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七十三話:都合の良い駒

 ルデナント・フォン・ワークナー。その名前を耳にして、すぐにあの緩んだ脂肪を揺らす男の顔が頭に浮かんだ。


 彼に対する印象は最悪と言っていい。舐め回すような視線、当然のように見下してくる傲慢な態度。例え黒い噂を聞いてなくても、好印象を抱けるハズがない。

 だから、魔薬をばらまいている犯人がワークナーかもしれないと言われ、俺はなんの疑問もなく納得した。あの男ならやりかねないと。


 こんな風に印象だけで決めつけるのは間違っているかもしれない。けどワークナーは会うたびにそれだけの不快感を与えてきた。悪徳貴族という言葉があれほどピッタリ当てはまる人間を、俺は他に知らない。


 数回しか会っていない人物への評価ではないと、自分でも思う。でもあの獣欲にまみれた、イヤらしい笑みを思い出すだけで背筋が震える。

 そんな悪感情が顔に出ていたのか、殿下は苦笑した。



「君が彼に言い寄られている事は聞いているよ。パーティーで僕と踊って欲しいと言ったのは、彼らを牽制する為というのもあるんだ」



 そう言う殿下の表情は柔らかく、まるで包み込むような安心感というか、不思議と頼りになる感じがある。

 けど、それは。



「殿下。確かにダンスで殿下とルーシーが踊れば一定のアピールになるでしょう。ですが、しょせん殿下と踊った何人かのうちの一人に過ぎません。それでは多少の鎮まりは見せても、完全に収まりはしないでしょう」



 難しい顔でお父様は反論する。

 ……けど、それは多分違う。彼の意味深な笑顔から次に言う事が予想出来て、口元が引きつるのを抑えるのが大変だった。

 殿下は俺の予想を肯定するように、そしてお父様の懸念を否定するように首を横に振り、真剣な眼差しをお父様へと向ける。それはまるで彼女の父親に会いに来た彼氏のようで。



「いいや。僕はルーシーとだけしか踊らない。最初にルーシーと踊って、その後の誘いはすべて断る。疲れたとでも言って部屋に戻る事も考えているさ」



 隣で息が漏れるのが分かる。それもそうだろう、王太子ともあろう人が、交流の為のパーティーでたった一人の女性とだけ踊ると言っているのだ。それはつまり、そういう事だと思われる訳で。

 そしてその一人の女性として、俺が名指しされたのだ。

 ……起こりうるであろう混乱や騒ぎが、今から目に見える。



「え、ええと、殿下? 失礼ですが、自身が仰っている事の意味をお分かりですか?」


「もちろんさ、ロナルド。幸いな事に僕に婚約者は居ないしね。明言しなければ後々言い訳もきく」



 迷いの一片たりとも見出せない表情で殿下は頷いた。

 ようは殿下は一つの噂を流布しようとしているのだ。ザッカニアの王太子は、ルーシー・ヴィッセルという少女に懸想をしているという噂を。


 確かに、次代の国王の『お気に入り』に好き好んで余計なちょっかいをかけようとするような貴族はそうそう居ないだろう。

 別に正式に俺と殿下が恋仲だと発表する訳ではない。そもそもそんな事実はない。


 けれど探りを入れられても、適当にはぐらかすしかないだろう。この場合殿下が俺とだけ踊ったという事実に変わりはないのだし、否定したところで邪推されるだけだ。それに例え恋仲でなく殿下の一方的な想いでも同じ事。


 あくまで噂にすぎないとはいっても、無視して俺に求婚するなんて空気の読めない上に恐れ知らずな真似はしづらいだろう。

 効果自体は、凄くテキメンだ。でも。



「ですが殿下。私のような人間にそこまですれば、反発は凄まじいものになるでしょう。殿下に娘を嫁がせようとしている方々もいらっしゃるでしょうし、私を気に入らない方々も多いです。魔薬の件もある中、不要な混乱を招く事は避けるべきです」



 ただでさえヴィッセル家は悪い意味で目立っているというのに、更に油を注ぐような真似はしたくない。俺には、そして多分お父様にも、より成り上がりたいという野心などないのだ。こう言っては失礼だけれど、ここまで殿下と交流するのも良くはない。

 もちろん殿下の庇護下にいられるのは良い事だと思うし、ここまで気にかけてくださるのはとてもありがたい。殿下自身の人柄も好ましい部類に入る。でも、あまり王家と関わり過ぎるのは良くないと思うんだ。


 この作戦を呑んだら、ヴィッセル家は激流の荒波に巻き込まれ、立ち位置は物凄く変化する事だろう。本来はない殿下との縁を切ろうと嫌がらせをされたり、逆にすり寄って来られたり。そういう面倒な事はごめんだし、これ以上針のむしろになるのは嫌なんだよー。


 だから不敬な事かもだけど、なんとかして止めさせたい。殿下も聡いお方だから、この方法の問題点は当然理解しているだろうし、説得はそこまで難しくはないよね、きっと。



「それに、格上相手とはいえ求婚を断れない訳ではありません。ワークナー家に援助を求めなくてはならない程ヴィッセル家は困窮しておりませんし、弱味を握られている訳でもございませんから」



 むしろこっちが魔薬というアキレス腱を狙っているのだ。まだ疑惑に過ぎないけど、もし犯人が本当にワークナーだったらお家の取り潰しは免れない。そうなれば結婚の話など白紙になるし、ヴィッセル家を疎んでいる派閥の最大勢力も排除出来て一石二鳥だ。


 言葉だけでなく表情でも、ですからわざわざそんな事をする必要はないですよ、という意思表示を送る。否定ではなく、遠慮の形での固辞。

 数秒の間を開けて、殿下は嘆息した。



「……少し、急き過ぎたかな」


「殿下?」


「いや、こちらの話さ。そうだね、無理強いはしたくないし、君がそう言うのならこの方法は取り止めよう。ただ、僕と踊る一人にはなって貰えないかな?」


「それでしたら。私はあまりダンスが達者ではありませんが」


「ありがとう。実は、君への求婚を抑える以外にも、僕と踊ってほしい理由はあってね」



 そこで一息ついて、お茶をあおる。そうやって舌を湿らせてから、その理由が分からず首を傾げていた俺のためにか説明を付け加えた。



「君は戦争が大事になる前止めた、いわば英雄だ。……そしてそれは、ノーベラルにとっても同じ」



 そう言う殿下の表情は厳格な為政者のそれ。とはいえ冷徹な訳ではなく、そこには燃えるような意思があった。

 その姿に息をのむ。俺のような見た目を利用した急造のカリスマではなく、幼い頃から育まれてきたであろう王威というべき雰囲気だった。



「つまり、ノーベラルにも君を欲しがる理由がある訳だ。世論を動かすのにも利用出来るし、君の魔法の腕も稀有で貴重なものだからね。しかもノーベラルにとって都合の良い事に、率直に言って君に対するザッカニアの待遇は、あまりよくない」


「え? ですがこうしてお父様の養子にしてただいたではないですか」


「君を貴族にしたのは、それが君をザッカニアに縛り付けておく為の鎖になるからだ。平民ならいざ知らず、そんな立場を持った人間は、そうそう他国へは逃げれないからね」



 殿下は申し訳なさそうに相好を崩しながら、本来俺に伝えてはならないと思われる裏の事情をぶっちゃける。

 正直なのは美徳だけど、正直なのが正解じゃない場合も多い。そして今の殿下の発言は後者だと思う。

 殿下ともあろう方が、それを理解していない訳もないだろうに。

 訝しげな俺の視線に気付いていないのか、はたまたわざと無視しているのか、殿下は続ける。



「結局のところ、君に褒章と呼べるようなものは渡されていないんだ。それどころか、君の自由を奪い貴族の責任を義務を押し付けた。それにより、権力闘争に明け暮れる愚か者達に嫌がらせを受けてしまう」



 貴族になった事による良い暮らしは褒章にならないのですか? という疑問を挟む余地はない。微かに怒りにも似た気を滲ませている殿下を前に、俺は口を閉ざす。

 その感情の矛先が、殿下自身へ向けられているものだと気づいたから。



「ノーベラルが君の不遇を知れば、間違いなく引き入れる為に動くだろう。それを防ぐ為に、僕が君を歓迎していると喧伝したいんだ。君を失いたくないからね」



 聞きようによっては熱烈な告白とも取られかねない事を告げ、そこで言葉を切る。その平坦なトーンから、彼の真意は察せられない。



「……いや、こんな事を言っても困らせるだけだね。すまない。話題を戻そう」



 なんと反応すれば良いか決めあぐねていると、殿下はじっと俺の目を見て、その後に咳いた。



「とりあえず、今後僕はワークナーに探りを入れる。君達はワークナーを疑っていると気取られないよう、舞踏会まであちらを刺激しないように」


「かしこまりました、殿下」



 首肯するお父様から目を反らした殿下は少し考え込むように頬を掻く。そして瞼を閉じ、椅子の背もたれに寄りかかり、深く息を吐いて。



「……正直に言わせて貰えば、僕はワークナーが本当に魔薬に関わっているかは半信半疑だ」



 体を起こし、右目だけを開いて俺を見る。


 なんでも、確かにワークナー家の今代の当主であるルデナントには黒い噂も多いものの、奴は生まれ持った地位に甘んじているだけの考えなしという訳ではないらしい。当然、王家に楯突くという事の意味も、たとえ彼の派閥でクーデターを起こしても勝ち目はない事は理解しているだろうと。

 しかもワークナー家は古くから王家に仕える大貴族だという。歴史と共にザッカニアと密接したかの家は、王家に何かあれば確実に不利益を被る。



「そんなワークナー家が王家に叛旗を翻すとは考えづらい。君が訴えかけたところで、ワークナー家に疎まれている小娘の戯れ言と馬鹿にされるだけだろうね」


「……殿下は私がワークナー様を陥れるために嘘をついたと疑っておられるのですか?」


「そういう訳じゃ……ない事もないか。僕には客観的に物事を見る必要があって、一方の証言だけで決めつける訳にはいかないからね。でもね、半信半疑、と言っただろう? つまりは半分は信じているって事で、君が嘘をつくような女の子だとは思ってないし、その点では信用しているさ。……ちょっと気にかかる事があるのも確かだし」



 そもそもワークナーの名を出したのは僕の方だしね、と殿下は肩をすくめ、左手で軽く前髪を払った。

 そして小さくふむ、と呟いて、微かにも髭の生えていない顎をなでる。



「……魔薬に関して君に解決してほしいと言ったけど、いったん取り消させてもらうね。率直に言って、君達が動くのは弊害が大きそうだ。できれば、しばらく外出を避けてほしいくらいだね」



 いくばくかの間を置いて彼が告げたのは、引きこもってくれという懇願、の形をとった実質的な命令。

 つまりは邪魔だからじっとしていろと。あんまりに直球な物言いに思わず苦笑する。

 でも、うん、このくらいの距離感がちょうどいい。好意的に見てくれているけど、俺が何か間違えたらブレーキをかけてくれるような。お父様やノーヴェさんもそんな感じだけど、彼らはもうちょっと距離が近い。


 先ほどの殿下を真似てコホンと一つ咳払い、表情を整え、浮かべるのは柔和な笑み。

 忘れちゃいけない。俺に求められているのは貴族の一人としてあくせく働く事ではなく、聖女様という崇拝対象として国民をまとめる事。邪な意図を持つ人達の目を集める事。

 光が強ければ強いほど人々は魅せられ、影はクッキリと形をとり、しかし目が眩んでかき消される。



「ああ、そうそう。外出を控えつつ、まるで屋敷に貴人が逗留していて、その持て成しに追われているかのように振る舞ってくれるとありがたいかな」


「……はい。殿下の仰せのままに」



 ようは偶像、あるいは囮。他に取り柄のない俺は、そう在れば良い。

 とても使い勝手の良い駒だ。民の人気者を擁していればおのずと好意を得られるし、権威を維持しやすくなる。武力も名声もあるから翻意を抱く臣下への抑止力にも、それらを炙り出す誘蛾灯にもなりうる。

 為政者としてさぞかし便利な存在だろうね。殿下が手放したくないと言ったのも頷けるよ。


 首肯した頭に降ってくるようなため息。顔を上げると、苦々しそうな殿下の表情。



「……すまないね、君達には色々と面倒をかける」



 深い嘆息。目を伏せ、その口から漏れる息は重い。

 ……やっぱり、殿下はいささか人が良すぎる。



「お気になさらず、殿下。この身が殿下のお役にたてるのでしたらなんなりとお申し付けください」



 彼は国を率いていく立場なのだ。一臣下に過ぎない俺なんて遠慮なく使ってくれれば良い。

 それに、そうやって利用してくれれば、頼りにしてくれれば、俺はここに居て良いんだと思えるから。



「ありがとう。そう言ってくれると助かるよ。……後もう一つ。ルーシー、昨日のアレ、まだ残っているかな?」


「昨日のアレと言いますと……。転移魔術の?」


「そう、それ。出来る事なら、それを一つ譲ってくれないかな」



 希少なものだろうし、無理ならいいよと殿下は言うものの、殿下にそう乞われて断る事など出来る訳がない。

 幸いと言うべきか、ラスト一枚が残っている。昨日、結局バドラーが使わなかった分の一枚だ。



「構いません。後でお渡ししますね」


「ありがとう。……これで、不意が打てる」



 そう呟いて白い歯を見せる殿下の面持ちは、笑顔というものの持つ意味とは裏腹に、酷く悪どそうなものだった。









更新が遅くなってしまい申し訳ありません。

次話は明日投稿します、と言って自分を追い詰めていくスタイル。

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