【第三部】第32話.沈黙
数日が過ぎても、港は沈黙したままだった。海を覆う重たい雲は、まるでこの地を覆う不安そのもののようだ。
その日、二人が隠れる小屋にアナスタシアがコートをなびかせながらやってきた。
「まだ動かないってさ」
「そう、なんですか……」
二人の情報源はこのアナスタシアだけだ。このような状況であっても、彼女は毎日一度は必ず顔を見せている。もちろん、食事や生活に必要なものを運んできてくれるという面もあるが、こうやって話しているだけでも彼らにはありがたいものがあった。
ため息混じりの声。彼女はぶっきらぼうな調子ではあったが、顔には心なしか疲れの色も見え始めていた。
「あいもかわらず、黒船さんは沖合に浮かんでるよ。港の連中も、もう半ば諦めてやがる」
アナスタシアは腰を下ろすと、煙草に火をつけた。
「それに南の方からは、日本の兵隊が自治区の方へ送られてきているらしいね」
二人が驚いた顔をすると、アナスタシアは苦笑しながら続けた。
「首長は未だ行方不明、それで日本側とも連携は取れないし、ルシヤと交渉も満足にできない。引き揚げの話も宙ぶらりん。役所の窓口には毎日叫んでるやつが出るくらい混乱してるって話だ」
彼女の話に、小屋の中の空気はさらに重くなる。ストーブの火だけが、パチパチと乾いた音を立てた。
「ウナさん……」
トリィが祈るように呟いた。
「まぁ何にせよ、日本軍が入ってきてるのに自治区は対応できない。そんな状態じゃあ対話も保護も何もないね」
アナスタシアは煙を吐き出しながら言う。淡い紫煙がうっすらと小屋の天井を漂って消えた。
「一番困るのが、普通の住人さ。漁師もそうだけど、何か事情があって自治区で暮らしてるルシヤ人や日本人。引き揚げしたくても申請もできないってね。そりゃ暴れるやつも出てくるさ」
明継は聞きながら、ぎゅっと手を握りしめた。アナスタシアは二人の様子を見ながら、表情を少しだけ和らげた。
「とにかく、だ。港は死んで、役所は死んで、そんな状況ってことを理解しておくんだね」
「はい……」
アナスタシアは立ち上がり、帰り支度を始める。
「言っておくけどね、みんな自分のことで手一杯だ。助けてくれる誰か、を当てにしない方がいい。いざとなったら、自分達が生き残る事を考えて動きな」
小屋の外から、冷たい風が入り込む。彼女は扉を半分開けたまま振り返らずに言った。
「いいね。こんな状況だ、自分の頭で考えて、生き延びるんだよ」
そう言い残して、アナスタシアは風の中へ消えていった。残された小屋には、薪の弾ける音だけが取り残されていた。




