【第三部】第35話.物陰
「誰か!」
兵隊の声がした。明継はトリィの手を握った。その手は、驚くほど強く握り返してきた。まるで、この世界の命綱にしがみつくように。
「どうかしたか?」
また別の、男の声。足音が近づいてくる。
「いや、今……気のせいか。そこに誰かいたような」
二人の呼吸がぴたりと止まる。
「どこだ」
「その奥の、物陰に」
もはや数歩の距離だ。木製の樽が透き通って、視線がこちらを射抜いている気さえする。二人はさらに身を縮めて、樽と木箱の残骸の隙間に身体を押し込む。
「猫かネズミじゃないのか」
「どうだろう……な!」
そう言うと、一人の兵隊が朽ちた木箱を蹴り上げた。大きな音を立てて土埃が舞い、木箱が地面に転がる。
じゃり……。
砂利を踏み締める、軍靴の音が目前に迫った。もう一歩前に来て裏を覗かれたら終わりだ。そう思った瞬間。
「おぅい!何油売ってるんだ、集合だぞ。急げ!」
少し離れたところから、別の兵隊の声。
「おい、戻るぞ」
「……はい」
しばらくして、足音が遠ざかっていく。明継とトリィは時間が止まったかのように動けなかった。ようやく、人の気配が完全に消えた頃になって、ひとつ長い息を吐いた。
「助かった……のかな」
明継は樽の縁を押して、ゆっくりと立ち上がった。
「ここも危ない。明継、行こう。とにかく兵隊たちの網から離れないと」
トリィはそう言って、明継の手を取った。その目には迷いはない。ある種の決意の光が宿っていた。
二人は再び駆け出した。薄暗い裏手の道を、さらに奥へと進んでいった。




