【第三部】第31話.出航停止
翌朝。
港は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。人々の心のうちを映しているのか、海は鈍い鉛色に沈んでいた。
「おい、本当に出せねえのか!?」
「警察の人間が言ってたろ、指示があるまで航行禁止だってよ」
「魚を獲りに行かなきゃ、暮らしていけねえだろうが!」
怒りと不安が入り混じった声、漁師達が集まり、船の前で口々に訴えていた。その中には、煙草を咥えたまま腕を組んでいるアナスタシアの姿もあった。波止場には制服の男たちが数人、無言で海を見張っている。どうやら日本の警官らしい。
港の向こう側、低い雲の境目、海のはるか沖合にぼんやりと黒い影が見える。ルシヤの軍艦だった。
「監視のための停泊ねぇ、ありがたくて涙が出るよ」
アナスタシアは一人呟いた。実質的な示威行動である。あれが沖にある限り、港は動かない。漁師らしき男が警官に詰め寄る。
「巡査さん。俺たちゃ船を出さなきゃ、飯が食えねえんだよ」
「何度も言った。接近すると危険ゆえ、民間の船舶は航行禁止だ」
海から吹き寄せた風が、軍艦の鉄の匂いを運んできたようだ。アナスタシアは煙草の灰を指で弾いて落とした。そこに頭に手拭いを巻いた男が近づいていく。
「姐さん、どうしやしょう。今日寄る予定だった船も全部無しってことでしょうかね」
「だろうね。こんな露骨なことしてくれちゃあね」
「ほんっとにルシヤも邪魔くさいことしやがって。休みになるって皆に伝えときやす」
アナスタシアは男に手のひらだけで同意の合図をする。一呼吸おいた後、吸い終わった煙草を地面に捨てて足で踏みつけた。
「これだけで終わりゃ良いけど」
その時だった。波止場に、また別の若い巡査が駆けてくるのが見えた。制服の内側から、何やら紙切れを取り出して別の警官に手渡した。いくつか言葉を交わしたあと、年長らしい一人の警官が漁師たちに向きなおって声を張り上げた。
「静かに!今しがた、正式に通達があった!」
ざわついていた漁師の声が、海に吸い込まれるかのように小さくなっていった。年長の警官は、紙を握りしめたまま言葉を区切るように読み上げた。
「周辺海域の安全保障上の懸念により、この時から沿岸域の民間船舶の出航は当面の間、全面禁止とする」
「おい!俺たちに死ねっていうのか!」
「いつまで出せないんだ!」
怒号が響き渡った。だが、警官は乾いた声で続ける。
「……期間は未定である」
その言葉の重さが、港全体を支配した。アナスタシアはその様子を見ながら、一人呟いた。
「あーあ。いよいよ、きな臭くなってきたね」
それは覚悟と、そして諦めのような複雑な声だった。




