【第三部】第29話.雨
翌日。夜明け前からぼたぼたと、重い雨が降っていた。海と空の境界が曖昧で、この世界全体が灰色の幕で覆われたように思えた。小屋の屋根を叩く雨音は、彼らの心まで湿らせて重くしたかのようだった。
明継が目を覚ます。身体にまとわりつく湿気を含んだ毛布を側に置いた。起き上がって白く曇った窓を眺めるが、外の世界は見えなかった。
「今日は漁は休みだろうね。こんな天気じゃ、誰も船なんて出さないよ」
先に起きていたトリィが言った。
「そっか」
聞こえるのは雨と風の音だけ。昨日は船の音や、漁師達の大きな掛け声なんかが聞こえてきたが、今日はそれもない。
「飛行艇は今日は見に行かない方が良いかな?」
「そうだね。視界も悪いし、足跡も残るかもしれない。心配だけどしょうがないよ」
午前中を小屋の中で過ごして、昼食を済ませてもなお雨足は弱まらなかった。静かに小屋にこもる二人は、時々窓の外のぼんやりとした灰色を眺めるだけだった。
「雨、長いね」
どこか低く落ち込んだトリィの声。小屋の窓には湿った空気が張り付き、ガラスはすっかり曇っている。トリィは工具箱を広げ、古いレンチを布で磨いていた。
「なぁ、トリィ」
明継がふと、トリィを呼んだ。彼は小屋の隅で窓の前に立っていた。指でガラスに触れて、曇った面にゆっくりと線を引いていた。
「何してるの?」
そうトリィが聞くと、明継はにっと笑ってみせた。
「絵。ほら、外見えないし」
彼女が近づくと、窓ガラスには不恰好な何かが描かれていた。丸と四角と細い線。どうやら飛行艇のつもりらしい。雨風の影響でカンバスが揺れて頼りない。
「飛行艇?」
「へへっ、見えないかな?」
「ううん。思ったより似てる」
トリィは微笑んで、明継の隣に立つ。彼女は、明継が書いた飛行艇の横に指でそっと波の線を付け足した。
「海?」
「そう。ほら、飛行艇で飛んだ海」
二人はしばらく雨が小屋を叩く音を聞きながら、落書きをして過ごした。曇ったガラスに描いた線はすぐに薄れて、雨音と一緒にゆっくりと消えていく。
ふっ、とトリィが息を吐いた。
外は相変わらず灰色で、波と空の見分けもつかない。それでも、この小屋の中だけは暖かくて穏やかな時間が流れていた。その穏やかさが、外の世界の何かが少しずつ変わり始めている気配を遠ざけてくれているようにも思えた。




