六十三話:???
──夢を、見ていた。
辺りを覆う深い霧。数メートル先しか見えない程の、濃くて白いもや。
ここは、どこだろう。
そう思いつつも、なんとなく、ここが夢であると認識していた。だから、目が覚めるまでひたすら待つという手も頭の片隅にある。
けれど、周囲の事がほとんど分からないところでじっとしているのは、ちょっぴりきつい。
だからというか、首を回してキョロキョロと様子を見た後、この場を移動しようとして、
「ひっ……、ひゃあ!?」
霧の中から突如目の前に現れた人影に驚き、とっさに後ろに下がろうとしてしりもちをついた。
痛た……と呟きながらお尻をさする。実際には痛みどころか、地面に触れた感触すらなかったのだけど。
「大丈夫か?」
自分の小さなお尻を撫でていると、上から声が降ってきて、目の前に手が差し出された。多分、さっきの人影の手だろう。
その手をとると、グイッと引っ張りあげられる。ありがとうございます、とお礼を言おうと頭を上げて、手の主の顔を見て息をのんだ。
そこには、”俺”が立っていた。
驚き、目をまたたかせる。戸惑いながら数秒無言で見つめるけど、彼は十七年間自分だった存在で。
見間違えるハズもない。平凡という概念が服を着て歩いているような、そんな少年。まさしく”俺”だ。
きっと私は、ポカーンと口をあけて、まぬけな顔をしていたのだろう。”俺”は、ニッと口角をつり上げる。
「何を驚いているんだ? 久しぶりに会ったんだ、再会を祝おうぜ、”私”」
そこで気付いた。ここはおそらく、夢の中。なら、”俺”が居てもおかしくない。
でも、なんで私は今さらこんな夢を見ているのだろう。
そう考えると同時に、この世界にやって来た時の事を思い出す。あの時も、夢の中だというのにずいぶんと意識がはっきりしていた。
でも、今回は辺りにあのお爺さんの姿はない。私の目の前で、”俺”が佇んでいるだけ。
だからなのか。”俺”が笑っているのを見て、
「……なんで、”俺”は私の前に現れたの? なんで、今さら」
そんな疑問が口を出た。
これが普通の夢だったのなら何も問題なんてない。けれどこの、やけにはっきりとした夢に、”俺”が出てきた理由はいったい。
これが、この世界に来た当初なら、私の日本へ戻りたいという思いが原因だと思える。でも今、私はもうこの世界の住民だ。未練がないと言えば嘘になるけど、戻るつもりはもうない。
なのに、なんで、今になってこんな夢を。
もしかして。嫌な考えが頭をよぎる。
「特に深い理由はないさ。ただ、ちょっとした質問があるだけさ」
「……それは、何?」
「簡単に言えば。お前には、”俺”に戻るつもりはあるのか?」
その質問を聞いて、やっぱり、と空を仰いだ。
この状況から予想していたのは、あの時の再現。つまりは、私はまた世界を飛ばされるのだろうか、という恐怖。
嫌だ。私は、皆と離れたくない。こんな、迷惑をかけたまま、恩を返せないままじゃ帰れない。
「ごめんなさい。お父さんお母さんにも、友達にも……もちろん、”俺”にも悪いとは思う。けど、私は……」
だから首をふる。そんなつもりなんてないよ、と。
私のその答えに、”俺”は悲しそうに顔を歪めた。
それもそうだろう。”俺”は、自分自身に裏切られたのだから。だとしても、私は考えを変える気はない。
「なあ、別にあっちに帰ろうって訳じゃない。こっちに残ったままでも、”俺”に戻る事は出来る。お前も、そんな可愛らしくなって戸惑ったろ? 男と結婚する自分なんて想像出来ないだろ? ”俺”に戻ろうぜ、な?」
「ううん。確かに大変だったし、男と結婚するなんて想像もつかないし、そのつもりはないよ。けれど、この体にはもう慣れたの。それに貴方に戻ったら、いくら中身が一緒でも、皆が私だと分からないでしょ?」
悲痛な、懇願するような問いかけを、バッサリと切り捨てる。
入れ物が違えば、中身が変わらなくとも、二つが同じだと認識されない。牛乳パックに入っているのが水だったとしても、外から見ただけではそうとは分からないのだ。
だから、私はもう戻れない。戻らない。
気まずさと罪悪感から、”俺”から目を反らす。うつ向いて、握られていた手をそっと振り払った。かつての自分の辛そうな顔なんて、見ていたいものじゃない。
そうしていたからだろうか。”俺”の変貌に、気づくのが遅れてしまった。
「ハハハ……! そうか、やっぱりか!」
濃霧の中響く笑い声。”俺”が、顔を上げながら額に手を当てて、狂ったように嗤っていた。
いや、違う。言い様のない違和感。
今の“彼“は……“俺“じゃない。
「あ……貴方は、誰?」
「おいおい、変な事を言うなよ。お前と同じ、”俺”さ」
「嘘。確かに、さっきまでの貴方は紛れもなく”俺”だった。でも、今の貴方は違う」
まったくの別人が、以前の自分の体を動かしている。声を発している。
……なんて、気持ち悪いのだろう。その事実が、彼を見る私の目を鋭くさせる。
「おお、怖い怖い。美人が睨むと、凄みがあって結構怖いんだぜ? 可愛らしい顔が台無しだ、笑おうぜ」
両の手をぶらぶらさせながら言ったそんな言葉とは裏腹に、彼は平然と微笑んでいる。軽薄な態度、それも“俺“とは違う。
私の嫌悪感、睨む視線はまったく緩まない。私の気を鎮める事は諦めたのか、彼は息を吐いて振っていた手を下ろした。
「まあ、正解だ。今の俺は、お前の知っている”俺”じゃあない」
「……貴方、なんでこんな事をするの? わざわざその姿をとって、嫌がらせのつもり?」
「質問ばかりだなぁ。ちょっとは自分の頭で考えた方が良いぜ?」
「ふざけないでよ!」
「ふざけてなんてないさ。ヒントは十分にある。俺の正体くらいは察してもいいんじゃないか?」
いちいちしゃくにさわる事を言う偽者に、イライラして声をあらげる。けれど彼は痛くも痒くもなさそうに、無視を決め込んでいるのか何も話さない。
その態度に更に文句を言おうとして、なんとか思いとどまった。頭に血が上っていたら、ろくな事にならない。深呼吸を、一回、二回。
もはやこれが夢であるという事が、すっかり頭から抜けていた。
深呼吸により冷静になった頭で思考する。彼の正体について、心当たりはあった。むしろ、気づかない方がおかしいだろう。
「……ビスマルク。私達を、この世界に連れてきた人」
「半分正解で、半分間違い。俺はご主人様であるビスマルク様の指示で、あんたの夢に入り込んでいる一介の夢魔さ」
ボソッと呟いた一言に、彼は拍手でもって答える。数回手を叩いた後、一歩私との距離を詰めてきた。
突然の事に身構える私を無視して、彼は私の顎を持ち上げて顔を近付ける。唇は触れなくとも、吐息がかかる程度の距離。
自分だった人間の姿に詰めよられるのは、自分でも驚く程拒否感があって、とっさに彼の胸を全力で押し退けた。それにより再び開いた距離を維持したまま、彼は私の反応に満足したように頷いた後、口を開く。
「正解のご褒美に、一つ良い事を教えてやる。というか、元々ご主人様にこれを伝えるように言われて来たんだけどな。
さっきお前は、かつてのお前と今のお前を、中身は一緒だと言ったよな。……それは違うんだぜ」
「え……?」
意味が分からない。“俺“は“私“だし、“私“は“俺“だ。どちらも体が違うだけで、中身は同じなハズ。
「違うんだよ。確かにお前の魂は前は一つの魂だった。だが、今は二つに別れているんだ」
けれど、私の思考を読んだかのように、私の考えを否定してきた。
……何を変な事を言ってるの。確かに私は、この世界に来て変わった。けどそれは、この世界に適応しただけ。平和な暮らしで隠れていた一面が、表に出てきただけ。
そんな考えとは裏腹に、別の私が囁いてくる。果たして本当にそう? 本当に、以前と同じだと言えるの?
私は──
……あれ?
そこで気づいた。なんでさっきから、私は自分の事を私と呼んでいるのだろう? 口に出す時はともかく、いつもは内心、自分の事は俺と呼んでいたのに。
どう、して?
「……気づいたみたいだな」
「え、なんで、え?」
「体が変わった時、魂が強く自己を持っている奴は魂は変わらない。そうではなく、魂が弱い奴は徐々に魂が体に合わせて変質していく。それが普通だ。
だがお前は、自己を失わない強い魂があるのに、体に合わせて新たに魂を作り出したんだよ。観察史上初めてのレアケース、だそうだ」
“俺“の姿をとっている自称夢魔が何か言っていたけど、ぜんぜん耳に入らない。自分に生じた異変を自覚して、頭がついていってなかった。
混乱している私を尻目に、彼は続ける。
「普段は二つの魂が混ざりあっているが、今は完全に別れている。今のお前が新しい魂で、今俺が眠らせているのが旧い魂だ。……それにしても、旧い方は本当に強いな。この俺が、眠らせているだけなのにその影響を受けている」
「あ、う、あ……」
私と俺は別人。それを認識した途端、パンッとなにかが弾けるような音と小さな火花を幻視し、激痛が襲ってきた。
い、た、いた、い。頭がとてつもなく痛い。ズキズキと、脳の奥に激痛が走っている。痛みは収まる気配はなく、むしろだんだん強くなっていく。
体に力が入らなくて、膝から崩れ落ちた。視界がチカチカ点滅する。
「……しまった。そっちの魂はまだ未熟過ぎたな。処理しきれていない。もう少し時間が経てばしっかりするだろうけど……。ご主人様ー、干渉するの、ちょいと早すぎたみたいっすよー」
私を見下ろしながら、夢魔はここには居ない誰かに向けてそう言う。そしてしばらくして、彼の主の指示があったのか、「了解」と呟いた後私の頭に手を乗せた。
すると、頭に響く痛みが消えていく。いや、消えたというよりも、感覚が麻痺したというのが正しいかもしれない。痛みはある、けれど私はそれを痛みと認識していない。
ともあれ、そのおかげで私は正常といっていいのかは分からないけれど、思考能力を取り戻した。
「はあ、はあ……。貴方、私になにを?」
「ちょいと、ね。痛みは無くなったろう? まあ、後々反動はあるけどな」
息を整えて、夢魔を睨む。それを彼は飄々と受け流した。
今、いったいこの身になにがおきたのか。また、彼の発言の、どこまでが真実なのか──
「すべて、だよ。俺は嘘なんてついてないぜぇ。つく必要もないしな」
「っ!」
その時、私の考えを見透かしたかのように……いや、彼は私の夢に干渉していると言っていた。私の考えなんて、まさしくお見通しなのだろう、疑問に答えた。
「……それじゃあ、なんでそれを、私に教えるの」
「さっきも言ったろー? 俺はご主人様の命令できただけだ。んで、ご主人様の真意なんて分かんねぇよ」
「そん、な……」
目を閉じ、俯く。もう、訳が分からない。私が”俺”でないのなら、私はいったい何者だというのか。
……もし、私が地球に帰ったのなら。その時は、私と”俺”、どちらが体を動かすのか。いや、そもそもこのままこの世界に居たとして、”俺”はどうなるの? ”俺”の過ごした十七年間は。
「消え去るさ。お前に押しつぶされて、跡形もなく」
夢魔の答えは、死刑宣告のようで。あっさりと、”俺”の未来が告げられた。
そんなの……そんなの、あんまりだよ。
「どうすれば、それが防げるの!?」
「…………」
「お願い、教えて!」
なきそうになるのを堪えながら、夢魔の肩を掴んで問いかける。
その懇願に対する彼の回答は、
「ちっ、うるせえ」
「え……?」
心底イライラしたように、舌を打つというものだった。
眉をひそめ、鬼の形相を浮かべながら、呆然とする私の胸倉を掴み、持ち上げた。足が地面から離れる。
「さっきからお前は、悲劇のヒロイン気取りか、ええ? 俺から言わせてもらえばなあ、お前のせいで、お前が居るから、あいつが消える事になんだよ! お前が本来あいつが入るからだを奪ったから、そのせいであいつは死ぬんだよ!」
夢魔は叫ぶ。私を非難する。強く責め立てる。
彼は言う。私が、他でもない私が、”俺”を殺すのだと。
「それを防ぎたいのなら、お前が死ねばいい! なんなら、俺が今殺してやろうか!?」
「それは……」
「いやだろう!? 死にたくないんだろう!? お前はそういうやつだ、自分の為なら、どれだけ親しい相手でも、構わず犠牲にする! そういう身勝手な女が、俺は大っ嫌いなんだよ!」
決め付けないで。私はそんな人間じゃない。貴方に私のなにが分かるのか。
そんな反論は、紡がれることはなく。
「あ、あああ……あああああああああああああああああああ、痛い、痛いよぉ、嫌、嫌あぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
突然やってきた、さっきの痛みがちょっとつねられた程度に感じるほどのすさまじい劇痛に、何も考えられなくなって絶叫する。
「……時間制限か。さっき言ったよな。反動があるって。まあ、もう聞こえてないだろうが。ざまあみろ」
痛い痛い痛い痛い痛い。背中の衝撃からして放り捨てられたらしいけど、そんなのはどうでもいい。頭が痛い。
「このままだと魂が壊れるな……。俺としてはそっちのがスッとするけど、ご主人様に怒られるか」
そう呟いて、夢魔はさっきと同じく私の頭に手を乗せる。
そのとたんに、私の体の奥で何かがドクンと脈動する。その脈動した何かは熱を持っており、体が燃えるように熱くなっていく。けれどその熱さは苦しいものではなく、むしろだんだんと頭の痛みが和らいでいった。
体内を蠢く熱は、少しずつ、染み込んでいくように広がっていく。その熱が全身に行き渡ると、そこから急激に熱は冷めていき、頭が冴えていった。
そして、誰かの「お疲れ様」という声が脳内に響くのを聞いて、私は意識を手放した。
◇
「お目覚めか?」
”私”と入れ替わりに、俺は目を覚ました。
久しぶりの完全覚醒。その最初に聞いたのは、幾度となく耳にしてきたかつての俺の声。そして最初に見たのは覗き込んできたかつての俺の顔。
俺、こんな声だったっけ、なんて思いながら行った最初の行動は、
「なあ、お前に言いたいことが──ぷべら!」
目の前にあった顔を、全力の右ストレートで打ち抜く事だった。
”私”の体の細腕から放たれたにも関わらず、その威力は並の兵士のそれを軽く越えるもので、”俺”の体が宙に浮く程。
「てっめ、いきなりなにしやがる!」
「お前が”私”にちょっかいをかけるからだ。あいつ、すごく憔悴してたぞ。……で、お前誰」
「知らねえで殴ったのかよ!」
「眠っていたから、なにがあったのかは把握してないんでね。ただ、”私”が苦しんでいたから、恐らくその原因であろうお前を殴ったんだよ、夢魔」
”俺”の姿をしている何者かは、「わかってんじゃねぇか……」と肩を落とす。こちらとしては推測による鎌かけだったんだが、どうやらあたりみたいだ。
「んで? 言いたい事ってなんだよ」
「殴ったのに平然と話を進めるか……。いやまあ、お前、現状に不満はあるか?」
「ない」
そう答えると、夢魔は唖然とした表情を見せた。
ん? 俺は正直な気持ちを言っただけなんだが。
「はあ!? なんでだよ、お前はあいつのせいで、もうすぐ消えるんだぞ! なのになんで……」
詰め寄ってきた夢魔をうざいのと暑苦しいのと気持ち悪いので投げ飛ばしつつ、夢魔の質問に対する答えを考える。
といっても、そんなものはすぐ見つかるのだが。
「だって、”私”は俺だ。別の魂? そんなの関係ない。同じ体の共有者で、俺から別れた存在だ。あいつを恨む理由も、憎む道理もない」
「────」
夢魔は絶句する。しかしその後、納得の色を顔に浮かべた後、苛立ちを隠さずに地面を蹴った。
「ああそうか。お前もあの女に騙され、ほだされた奴らの一人って事か! 強い魂のお前なら、あの女にも抗えると思っていたのに、ちくしょうが!」
「はあ? なに言ってんだお前」
俺の呆れた視線にも気づかずに、いや気づいていながらも俺を『愚かな存在』と見限って無視している。
……思い込みで自己完結しているのか。
「くそっ! 期待はずれだ! もうご主人様の命は果たしたし、お前に用はない。じゃあな、良い夢を!」
そう吐き捨てて、夢魔は消え去った。
……なんだあいつ、”私”を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、かってに俺に失望して去っていくとか、意味分かんねぇ。というか良い夢をって、夢に進入してめちゃくちゃにしてったのはお前だろうが。
呆れからのため息をついて、もう朝だな、と思う。そろそろ”私”に体を返さなければならない。
「……がんばれよ、お姫様。いや、聖女様と呼んだ方がいいかな?」
くっくっく、と笑って目を閉じる。そら”私”、交代だ。
そう呟いて、俺は意識を絶つ。
それと同時に、俺が溶けていく感覚がやってくる。溶けて、混ざって──俺じゃない、けれどとても大切なモノと手を取り合った。




