【第三部】第30話.動キ出ス
翌朝、雨はようやく上がっていた。しかし、まだ空はどんよりと厚い雲に覆われて、地面には昨夜の名残りか水溜りが点在していた。
明継は、濡れた土の匂いを感じながら外に立って背伸びをする。トリィは中で火を起こしているところだ。薪に火が移って、パチっと乾いた音が聞こえる。その時、ぬかるんだ地面を踏む足音が近づいてきた。
「おい」
「は、はい」
アナスタシアだった。咥えていたタバコを水溜りに捨てると、「ちょっと来い」と言って小屋の中へ入って行った。慌てて明継が後を追う。小屋に入ると、ストーブの火でほのかに室内は温まっていた。トリィがアナスタシアの顔を見る。
「ラジオで言ってた。ルシヤが日本に、全ての露人を引き揚げさせろと要求だとさ」
聞けばラジオで「ルシヤ政府、日本に通告。ホッカイドウ在住の露人を保護目的で帰還措置」ということが流れてきたらしい。
「保護?」
「はっ、まぁ使われそうな手だよ。ホッカイドウに居住する我が国民が、日本で強制的に日本語教育を受けている。これは文化的抹消である。ってね」
雑居地からルシヤ人の引き揚げはあった。ただ全てのルシヤ人がそうなった訳ではなく、この地に残る者もいた。アナスタシアもその一人だ。
「それって、どうなるんだ?」
明継が言った。
「どうもならねえよ。全ての露人が引き揚げるなんてできる訳がない。ここで何十年って住んでるやつもいるし、家族が日本人だってやつも珍しくねえ」
「じゃあ、どうして……」
トリィが薪をくべながら小さく問うた。アナスタシアは少し溜めた後で言った。
「戦争の口実だろ」
二人が息をのむ。
「露人が虐げられてるって形を作っときゃ、向こうは好きに騒げる。軍を動かしたって、理由ができる。そんだけの話さ」
そう言いながら、アナスタシアは湿った赤毛を乱暴にかき上げた。
「そんなデタラメが」
「デタラメでもなんでも良いのさ」
アナスタシアは肩をすくめて、冷たい声で続ける。
「保護なんて、便利な言葉だよ。連れ戻す気なんて始めからないだろうさ、言ってみりゃ……。私らみたいなものを理由に利用してるだけさ」
ストーブの火が弾ける音がやけに大きく響いた。外の雲はまだ重く、低い。湿った空気の中に冷たい緊張が漂っていた。
「戦争なんかになったら、俺たち、ここ出れるのかな」
明継が小さく言った。
「さあなぁ。向こうさん次第だな、港も海も。急に封鎖されるかもしれないし、船だってどうなるか」
トリィが薪をくべる手を止めて、顔を上げた。
「もう計画通りにはいかないってこと?」
「そうだな。全部水の泡になるかもしれないし、そうでもないかもしれない」
アナスタシアは声を低くして続けた。
「いつ動けるかはわからん、向こうがその気になりゃ明日にも海は閉まる。でもやれることはやってやるさ。あんた達も覚悟はしときな」
「わかった」
二人は頷いた。小屋の中には緊張と、覚悟がゆっくりと広がりつつあった。アナスタシアは立ち上がって、曇った窓の方を見る。
「やれる時にやるしかねえな」
窓の外には灰色の空と海。不確かな未来。小屋の中のわずかな火だけが、外の世界の不安から守るように揺れていた。




