更に面倒なことになるに違いない。
時は流れ、10月中旬。揺木大学の後期授業が開始してから早くも一月以上が経過し、中間試験という名の災厄が学生達を襲う時期が到来し始めていた。そして今、第一校舎にある大教室の片隅で、森島辰真は絶望的な戦いを強いられていた。
戦局は非常に不利だ。夏休みが明けて以降、大した事件もない平穏な日々が続いたため、つい以前のような自堕落な生活に戻ってしまった。そして、気付けば試験目前。今更勉強してもしょうがないと開き直って試験に臨んだものの、ここまで苦戦するとは思わなかった。試験直前まで諦めずにテキストを読んでおけばまだましだったのに。ああ、今から時間が巻き戻らないか……
辰真が現実逃避をする間にも、無慈悲に時間は経過していく。そんな中、同じテストを受けていた月美は早くも解答を終えたらしく、さっさと教室を出て行ってしまった。休み中は色々あったが、今の月美はすっかり以前の快活さを取り戻している。辰真としてもそれは嬉しいのだが、生死を共にした戦友が苦しんでいる時くらい、手を差し伸べてくれてもいいのではないか。いや、自業自得なのは分かっているが。それにしても、あの時は大変だった__
もはや試験と全く関係ないことを考えつつ、辰真は何と無しに窓の外へと目を向ける。休み時間は賑わいを見せる第一校舎の中庭も、今の時間は誰もいない。穏やかな午後の光景を恨めしげに眺めているうち、彼はふと気付いた。中庭の中央に、何か見慣れない物体が居座っていることに。1人乗りのゴムボートくらいの大きさ。色は黒っぽいが、表面の一部がキラキラと輝いているように見える。そしてよく見ると、少しだけ宙に浮いている。
……いや違う。あれは円盤ではなく生き物、もっと言うと亀だ。中庭を我が物顔で悠々と浮遊する亀。少しの間観察していると、いつの間にか亀の後方に、更に謎の人影が出現していた。花と蔦の文様が施された暗赤色のローブに身を包み、同色のフードで頭部を覆っているため正体は不明だが、明らかに怪しいオーラを放っている。こんな服装の人物を今までキャンパス内で見かけたことがないのだけは確かだ。その人物は少しずつ亀の方に接近していたが、接触の直前、亀は頭部を背後へと向けた。
次の瞬間、辰真の視界が酷く歪む。彼を包みこむ世界が一瞬で膨張し、続いて収縮しながら前方に流れていくような、何とも説明しようのない感覚。眩暈から回復するため、辰真は目を閉じて頭を振る。試験中なのに妙な幻覚を見てしまった、早く頭を切り替えないと。
そして、彼は再び目を開け、気付いた。自分が試験会場とは違う場所にいる事に。たった数秒前まで、彼は第一校舎の大教室に座っていたはずだ。だが今、彼が座っているのは、プレハブ小屋こと城崎研究室の中だったのである。
脳内の混乱が収まるまで待った後、辰真は周囲の観察を開始する。幻覚などではなく、ここは確実に研究室内だ。そして室内は完全に無人で、状況を誰かに確認することは不可能。だが辰真の頭では、自分が研究室にいる理由はどうしても思いつかなかった。例えば試験中に気を失い、ここまで運ばれて来たのかもしれないが、こんな場所に一人で放置するものだろうか。保健室に運ばれるのならともかく。そこまで考えた所で、辰真は左腕に嵌められた腕時計を見た。二本の針は10時30分を指している。
「…………」
その表示を見た瞬間、彼の脳は理由不明の違和感に襲われた。冷静に考えてみよう、試験は午後1時から始まった。ならば、今は夜の22時なのだろうか。だが、窓からは日光が射し込んできており、明らかに午前10時のように見える。ということは__
辰真は現在の正確な日時を確認するため、スマホを取り出した。間も無く現在の時刻が表示され、違和感の正体が明らかになる。表示されたのは、試験日当日の午前10時半。そして10時半頃、辰真は確かに研究室内にいた。これが示す事実はただ一つ。彼が試験会場から移動したのではなく、周囲の時間が巻き戻っていたのだ。




