第29話 深海の旋律 4/4
〜海底楽人ソノンゴ登場〜
とにかく今は、音を立てずにやり過ごすしかない。辰真達がそう決心したその時だった。彼らの背後から、第二の旋律が響いてきたのは。その音色は、海底から聞こえてきたものと似通った不気味さを持ってはいたものの、どこか気の抜けた、聴く者を脱力させるような調子で、恐怖のような感情は全く感じなかった。というか、適当に楽器を叩いているだけで演奏になってない。それも無理はないだろう。弾いてる人物に楽器の素養は無さそうだし。
(米さん!!)
そう、彼らの背後で打楽器を叩いていたのは米さんだった。一体何を考えているのか、辰真達には理解できない。この状況で音を出したら、間違いなくあいつに気付かれるというのに。現にソノンゴは音の発生源、つまりこちらに顔を向けた。身を隠す暇もなく、黒々とした瞳に辰真達の姿が映る。
ソノンゴはゆっくりと右腕を上げ、ホルン状の菅楽器に口を付けて一息に吹き鳴らした。再び洞窟内を支配する陰鬱な音色。メリアがマナのバリアを張り続けているおかげで何とか正気を保っていられるが、それを差し引いても聴いていると気分が……
「…………?」
ここで辰真は妙な現象に気付いた。ソノンゴの荒々しい演奏が耳に届くたび、脳内に幾つもの感情やイメージが連続して浮かび上がってくるのである。
怒り。海底に沈む壮大な神殿。美しい水中の景色。突然の激震。迫り来る巨大な影。荒らされる海底世界。怒り。無人の島。波間を渡る船。怒り。人間。暴れまわる異次元の鮫。蹴散らされるナムノス。激しい怒り。人間の来訪と同時に来たる鮫。怒り。上陸する人間。海に災いをもたらす者……!
「これは……音楽による交信なのか?」
背後の米さんの呟きを聞く限り、他の皆にも同様のイメージが届いたらしい。言葉による意思疎通が不可能な陸棲種族に対し、ソノンゴが用いた交信手段。それこそが、海底楽人の異名を持つ彼らの十八番たる音楽だったのだ。それは陸と海、全く異なる歴史を辿った2種族の間で共通する唯一の文化。中々にロマンチックな話ではあるが、ソノンゴの怒りがダイレクトに伝わってくる状況下では感傷に浸っている暇もない。
「人間!貴様等があの邪悪な獣を連れてきたのだな?」
激しい演奏に合わせて、ソノンゴの言葉が学生達の心に伝わってくる。……いや、上の台詞自体は米さんのアテレコなのだが、伝わってきた内容を言葉として翻訳すると丁度上記のようになるのである。
「ち、違います!わたし達はあのサメを倒すために来たんですよ」
月美が切実に訴えるが、残念ながらこちらの言葉は多分通じてない。
「地上を占領するだけで飽き足らず、海にまで混乱をもたらそうというのか。やはり人間など信用ならぬのだ!」
「そんな……どうすれば分かってもらえるんでしょう」
焦る月美の隣で状況を観察していた辰真に、いきなり米さんから例の打楽器が押し付けられる。翻訳で頭脳をフル回転中の米さんは、無言で月美を指差し、その後打楽器を指差したのだが、辰真には意図がいまいち分からない。
「……稲川さんの言葉に合わせて演奏しろって事じゃね?」
更に背後から俯瞰していたマークの助言に、米さんが頷く。確かに、今は他に手はなさそうだ。辰真は月美と視線を合わせ、海底楽人とのコミュニケーションを開始した。
「わたし達は、あのクイーンビーシャークを止めたいと思ってるだけです!」
「ほう、かつて授けた楽器を奏でるか。だが、それは我らが深海の神の力の一部を借り受けるもの。秩序を乱す者どもが勝手に使用することは許さぬ」
「いいえ!わたし達も海を守りたい気持ちは同じです。昨日ナムノス達が波崎に上陸したことは知ってるでしょう?あの時にナムノスと対話して、陸と海、それぞれを分担して守護するって約束したんです。だから、今度はわたし達がナムノスのピンチを救ってあげたいんですよ」
「……」
昨日の出来事を巧みに織り交ぜた月美の説得。それを聞いた海底楽人は、暫しの間沈黙する。……いや、こちらには聞こえないが、海中に音波を放ち、仲間とコミュニケーションを取っているようだ。
辰真達が無言で見守る中、ソノンゴは再びホルンに口を付ける。貝殻から流れてきた音色は、先程までと同じ楽器による演奏とは思えないほど穏やかなものだった。
「確かに、嘘はついていないようだな。いいだろう。ならばその神器を使い、ナムノスを救うがよい。あの夷狄を追い払ってみよ」
「はい!ありがとうございます!」
ソノンゴは演奏を止め、暗い水面へと姿を消す。同時に洞窟内の張り詰めた空気は消え去り、それを確認した後メリアもマナの障壁を解除した。同時に学生達は地面に座り込む。
「はあ……何とかなりましたね」
「メリア、お疲れ。大丈夫か?」
「アエ。このくらいなら平気ですヨ」
「のんびりしている暇は無いぞ諸君。僕達の目的は女王蜂ザメを倒すのが追い払うことなのを忘れるな」
そんな中、米さんだけは疲れを知らないかのように楽器を手にして立ち上がっていた。そうだ、こうしている間にも女王の暴走でナムノス達が全滅しているかもしれない。ソノンゴの期待に応えるためにも、一刻も早く波巣に戻らなければ。
5人は洞窟をダッシュで駆け抜け、再び地上へと戻ってくる。展望台で見張りをしていた玲から着信があったのは、丁度その時だった。
「もしもし、白麦君か?」
「米さん、沖合の方から巨大な背びれが少しずつ近付いてきてるのが見えるわ。恐らく女王蜂ザメよ」
やはり、女王はナムノスの防壁を突破し、標島に向かってきているらしい。5人はすぐに展望台で玲と合流し、そのまま足を止めることなく島内を横断して港に戻ってきた。
海岸から見上げる空は灰色に濁り、ときおり雨粒が顔に降りかかる。水面にも小波が走り、停泊中のクルーザーが小刻みに揺れているのが分かるが、尻込みをしている暇は無い。学生達はクルーザーに飛び乗り、沖合いに向けて出航した。
甲板に立ち、海上を見渡す辰真達6人。その視界に、屹立する黒い背びれが飛び込んでくるのに時間はかからなかった。どんどん大きさを増し、こちらに近付いてくる女王の背びれ。よく見るとその後方で数体のナムノスが追跡しているが、速度の関係で大きく引き離されてしまっている。どうして女王が標島に向かっているのかは分からないが、今やその暴走を止められるのは、クルーザーに乗っているYRKメンバーだけであった。
「そこまでだ女王よ。標島に遥か昔から伝わる、深海の旋律を聞くがよい!」
そう叫ぶと、米さんは例の打楽器で演奏を開始した。その音楽が流れ始めた瞬間、クルーザーまで残り10mほどの距離にまで接近していた背びれの動きが突如として静止する。それだけではない。米さんの出鱈目な演奏に呼応するように、海底からも次々と旋律が響いてきたのである。深海堂内でソノンゴが演奏していたもの以外にも、多種多様な音質、音階の旋律が海上海中を問わず鳴り響く。海底のオーケストラが、周辺海域を丸ごとコンサートホールにしてシンフォニーを奏でているかのように。
その大合奏から逃れようとしたのか、女王蜂ザメは再び水上に跳び上がり、その全身を大気に晒す。その状態で羽根を動かし、移動を開始しようとした瞬間、その周囲を何本もの光の柱が取り囲んだ。海中から立ち上る計7本の光柱。その中心点から更に巨大な物体が飛び出したかと思うと、次の瞬間には女王の姿は海上から消えていた。ほんの一瞬の出来事だったが、辰真達の目はしっかりと捉えていた。女王蜂ザメを鷲掴みにして海中に引きずり込んだ、巨大な腕の存在を。それが現実に起きた事なのか、それとも集団幻覚だったのかは分からない。元の平穏を取り戻した波崎の海は、いつものように静かに波を立てていた。




