後宮入り2
面会部屋を横目に通路を進むと、長く重量感のある木製のかんぬきによって固く閉じられた門が翠蘭の目の前に現れる。
(実際に後宮は、ここから先と言っていい)
翠蘭はゆっくりと踵を返し、後ろにいる煌月と汀州に拱手する。
「お兄様はもちろんですが、煌月様もここまでで結構でございます。お見送りをありがとうございました」
まるで可愛い妹を嫁にでも出すかのように寂しそうな顔で、汀州は沈んだ声を発した。
「これからは簡単に翠蘭と会えなくなるのか。寂しいな」
後宮に入った後、翠蘭はこの門の外へ許可なく出られなくなる。
皇后が決まるまで、もしくは体か心が病んでしまい皇后候補から外されない限り自由はないのだ。
「でも、なにかあったら遠慮なく呼びつけてくれ。すぐに飛んでこよう」
心底悲しそうな顔をしながら汀州は力強く声をかけたが、当の翠蘭は少しの哀感も漂わせることなく、兄を真っすぐ見つめ返す。
「そのお気持ち、とても嬉しいです。でも、お兄様もお忙しい身、お手間を取らせるわけにはいきませんわ。心配せずとも、うまくやってみせます」
そして、最後に形の良い唇に笑みを乗せ、きらりと目を輝かせる。
汀州は翠蘭が見せた表情に数秒面食らった顔をしたあと、妹の言わんとする事を理解した様子でちらりと煌月を見た。
煌月は汀州の心の機微をしっかりと感じ取り、訝しがるように目を細めて見つめ返した。
すると汀州は苦笑いを浮かべて、追及から逃げるようにぎこちなく視線をそらした。
「それでは失礼いたします」
翠蘭は明明を伴って、固く閉ざされた門へ向かう。
門番をしている武官の元へ歩み寄り、話しかけようとした瞬間、翠蘭の横に煌月が並んだ。
「彼女は李翠蘭。我の花嫁候補のひとりだ。門を開けろ」
思わず目を大きく見開いた翠蘭に、煌月はぽつりと囁きかける。
「さっきも言ったが、居所まで案内する。俺も中の様子を確認しておきたい」
ああなるほどと翠蘭が納得すると同時に、武官が「開門!」と門の向こう側へ声を掛けた。
武官が木製のかんぬきを外すと、門の向こうから鎖の音に続いて、錠の外される音が小さく響いた。
一気に門が押し開けられ、目の前に現れた眩い赤の欄干に緩やかな弧を描いた橋に翠蘭は目を奪われる。
「行くぞ」
「えっ……は、はい!」
短く呟いて、先に中へと入っていった煌月を慌てて追いかけ、翠蘭も中へと足を踏み入れた。
それほど間を置かず、後ろで「閉門!」と武官の声が響く。
翠蘭が肩越しに目を向けると同時に門は閉じられる。内側で門の警備を担当しているらしい腰に剣を携えた女性が、鎖と共に銅製の錠前をつけた。
(鍵がないと無理ね。やはり、簡単に通り抜けられないか)
目にした光景にそんな感想を抱いてから翠蘭が視線を前へ戻すと、再度横に並んだ煌月の不満そうな面持ちに気づかされた。
「李兄妹は俺になにか隠し事をしているな。面白くない」
翠蘭はぽかんとするものの、先ほど汀州と交わした会話のことを指していると考え、つい笑みを浮かべた。
「それは、私たち兄妹というよりは李家の秘密です。いずれ煌月様も知ることになると思います。でも、それがいつになるかはあなた様次第でございます」
ちょっぴり挑発的な翠蘭の物言いに、煌月はぴくりと眉根を動かすが、小さく笑って「受けて立とう」と言い放つ。
そのまま水路をまたぐ橋を渡って、庭園の中を進んでいくと「煌月様!」とはしゃいだ声が響き渡った。
思わず足を止めた煌月の元に駆け寄ってきたのは、金雪玲だった。
「会いたいと何度も手紙まで送ったのに、どうしてお顔を見せてくださらなかったのですか」
「予定があわなかった」
拗ねた様子の雪玲に対し、煌月の返事も表情も素っ気ない。
予定を合わせる気がなかったとも言っているように翠蘭には受け取れた。
思わず遠い目をし、我関せずを貫き通そうとしたが思惑は外れ、雪玲がぎろりと睨みつけてきた。
「李翠蘭。辞退した朱家の娘の代わりにあなたが入ると聞いてはいたけど、今日だったのね。……それで、どうして煌月様と一緒なの?」
不満をあらわにした眼差しに少しも動じることなく、翠蘭は抑揚なく答える。
「それは、私たちに対する煌月様のお心遣いに他なりません。朱家が辞した理由を鑑みて、一度ご自分の目で後宮内を見ておこうと思ったのでしょう」
「……さようですか。それは心強い。時折あやかしの恐ろしい影も見えますし、次は私の番かもしれないと思うと、怖くて夜も眠れませんわ。煌月様、頼りにしておりますね」
最初こそ舌打ちをしそうな様子だったが、雪玲は不安そうに表情を曇らせて、煌月へとすり寄っていく。
「金雪玲、そなたの現状は理解した。では、高笙鈴、あなたはどうだ?」
煌月は冷静にそう述べると、雪玲の熱い眼差しと近づいた距離から逃げるようにして、園路の先を見て話しかけた。
こちらをただ眺めて立っていた笙鈴は、話しかけられたことでわずかに気まずそうな表情を浮かべる。
やや間を置いたのち、「問題ございません」と小さく言葉を返した。
(どちらもお抱えの占術師はいるようね)
雪玲と笙鈴のそばに、それぞれ占術師と思しき女性がいる。
それを翠蘭がしっかり確認したところで、笙鈴のその向こうから、女官たちが慌てた足取りでこちらにやってきた。
まずは煌月に拱手してから、先頭を歩いていた三十代くらいの女官が翠蘭へと体を向けた。
「お迎えに上がるのが遅くなり、大変申し訳ございません。翠蘭様の居所までご案内させていただきます」
現皇后はもちろん、貴妃、淑妃、徳妃が住まう住居より小さいながらも、皇后候補たちはそれぞれ住まいを与えられるのだ。
そして翠蘭の入る北側の住居は、先日まで朱家の娘が生活していたところである。
(呪の残り香はまだあるかしら。はやく行きたいわ)
そわそわし始めた翠蘭の前に、女官の目配せを受けて三人の女官が並ぶ。
「それから、こちらが翠蘭様の身の回りの世話をさせていただく女官でございます」
「せっかくだけど必要ないわ。そもそも私には明明ひとりいればじゅうぶんですし」
「そっ、そうはいきません!」
余計な目があると、自由に動くことができなくなるため、翠蘭はきっぱりと拒否する。
すると、想定外だったのか女官はひどくうろたえ、ちらりと雪玲の方を見た。
その一瞬に翠蘭は引っかかりを覚え、そっと口元に笑みを浮かべる。
「……では、ひとりだけお借りします」
そのひと言で、女官は心なしかホッとしたような表情を浮かべた。
「では」と呟いたあと、三人のうち真ん中に立っている翠蘭より幼い見た目の小柄な女官へ、前へ出るように再び視線で促す。
不安そうな顔で翠蘭の前まで進み出た女官が、声を震わせながら挨拶する。
「紅玉と申します。至らない点もあると思いますが、よろしくお願いいたします」
「よろしくね、紅玉」
翠蘭はにこやかに言葉を返す。一方で、紅玉は翠蘭の隙のない眼差しに気圧されたように表情を強張らせた。
その様子を横目で見つつ、煌月は女官に問いかける。
「翠蘭の教育係は誰がやることになったのだ。高家と朱家の娘を引き受けた徳妃か?」
「……それが、まだ決まっていないご様子です」
気まずげな返答に、煌月は「それはないだろう」とむっと眉根を寄せる。
しかし、煌月が次の言葉を紡ぐ前に、翠蘭がゆっくりと前へ歩き出した。
「それならそれで構いません。私に教育係は必要ないとお伝えください」
思わず「翠蘭」とぼやいた煌月の声に反応するように、翠蘭はくるりと振り返る。
「そんなことより、早く案内してくださいませ!」
目を輝かせている翠蘭に煌月は苦笑いを浮かべ、「自由にさせすぎるのも、なんだか怖いな」とぽつり呟く。
翠蘭の求めに応じて再び歩き出した一行の後ろ姿を、雪玲は不満いっぱいの顔で見つめ続けた。




