五十七話:宿にて、朝
早朝、日が昇ってきたというくらいの頃。目を覚ました俺は、上半身を起こして伸びをする。早めに寝たからか、眠気はまったくない、爽やかな目覚めだ。
この世界に来てから、生活リズムが凄く健康的になってるなぁ。夜にする事があまりないし、当然といえば当然なんだけど。
ベッドの上で軽く体をほぐした後、ゆっくりと下りる。立ち上がってからもう一度伸びをして、完全に体を目覚めさせた。
その後、ベッドを濡らさないように離れ、昨日のうちに宿屋のご主人に借りていた木桶に水を満たす。顔を洗って、ウェルディから賠償として頂いた手鏡に写った自分の顔を見ながら、櫛を使って髪の毛をとかしていく。
身だしなみを整えるのは大切です。まあ、地毛はすぐにかつらと帽子で隠すんだけどね。
元々櫛通りの良い髪の毛が、一本たりとも絡まる事のない、綺麗なストレートになった事を確認して小さく頷いて、白いネグリジェを脱いだ。顕になった真っ白の柔肌を濡らしたタオルで拭いていき、さっぱりしてから、肌を黒くするべく粉を塗っていく。
パウダーファンデーションをつけるように、スポンジをパフパフと顔に当てる。続いて首、腕、脚首と染めていき、人目につく部分が本来の肌とはぜんぜん違う色に変わったところで、若干苦労しながら胸にさらしを巻いた。
うーん、やっぱりちょっと苦しい。それに、一人で巻くのは大変なんだよね。バドラーに手伝わせる訳にもいかないし。
自分でやったからか、ばあやにやってもらった時よりも微妙に膨らみが残ってるけど、まあいいかと下着を履き服を着込んだ。予想通り、服によって胸は目立たない。
動けば足首がちょっと露出する程度の長さの丈であるクリーム色のズボンと、肘まで覆う白いシャツ。どちらもこの世界ではありふれたもので、少し……いやけっこう着心地は良くないけれど、変装の為だから仕方ない。その上から革の胸当てやレガース、籠手や肘あてを装着して、最後に腰にレイピアを提げた。
「……よし、おっけー」
その場でくるりと一回転、おかしなところがなさそうな事に頬を緩めて、髪の毛を括る。かつらと帽子をかぶって、『冒険者の少年ルーク』の完成だ。
よし、これであとは荷物をまとめれば宿を出れるね。脱ぎ散らかしていたネグリジェをたたみ、手鏡と一緒にカバンにしまう。もとより一泊二日の予定で、そこまで荷物が多くない事もあり、部屋はすぐに片付いた。
魔法で桶の水を蒸発させ、湿気を木窓を開いて外に出す。同時に射し込む日光と吹き込む風が気持ちいい。
「……あ、お帰り。ゴメンね、閉めちゃってた」
開いた木窓から小鳥が入ってきた。この子は、俺の使い魔のシマだ。
個人的に大好きだったシマエナガをモデルにしていて、白くてコロコロしてて凄く可愛い。
使い魔には二種類あるらしい。一つは実際の動物を手懐けて、その体に主人の魔力を流し込んで使い魔にするもの。もう一つは粘土や砂などから造り出すもので、この子は後者。
粘土の使い魔を造るのは、ゲームでの俺には使えなかった錬金術の一種。この世界で新たに魔法を覚える事は可能みたいで、色々と便利系の魔法を使えるようになった。才能があるならすぐに覚えられると言われているらしい、本当に簡単なやつだけなんだけどね。
手懐ける方は、いわゆるテイマーの力が必要で、俺にはそれがない。動物を心酔させる方法がまったく分からないし、教えられる人もいなかったから、そっちは不可能だ。
正直なところ、ウェルディはテイム出来るんじゃないかとにらんでいるんだけど。彼、いくら聞いても、微笑をたたえていっさい吐かなかったからなぁ……。
まあ、俺の使い魔の用途的には、粘土の使い魔の方が適しているから、良いんだけどさ。
動物ベースと粘土ベースはそれぞれ一長一短。
動物を使い魔にする方は、使い魔の強さが元の動物の強さに関係している。だから、例えば元々強いドラゴンとかを使い魔に出来れば、とても頼もしい味方になる事間違いなしだ。
それに対し、粘土から造られた使い魔は、ある程度は術者の腕によって底上げ出来るけど、だいたいある所で強さが頭打ちになる。数は多く揃えられるけど、強力な個は造れない。
そう考えると動物ベースの方が良さそうだけど、そちらはご飯を必要とし、維持費が高くついてしまう。また、強力な動物は大きい事が多いから、場所もとる。それに、そうそうそこまで強い動物には出会えない。
粘土の使い魔の強みは、基本どこでも造れる事と燃費の良さ。地面があればそれを材料に産み出せるし、一度造ってしまえば魔力が切れるまで動き続けられる。その魔力も、空中から取り込めるから、ほとんど魔力切れにはならない。
基本的に後衛である魔法使いを守る為に、使い魔は必要とされる。けれど俺自身ある程度は剣でも戦えるし、バドラーもいるから戦闘には必要ない。
だから俺は使い魔を連絡用として使っている。伝令に戦闘能力は必要ないし、対して強くない錬金術の使い魔で十分だ。
そんな連絡用の使い魔が、さっきまで俺のそばにいなかった。それはつまり手紙を誰かの元に届けさせていたという訳で。
俺は、シマの足にくくりつけられていた紙を外す。開いて中を確認してみれば、予想通りお父様からの手紙だ。昨夜に送った手紙の返事だろう。
えーっと、なになに……。
その手紙は文量はさほど多くなくて、貴族の礼儀となる時候の挨拶などは省略されている。回りくどい事はなしに、端的にあちらの現状が書かれていた。
手紙を読み終えると、一応念のために燃やしておく。別に読まれて困る内容ではないけれど、他人に見せるような事でもない。完全に灰にして、風に乗せる。
とりあえず、屋敷の方は特に変わりはないみたい。王太子殿下が来るかもしれないという事で、少し忙しくなったみたいだけど。急いで帰らなくて良いよ、との事なので、今日はゆっくりさせてもらいますね。
カバンを持ち、扉に触れる。頭の中で念じた呪文により、カチリという音が頭に響いて扉にかけられていた魔法が解けた。解除されたのは、昨日寝る前にかけておいたロックの魔法。どんな扉でも、魔法を解かない限り開けられなくなるこの魔法のおかげで、あんな無防備な姿にもなれたのだ。
ゲームの時みたいに町中ではダメージを受けない仕様ではない、今の俺にとっての現実であるこの世界。攻撃魔法や補助魔法より、こういう魔法の方が必要なんだよね。
廊下に出て、隣の部屋の扉をノックする。反応はない。この部屋の客はまだ起きていないみたいだ。
ドアノブに手をかけて開けようとするけど、扉の先に何か物が置かれているようで、扉は開かない。少し考えて、壊せばいいじゃないという結論に至った。壊れた扉は、後で直せばいい。
他のお客さんを起こさないよう、静かに扉を切り抜くように穴を開ける。そこを潜り抜けて中に侵入し、扉を直して証拠隠滅。
と、思っていたのだけど。
穴を開けるのは問題なかった。けど穴に顔を突っ込んで中を覗きこんでみれば、目の前にこの部屋の一時期な主であり、俺と一緒に王都に来たエルフが寝ていた。
えっと……。バドラーは何をしているんだろう。
一応、理由はだいたい想像がつく。この宿の部屋には鍵がついていないから、寝込みを襲われたり、持ち物を盗まれる危険性がある。それを防ぐ為に、扉が開かなくなる細工をしたかったんだろう。
そして、その開かなくする細工で一番手っ取り早いのが、扉の前を塞ぐ事だ。けれどこの部屋にはほとんど備品がなくて、扉の前を塞げるのがこのベッドだけだったんだろう。
それは分かるけど……その為にわざわざベッドを動かしたのか。ベッドは重かっただろうし、一声かけてくれればロックしたよ、俺。
まあいいや。とりあえず、穴から手を入れてバドラーの体を揺する。反応はない。声をかける。起きる気配はない。強めに叩いてみる。こっちの手が痛くなっただけだった。色々やったけど、結局は安らかな寝息をたてている。
こ、こいつ……。そういえば、朝弱いとか言ってたな。
仕方ない。バドラーが起きないのが悪いんだ。
という訳で、まずカバンを投げ入れて、その後に足の方から穴を潜り抜ける。この時バドラーを踏む事になるけど、それでも起きない相手に気にする必要なんかないよね。
完全に部屋に侵入したところで、扉の穴に切り抜いた部分をあてがい、錬金術で修復する。まだ使いなれていないからか、直したところの色が周りと微妙に違くてちょっと不格好になっちゃったけど、問題なく使えそうだし大丈夫でしょ、多分。
……一応、後でお金置いておこうかな。
そ、それはおいといて。俺はバドラーの上に跨がり、頬を叩く。
「おーい。おきろー」
気持ち良さそうに寝ている彼を叩き起こすのは、多少は悪いと思わなくもない。けれど昨日のうちに朝が早い事はちゃんと伝えておいたし、時間は限られているのだから容赦はしないよ。それに、別れた時間から武具の手入れの時間を引いたとしても七、八時間は寝られているハズ。もう十分寝たでしょう。
力を強くする為にブーストをかけて、しばらく往復ビンタを叩き込む。スパンスパンといい音が鳴った。けれど、それでも起きない。
「ご、強情な……。ん? というかもしかして、そもそも痛みを感じてないのかな?」
バドラーは皆を守るタンク、攻撃を受けるのが仕事。だから防御力が高くて、生半可な攻撃はダメージを与えられない。そして以前、彼をいくら叩いてもけろっとしていた事がある。
むむむ……。そうなると、どうやって起こせばいいんだろう。叩き続けても無意味だし、大きな音をたてるのは他のお客さんに迷惑だ。サイレントが使えれば話は別だけど、まだ無理なんだよね……。
よし、じゃあレイピアや攻撃魔法も使ってみようか。だんだん強くしていこう。
バドラーごめんねと内心謝りながら、レイピアを抜いて軽くバドラーの腕を目掛けて突き出す。けれど彼の皮膚に触れた瞬間、強固な、しかし柔らかい壁に遮られたかのようにピタリと切っ先が止まった。矛盾しているみたいだけど、そうとしか言い表せないんだよ。ちなみに、当然のごとく血は一滴たりとも出ていない。
……前々から疑問に思ってたけど、刃物を通さない皮膚っていったいどういう成分、構造をしているんだろう。別段、触ってみても鉄みたいな硬さは感じないんだけどなぁ。
うーん、ファンタジー。魔法とかがある時点で今さらなんだけどね。
この世界の、そしてバドラーの体の不思議に思いをはせつつ、今度はちょっと本気の突き下ろしを繰り出してみる。流石にそれでは無傷とはいかなかったみたいで、突かれたところが少し赤くなった。けれど肝心のバドラーは少し身動ぎしただけ。
予想はしていたけど、ブーストをかけての全力でここまで効果がないとへこむなぁ。男だった時は、一応ある程度は通ったんだけど。すぐに回復されて努力が無に帰すのもワンセット。
俺、バドラーとのPVPで勝てた事がないんだよなぁ。いくら攻撃しても回復されて、スタミナが切れたところをフルボッコにされて。
……そう考えると、何かいらっとしてきた。
「……『永遠の時を生きる水の精霊よ、我が名の元に力を授けよ。我欲するは荒々しくも優しい水の球。水球』」
「へぶっ! ゲホ、ゲホ、ガハッ……。な、なんだ!?」
人の頭ほどの大きさの水球を作り出し、バドラーの顔にぶつける。単純な威力だけでもさっきの突きよりも数段上、それに加えて口に流れ込んだ水が呼吸を奪い、水の冷たさが彼の意識に起きるよう働きかける。その結果、バドラーは咳き込みながら目を覚ました。
よし、狙い通り! 最初からこうしておけばよかったね。
「バドラー、おはよう」
「……お前の仕業か」
濡れた髪の毛が額に張り付いているバドラーは恨めしそうに俺を睨む。そんな目をされても。起きないバドラーが悪い。俺は彼から目を反らす。
「だっていくら普通に起こそうとしても起きないし……。昨日早く起きてねって言ってあったし…… 」
「……分かったよ。分かったから降りろ」
俺の言い訳に、バドラーはため息をつく。言われた通りに彼の上から降りると、彼はおもむろに体を起こしてそのままベッドから降りた。まだ眠いのか、目をしばしばさせてあくびをかみ殺している。
……もうちょっと、手伝ってあげようか。
「それで、今日はどうす、って、ブハ!」
「アハハハハ……ハ、ハハ……」
「…………」
今度は水球ではなく、ホースから出すようにイメージした水をバドラーの顔にかけてみると、水の勢いに押されてベッドに倒れ込んだ。それを見て笑っていたけど、起き上がったバドラーの目が座っていて、怯む。
あ、あの、バドラーさん? ちょっと怖いんですけど……。
「そ、その、ごめんね、バドラー……」
「……いやぁ、聖女様は少々おてんばが過ぎますね」
あ、これヤバい。表情は笑っているんだけど、目が笑っていないし頬がひきつってる。突然の敬語も怖い。
ぽん、と肩に手をおかれる。思わず身を引くけれど、強く握られた手は痛みはまったく感じさせないのに振り払えない。
「これは、お仕置きが必要でしょうか。水って、鼻や喉に入ると苦しいんですよ?」
「いや、その、あの……。ごめんなさい。ゆ、許して?」
上目遣いで見つめながら、精一杯の笑顔を浮かべてコテンと小さく首を傾げる。これまでにないほど容姿を生かした、あざといレベルでの訴え。
けれど、告げられた宣告は非情なもので。
「無理だ、馬鹿野郎」
一気に真顔に変貌したバドラー。冷や汗がだらだらと背中を流れる。
「痛いのは嫌ぁ! 助けてお父様!」
「ちょ、こら暴れるな。というか人に聞かれたら誤解されるような事を……!」
彼の手から逃げようとする俺と、逃がさないとばかりにしっかりと腕を掴むバドラー。俺の発言に犯罪臭を感じたのか、少し慌てている。
十数秒にわたる揉み合いの末、身体能力に勝るバドラーに軍配が上がった。俺はバランスを崩してベッドに倒れこみ、バドラーが押し倒すような形になる。
「っ!」
「……?」
俺の上に覆い被さるバドラーは、最初の険しい表情から、だんだんと困惑したような、驚いたような表情に変わっていく。最終的に彼の顔に浮かんでいたのは、何かを恐れるような色。
「どうしたの?」
心配になって、俺は手を伸ばして彼の頬を撫でる。それを受けてバドラーは更に目を見開いて、逃げるように跳ね起きた。
……そんな反応をされると傷付くなぁ。
「……ごめん。急に押し倒しちゃって」
「ううん、こちらこそごめんなさい。それより、大丈夫?」
「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」
俺に背を向けており、その表情はうかがい知れない。
大丈夫と言うけれど、さっきの反応からして大丈夫じゃあないでしょう。でも、なんとなく詮索してほしくなさそうだから、止める。
「そう……。そういえば、バドラーって慌てた時に口調が変わるよね。そっちが素なの?」
「っ! ……それは、どうだろうな」
空気を変える為に、ふと思った事を言ってみたら、バドラーの雰囲気が一瞬変わった。
……あれ、なんか間違えたのかな?
「……娘………………け…………え…………」
小さく、彼が呟いた。あまりにも小さすぎて、なんて言ったのか分からない。
地雷を踏んでしまったのか。慌てて立ち上がったところで、バドラーはこちらを振り向いた。その表情は、いつも通りのすました表情。
「バ、バドラー?」
「すまんな。ちょっと寝惚けていた。それで、今日の予定は?」
「それよりも、さっきの──」
「今日の予定は?」
有無を言わせない口調。触れられたくないという意思の表明。
結局俺は、何も突っ込む事は出来ず。
その後の彼は何事もなかったかのように、平然としていた。




