後宮入り1
煌月と約束を交わしてから、五日後、翠蘭は皇后候補に加わるべく、斎南宮の顔ともいえる中大門の前に立っていた。
後ろには今さっき翠蘭が降りたばかりの李家の車輿がある。
車輿に続いて荷車も並んでいて、それらには翠蘭の荷物はもちろんのこと、占術師が用いる道具や札などもしっかり入っている。準備は万端である。
世話役としてついてきた明明が後ろに控えると同時に、翠蘭がやる気に満ちた顔で門に向き直ったところで、軽い足音を響かせながら汀州と宦官が姿を現した。
「戦いをしに行くような顔だな」
「お兄様、もちろんです。ここで活躍できるかどうかに将来がかかっております。いずれ私も立派な宮廷……」
「そうだとも! 確かに今は穴埋め要員でしかないが、望みを捨ててはいけない。煌月様の目に留まれば、花嫁に選ばれる可能性も零ではない」
遮るように放たれた兄の言葉に、思わず翠蘭は「花嫁?」と呟く。
そこで、兄妹の熱意に感心して目を潤ませた宦官から、「最後まで諦めず頑張ってください!」と力強く励まされ、翠蘭は「あ、ありがとうございます」とぎこちなく返事をした。
もちろん汀州は、妹の頭の中には宮廷占術師への想いしかないのを知っているため、半笑いだ。
(そ、そうよね。数合わせでしかなくても皇后候補のひとりに名を連ねたのだから、余計なことは口走らない方が良いわ)
翠蘭が気を引き締めると同時に、宦官は荷車の方へと進んでいく。汀州はそれを確認してから、「案内しよう」と翠蘭に声をかけて、身を翻して歩き出した。
姿は見えなくても自分の背後に黒焔の気配を感じ取り、翠蘭は小声でつぶやく。
「もう少しだけ姿を隠していてちょうだい」
すると、求めに従うように黒焔の気配が薄くなっていった。翠蘭は明明に目配せしたしたあと、兄を追う形で歩き出した。
中大門をくぐり抜けたあとも、大小さまざまな門をいくつか通ってどんどん奥へと進んでいくと、三か月ぶりの斎南宮が正面に現れる。
豪華絢爛な斎南宮に明明は目を奪われている。
しかし、翠蘭はすれ違う人々から向けられる好奇の視線や、女官たちの苛立った面持ちの方に意識が向いていた。
(ずっと引きこもっていたから珍しがられるのは想定内。それより、彼女たちは金家、もしくは高家の息がかかった女官ってところかしら。予想以上に歓迎されていないわね。私は彼女たちが仕える主と皇后の地位を争う相手だし、敵視されて当然かもしれないけれど)
翠蘭は頭の中で冷静に状況を判断する。
彼女たちの刺々しい視線に少しも動じることなく、目的地へ向かって淡々と足を進めていたのだが、聞き覚えのある声に名前を呼ばれた瞬間、一気に表情に動揺が広がった。
「李翠蘭!」
武官を数名引き連れて、真っすぐ目の前までやってきた煌月に翠蘭は即座に拱手をするものの、困惑気に視線をのぼらせる。
上機嫌に微笑む煌月を見つめて数秒後、翠蘭は声を振り絞るようにして問いかける。
「……え、煌月様、どうしてここに」
「そなたを迎えに来た」
「はい?」
放置はあっても、こうして煌月自ら出迎えてくれるなんて、想像すらしていなかったため、翠蘭は唖然とし、言葉を失う。
そんな翠蘭になどお構いなしに、煌月は嬉しそうな笑みを崩さず続けた。
「あなたが来るのを心待ちにしていた。ひとりで後宮に入るのはさぞかし心細いだろう。俺が居所まで付き添おう」
「……そ、そうでしたか。お気遣い感謝申し上げます」
煌月のまるで愛しい相手へ向けるような言い方に、若干ではあるがわざとらしさを感じ、翠蘭は穏やかに微笑みを返しつつも、心の中で小さく毒づく。
(煌月様、もしかしてわざとおっしゃっている? いったい何を考えているのかしら。女官たちもさらに不機嫌になっているじゃない。これじゃあ、金家と高家からの嫌がらせは避けられないわね)
少し先にいる女官たちの様子を横目で確認していたが、ふっと浮かんできた考えに、翠蘭はハッとし、わずかに動きを止める。
(むしろ、それが狙い?)
心の内を探るかのように煌月へ視線を戻し、しっかりと目を合わせた後、微かに口元に笑みを浮かべた。
それに煌月もにやりと含み笑いを返す。
「さあ、行こう」と告げて、煌月は先陣を切って歩き出したが、思い出したように振り返った。
「お前たちはここまででいい。後宮の門をくぐれないのだから」
煌月からの言葉に武官たちは不満の顔をする。
けれど、「後宮の門をくぐれない」と言われてしまうと返す言葉もなく、渋々ではあるが命令に従うように頷き返し、その場で動きを止めた。
皇帝、皇子、宦官を除き、基本的に後宮は男子禁制だ。
有事の際は武官も後宮内に入れることになっているが、平時に中に入ることは許されない。
一方で、親族ならば面会も許され、門のすぐ向こうに設けられた小部屋までは男性であっても入ることができる。
つまり翠蘭がいれば、汀州もそこまで立ち入ることができるのだ。
翠蘭は武官たちからの視線を感じ取り、ゆるりと顔を向ける。
彼らのむっとした面持ちから歓迎されていないことがしっかりと伝わってきて、翠蘭はすっと目を細める。
翠蘭の冷淡で鋭利さのある迫力に武官たちは息をのみ、それぞれが視線を逸らしたところで、煌月が「翠蘭」と呼びかけた。
翠蘭も正面へと顔を向け、すでに歩き出している煌月と汀州に向かって姿勢正しく歩き出した。
汀州は自分たちに追いついた翠蘭へと労わりの視線を向ける。
女官や武官たちから十分に離れたところで、煌月に対してぼやき出した。
「先に後宮入りした皇后候補者たちの出迎えはされなかったのですから、翠蘭の迎えも不要だと申し上げましたよね」
「確かに聞いた。しかし、出迎えた方が面白いと思ったからそうしたまでだ」
「何が面白いのですか。女官や護衛たちが翠蘭に向ける敵対心いっぱいの目つきをご覧になりましたか? 煌月様が翠蘭を気に入っていると勘違いされ、可愛い蘭玲がいじめられたらどうしてくれるんですか」
あっけらかんとしてる煌月に汀州の文句が止まらなくなってきたところで、翠蘭は後宮へと続く門を視界に捉えた。
「煌月様、お兄様、その場でお待ちを」
翠蘭に弾んだ声で呼び止められ、汀州と煌月は立ち止まる。そんな男ふたりの横を翠蘭は目を輝かせて通り過ぎていった。
男ふたりはその姿を追いかけるように門へと視線を移動させると、汀州は小さく「あっ」と動揺の声を発し、煌月も違和感を覚えたように眉根を寄せる。
翠蘭は門を潜り抜けると同時に軽く手を払う。
その瞬間、煌月は風圧を感じ、目を大きく見開いた。
「……結界……いや、呪を打ち破った?」
門から数歩進んだところで、翠蘭がくるりと踵を返し、煌月の疑問に笑顔で答えた。
「はい。どなたかが私の後宮入りがお嫌だったのでしょうね。……でも今は、恐れ多い勘違いも、手荒い牽制も、大歓迎です。早く私の元に悪鬼を送り込んで欲しいもの」
翠蘭の楽しそうな表情から、それは強がりなどではないのがわかり、煌月は噴き出し笑いをし、汀州は苦笑いを浮かべる。
「兄と違って、薄命の月華は気高く、頼もしいな」
煌月は汀州にぼそり嫌味を投げかけてから、門の向こうで待っている翠蘭に向かって歩き出した。




